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5 まどろみと輪郭

 午後の光は、春のくすんだ金色をしていた。


 部屋の奥、ソファに沈み込む彼女の輪郭が、光に溶けるように揺れていた。眠っているのか、まどろんでいるのか、その境目のような顔つき。


 彼女は、僕が祖父から譲り受けた革張りのソファに、膝を抱えるようにして座っていた。深く沈み込む身体、小さく揺れる足先。あの頃より大きくなったはずなのに、そこにいる姿はなぜか、変わらず小さく見えた。


 僕はキッチンの奥で、静かに湯を沸かしていた。電気ケトルの音と、換気扇の低い唸りだけが部屋を満たしていた。


「……起こしちゃった?」


 ふいに声がして、振り向くと彼女が目を擦ってこちらを見ていた。


「いや。もうすぐ沸くから、紅茶にしよう」


「うん……」


 彼女は頷きながら、ソファの上で少しだけ姿勢を正した。膝を崩し、両手を膝の上に揃えて置く。その動作が、年齢以上におとなびて見えた。


 マグカップにティーバッグを落とし、湯を注ぐ。

 蒸気が立ちのぼると、ふわりとした香りが部屋を変えた。


「バターの匂いじゃないんだね」


「たまには、違う香りもいいだろ」


「うん。……でも、あれも好き」


 ソファの上、彼女は湯気越しに笑った。


 その笑顔に、僕は何も返せなかった。ただ、胸の奥のどこかがふっと浮かび上がって、また沈んだ。


 マグカップを受け取った彼女は、それを両手で抱えるようにして、ゆっくり口をつけた。

 そして、まるで思い出したように言う。


「ここって、前と同じ匂いがするね」


「洗剤も、家具も、変えてないからな」


「ううん。空気、っていうか……うまく言えないけど、落ち着く感じ」


 彼女はそう言って目を細めた。まるで、遠い懐かしさに触れるように。


 僕はその言葉の意味を、正確に理解することはできなかった。ただ、彼女が“ここ”を覚えていてくれたことが、少しだけ誇らしく思えた。


 その夜、彼女は早めに部屋に戻った。

 ドアが静かに閉まる音が、やけに大きく響いた気がした。


 しばらく僕は、その方向をぼんやりと見つめていた。


 目の前には、湯気の消えかけたマグカップと、紅茶の残り香。

 そして壁一枚向こうにある、小さな呼吸の気配。


 ——この部屋の静けさが、あたたかくて、怖い。


 彼女がここにいることが、あたりまえのように感じられる。

 でも、本当はそんなはずがない。

 たった三日前まで、僕の生活には、誰もいなかったのに。


 何もしていないのに、少しずつ侵食されていく感覚。

 ぬるま湯のように心地よくて、抜け出せなくなる気がする。


 彼女の小さな笑顔も、ふと見せる無防備な視線も、

 どうしてだろう、最近はまっすぐ見られなくなってきた。


 このままでは済まない。


 それが、どんな意味なのかは、まだわからない。

 けれど確かに、僕の中で何かが変わり始めているのを感じていた。

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