【3】アテマの1日[1]
アテマの朝はとても気持ちが良い。草原から生まれる風が、穏やかに通りを吹き抜ける。涼やかな空気に頬を撫でられ目覚める町は、徐々に活気に溢れていった。
ウーヴェの露店に行くと、五人はもう店の準備をほとんど終えているようだった。楽しげにお喋りをしている。
「おはようございます」
「エレンさん」と、ウーヴェ。「おはようございます」
「今日は何かご用はありますか?」
「そうですね……いまのところは特にないと思います。そうだ。魔導書の練習をしに行かれてはいかがですか?」
そういえばそうだ、とエレンは魔導書を見た。数ページパラパラとめくっては見たが、まだ実際に使ったことはない。実戦のときのために使えるようにしなければならない。
「僕でよろしければお教えしましょうか」
少し素っ気ない声でハンネスが言った。それはエレンにとって意外な申し出だった。ハンネスはあまり自分とジークベルトに関心がないと思っていたからだ。
「よろしいのですか?」
「魔導書は魔法と違って少しコツがいるんです」
「教えていただけるのはとてもありがたいです」
「では草原に行きましょう」
そう言ってハンネスが手にしていた箱をフォルカーに押し付けるので、フォルカーは少し不満げな顔をした。しかしそれを微塵も気に留めず、ハンネスは先を歩き出す。マイペースなのだと笑いながら、エレンもそれに続いた。
「ついでに依頼を受けてはいかがですか?」
ジークベルトを振り向いてハンネスが言った。
「ああ、そうだな」
「では先に冒険者ギルドですね」
町から朝の微睡は消え、人々が忙しなく行き交っている。大人たちは仕事へ、子どもたちは学校へ向かっているのだろう。主婦たちは家の中で駆け回っているに違いない。
エレンは仕事というものに疎い。父から街の統治という仕事を受け継いだはずだが、公爵家の現状からそれを遂行することは困難だった。叔父が持って来た雑務をこなすことはあったが、どこにいても命を狙われていたため満足に仕事をできたことはない。本来ならエレンひとりで担うべきのものだろうが、結局のところ叔父に任せきりだった。
冒険者ギルドは、相変わらず多くの人で賑わっている。ここで依頼を受けるのも立派な仕事だ。ようやく得ることのできた仕事に、エレンは内心で喜びを覚えていた。
「魔術の練習ってことは」ジークベルトが言う。「ランクの低い魔物の討伐でいいか。ポケットラットでいいだろ」
「同じ依頼が出されることもあるのですね」
「ポケットラットなんかの討伐依頼はいつでもある。害獣というわけじゃないが、いると鬱陶しいからな」
「小型の魔物は繁殖力が高いですから」と、ハンネス。「小まめに間引きをしないと増えるばかりなんです」
「それと、駆け出しの冒険者の経験値稼ぎ用だな」
なるほど自分にぴったりだ、とエレンは思った。自分は冒険者を名乗れないが、おそらくジークベルトとともに依頼をこなすことはこの先にもあるだろう。ジークベルトが高い能力の持ち主であることに間違いはない。それについて行くためには、実力をつけていくしかないだろう。
「やあ、今日はハンネスも一緒なんだね」
依頼の受付に出て来たフロレンツが朗らかに言った。どうやらハンネスとも顔見知りのようだ。
「魔導書の練習に付き合っていただくんです」
「それは素晴らしい。魔術の練習なら草原の東側に行ってごらん。ポケットラットに加えてグリーンウォンバットがいるはずだ。いい練習台になると思うよ」
「ありがとうございます」
「ポケットラット以外の魔物を討伐できたら、報酬が総額されるよ。好きなだけ狩りをして来るといい」
「はい」
朝の草原は清々しく、まだ涼やかさを残す風が心地良い。
「草原はあまり安全な場所ではないのですか?」
「そこまで危険はない」と、ジークベルト。「小型の魔物はいるが、ここには強い魔物はいない。ポケットラットやらグリーンウォンバットやらは、向こうから襲い掛かって来ることはないからな。自分の弱さは知っている」
「なるほど。のんびりするには良さそうですね」
「今日はのんびりしに来たわけではないですよ。練習を始めましょう。炎の書でしたね。まずは開いてみてください」
「はい」
エレンは胸の前で炎の書を開いた。その途端、彼を中心に炎の波が渦巻いた。エレンは、おお、と感嘆を上げる。
