2 ただいま、の距離
彼女が再びこの部屋を訪ねてきたのは、それから五年と少し経った春の終わりだった。
玄関を開けたとき、まず目に入ったのは、一足の靴だった。
白地に、かすれたピンクのラインが入った運動靴。あの頃よりサイズはひと回り以上大きく、かかとには土埃がうっすらと付いていた。
その隣には、まるでそこに住んでいた人間のように、彼女がソファに座っていた。
視線が合う。
声をかけるより先に、彼女の方が口を開いた。
「ただいま」
まだ高い声だった。けれど、幼さはもうない。
言葉の端に残る呼吸の抑揚、口の動き、目の奥の沈み方。そのすべてが、五年前にいた少女とは違っていた。
髪は肩に届くくらいに伸びていて、耳にかけた左側のもみあげが、微かに濡れて光っていた。
制服の襟は少し乱れていて、袖口に指を引っ掛けるようにして両手を握っていた。
小さな身体はそのままに、骨格や姿勢に、どこか“大人びた気配”がにじみ始めていた。
あまりにも自然に、まるで昨日もここにいたような顔で。
「……おかえり」
反射的にそう返した。言葉が勝手に喉を通って出ていった。
「鍵穴、変わってなかったから」
彼女は、五年前に渡した合鍵を手に持っていた。丸いキーホルダーが、擦れて曇っていた。
僕は玄関を閉めて、靴を脱いだ。
彼女は、僕が何も言わないのを知っていたように、ただ少しだけ息を吐いて言った。
「母さん、病気になったの。……脳のやつ。感情が……壊れたみたいなやつで」
淡々とした声。訓練されたみたいな、感情を乗せない語り方だった。
「どこにも、いたくなかった。でも……ここだけは、思い出せた」
彼女の目が、部屋の隅にある祖父のソファに向いた。かすかに古びたレザーの香りが、揺れた。
僕は静かにうなずいた。
「とりあえず、飯食うか」
そのとき、ようやく彼女は、少しだけ笑った。