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10/10

10 ここだけ

 春の終わり、彼女はもう一度制服に袖を通し、新学期の支度をしていた。


 机の上には新しい教科書と、昨夜まとめたプリントの束。そして、小さな花瓶の中で揺れているのは、近所の公園で拾ってきた野の花だった。


 僕は朝の支度をしながら、その光景を見ていた。洗いたての制服の背中。ぴしりと揃えられた肩。湯気を受けた髪が、細くふるえている。


 彼女は、静かに成長していた。


「今日、帰り遅くなるかも。会議が長引くと思う」


「うん。ちゃんと鍵、かけとくね」


 そう言って、トーストにかぶりついた彼女の頬が、ぱんと少し膨らむ。その表情に、つい微笑んでしまった。


「日向さん」


「ん?」


「……わたし、もう大丈夫だと思う。でも、ここにいてもいい?」


 僕は少しだけ驚いて、それから目を細めた。


「うん。もちろん。ずっと、いていいよ」


 その言葉を聞いたとたん、彼女はぱっと表情をゆるめて、にぱっと笑った。


 その笑顔が、あの日「ただいま」と言ったときの彼女と重なった。


 変わった部分も、変わらない部分も、全部混ざって、目の前にいる。


 彼女がこの部屋に来た日のことを思い出す。小さな足音。濡れた傘。玄関に揃えて置かれた運動靴。


 そのどれもが、もう過去ではなく、いまの生活の一部になっていた。


 カーテンの隙間から、春の陽が差し込んでいる。


 どこにでもある朝。でも、この場所は“ここだけ”だ。


 彼女が笑っている。僕がそれを見ている。それだけで、世界の輪郭が少し優しくなったように思えた。


 鍵の閉まる音。足音。


 そして静けさ。


 そのすべてが、愛おしかった。

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