1 知らない灯り
彼女がうちに来たのは、秋のはじまりだった。ひんやりした風の中に、まだ夏の残り香が漂っていた。
沙良、まだ幼稚園の年長だ。俺の遠縁の女性——沙良の母親——が、仕事の都合で三週間ほど海外出張になったため、俺の部屋に預けられることになった。
彼女は母親の横にぴたりと立ち、少し緊張した面持ちで俺を見ていた。
「沙良、大丈夫だよね?」
「……うん」
彼女は小さくうなずき、俺の目をまっすぐに見てきた。その真っ直ぐさが、妙に心に刺さった。
彼女の母親は、仕事に向かう直前まで沙良に優しく語りかけ、髪を整えて、ぎゅっと抱きしめてから出て行った。沙良はその背中をじっと見送り、そして何も言わず、こちらに向き直った。
初めての子どもとの生活。準備らしいことはしていない。俺の部屋は、茶と灰の中間みたいな色ばかりで構成されていて、子ども向けの空気はどこにもなかった。
彼女は黙って土間に立ち、小さなバッグを抱えたまま動かない。
「……こっち」
俺はそう言って廊下を歩き出す。振り返らなくても、かすかな足音がついてきた。
彼女は革張りのソファにちょこんと座る。
祖父から譲り受けた古いそれは、年季の入った革が琥珀のような艶を帯びていて、沙良の小さな身体は深く沈み、まるで包まれているようだった。
彼女の足はまだ床に届かず、宙に浮いてぶらぶら揺れている。
「お腹、空いた?」
小さくうなずく。
冷蔵庫を開けて、卵とご飯を見つける。卵焼きとおにぎり。簡単な夕飯。
彼女の前に皿を置くと、彼女は箸を両手で持ち、卵焼きをひとくち食べた。
「……おいしい」
その声に、不意に胸が温かくなる。あまり感情の起伏を表に出す性格じゃない俺が、それでも微かに笑ってしまうほどだった。
寝る準備をして、布団を敷いた。部屋の灯りを消す直前、彼女が小さな声で言った。
「ここ、こわくないね」
「そっか」
俺は静かに返し、電気を落とした。
彼女の母親が言っていた通り、沙良は落ち着いた子だった。でもその夜、眠りかけた頭の中で、ふと思った。
——三週間だけ。
だけど、それでも、何かがきっと変わる気がしていた。