「火力が強すぎです」ハンネスが言う。「それでは周囲を巻き込む可能性があります。指先に意識を集中させて、魔導書の力を外に放出するイメージです」
「なるほど」
エレンが言われた通りのイメージを頭に思い浮かべていると、がさっと草むらが揺れた。ポケットラットが顔を出し、口をもぐもぐさせながら辺りを見渡している。それに続くように、さらに四匹がひょこっと立ち上がった。
「ちょうどいいですね。ポケットラットを倒すのに適している魔術は『ファイアアロー』です。一番に簡単な魔術ですね。魔導書の力を矢のように放出するイメージです」
ふむ、と頷いたエレンは、本を持つ指先に意識を集中させる。なにか温かいものが伝わってきた。頭の中で矢をイメージし、すっと意識をポケットラットに向ける。すると魔導書から溢れた光がエレンの頭上で瞬き、五本の矢になってポケットラットの体を貫いた。キッ、と短い断末魔を上げた五匹は、炎に包まれ灰となって消えた。
「できました」
エレンが振り向くと、ハンネスは渋い顔をしている。首を傾げるエレンに、彼は重々しく溜め息を落とした。
「頭の中、どうなってるんですか」
「え?」
「本当に碍魔の仮面なんですか? まあ……魔導書と相性が良かったということなんですかね」
ハンネスは呆れたように言う。エレンは何に対してそんな顔をしているのかわからず、また首を捻った。
「ファイアアローは普通、頭の中で放出のイメージを固めたあと、手で狙いを定めて落とすものです。その動作をしないで対象に魔術を当てるのは至難の業ですよ」
「そうなのですか……。魔導書から伝わってきたイメージをそのまま放出しただけなのですが……」
「……まあ、元々の魔法の力が規格外なんでしょうね。それと、火力を抑えないと爪が採取できません」
「あ、そうでした。難しいものですね……」
エレンは自分の魔法について把握していない。六年前より以前の記憶は曖昧だし、この六年間はまともに魔法を使っていない。魔法使いの中には生活に魔法を使う者もいるが、エレンの生活に魔法は必要なかった。そのため、自分の魔法の力を把握する機会がいままでなかったのだ。
「もう教えることがないので僕は帰ります」
溜め息混じりにそう言って、ハンネスはふたりに背を向ける。エレンは思わずその背中に呼び掛けた。
「ひとりで帰れますか?」
「子ども扱いはやめてください」
素っ気なく言って、ハンネスは町へ戻って行った。
「拗ねましたね」
「呆れたんだ」
ポケットラットを新しく十体、たまたま見つけたグリーンウォンバットの三体を討伐するのはあっという間だった。ハンネスの言っていた通りに手で狙いをつけてみたが、それより最初の方法のほうが確実に倒せる。おそらくこの使い方がエレンに合っているのだろう。火力を抑えることはすぐにできた。伝わってくる力を制御するだけだ。
「あんまり人前で使うなよ」ジークベルトが言う。「それだけ魔術が使える者はあまりいない。目立つ」
「ですが、僕も戦えるようになったほうがいいのでは……」
「場合によっちゃそうかもしれねえが、基本は俺ひとりで充分だろ。言われた方法で魔術を使うことができねえってことは、魔術の制御ができてねえってことだからな」
「なるほど……。確かに、どんな状態でも使えるようにならなければいけないですからね……」
「そういうことだな。まあ、難しいことじゃないだろ」
冒険者はみな、こうして自分で戦う術を身に付けていくのだ、とエレンは思った。それは生きるための術でもある。冒険者として活動していくためには、その術が必要なのだ。
「外の世界には僕の知らないことばかりですね」
新しい知識が増えることは嬉しいことだった。そうして自分の世界が広がっていくと、不思議なことに生きている実感が湧く。生きていくというのは、こういうことなのだ。
「貴族には縁遠い世界だろうしな」
「まったくもって興味がなかったのに不思議ですね。いまでは、屋敷を出て良かったと思っています」
「よかったな。連れ出した甲斐があるってもんだ」
たとえ仮面で自分を覆い隠していたとしても、この世界でなら生きていけるのだ。この六年間がいかに色褪せていたかがよくわかる。もしかしたら、縛り付けてしまった使用人たちも、同じように思っていたのかもしれない。自分が自由を得たように、使用人たちもそうであったなら良い。こんな清々しい気持ちを、彼らも感じていることを願った。




