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4 この家に、もうひとつの部屋ができた日

 台所に立つ彼女の背中を見ながら、僕は湯を沸かしていた。


 鍋の中では味噌汁が静かにゆれていて、その匂いが部屋の空気を少しだけ柔らかくしていた。


 彼女はインスタントの味噌を小さな匙で丁寧にすくい、湯の中に落としてから、お玉でそっとかき混ぜていた。


 粉が溶けると、表面に小さな泡が浮かび、やがてふわりと消える。その様子を、彼女はじっと見つめていた。


「これで、いい?」


 不安げな声だったけれど、どこか楽しそうでもあった。


「ああ。十分、上手だよ」


 そう返すと、彼女はほんの少しだけ、口元をほころばせた。その笑顔が、思いのほか静かに、僕の胸に残った。


 食卓には、ご飯と味噌汁と、昨晩の残りの煮物が並んでいた。どれも簡素で、ささやかなものだったけれど、彼女はきちんと手を合わせて「いただきます」と言った。


 ふたりで並んで食べる食卓。かすかな箸の音。湯気が漂い、湯飲みがコトリと鳴るたびに、部屋の空気が少しずつ「生活」という名前に近づいていく気がした。


 食後、彼女がふと口を開いた。


「部屋、ひとつ借りてもいい?」


 その言葉に、一瞬だけ僕の手が止まった。


「もちろん」


 即答したけれど、少しだけ驚いた。僕はてっきり、このままリビングのソファで寝続けるものだと思っていたから。


「そろそろ、自分の空間がほしいかなって」


 彼女はそう言って、目を伏せた。


 その言い方が、自分の存在を小さく畳んでしまおうとするように思えて、胸の奥に薄く、鈍い痛みが広がった。


「君の部屋だよ。好きに使っていい」


「……ありがとう」


 彼女はすっと立ち上がり、洗い物を始めた。その動作は、何もかも手慣れてはいないけれど、どこか覚悟をにじませているようだった。


 その夜、彼女が自室に入ってから、僕はリビングにひとり残って、照明を落とした部屋で本を開いた。けれど、文字はほとんど頭に入ってこなかった。


 ページをめくる音が、やけに大きく響く。


 たぶん、それは耳が隣の気配を探していたからだ。


 壁越しに、布団の擦れる音がかすかに聞こえた。


 その瞬間、肩がほんのわずかに動いた。


 僕の部屋に、誰かが眠っている。

 同じ屋根の下に、誰かが静かに呼吸している。


 その事実が、どうしようもなくあたたかくて、同時に、どうしようもなく怖かった。


 心が、少しずつ深い場所に沈んでいくようだった。


 沈黙という名の温度の中で、僕の何かが、じわじわと輪郭を失っていく気がした。

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