8 にじみ
春の雨が、窓を伝って落ちていく音がしていた。
彼女は学校から帰ると、制服のまま僕の部屋に来て、ソファに沈み込んだ。かばんはその足元に置かれ、傘は玄関に立てかけられていた。
「今日、褒められた。先生に」
彼女は照れくさそうに言った。
「ノート、ちゃんと取ってたって」
「……すごいな」
僕は本当にそう思っていた。彼女がひとりで歩き出してからの変化は、目に見えてあった。
でも、言葉を選びすぎる僕の返事は、どこか頼りなくて。
「日向さん」
名前を呼ばれて、僕は本を閉じた。
「なんで、そんなに静かにするの」
「……静かに、って?」
「わたしのこと、気づかないふりしてる。最近ずっと」
彼女はまっすぐこちらを見ていた。表情は落ち着いていたけれど、その奥に揺れるものが見える気がした。
「そんなつもりは——」
「じゃあ、なんで触れないの」
声に熱がこもっていた。
僕は返す言葉を失った。
昨夜、眠る前に手を伸ばされ、僕はその手を握り返した。それがどういう意味だったのか、どう返すべきだったのか。
答えを見つけられないまま、ただ日常を繰り返していた。
「ずっとこのままなら、安心なのにって思ってるでしょ。でも、わたしは、進みたいの」
「沙良……」
「わたし、子どもじゃないよ」
その言葉に、胸がざわついた。
僕の中にある理性と感情の境界線。その境がいま、大きくにじみ始めていた。