【1】ファル公爵の旅立ち[3]
どうぞお大事に、と深々と辞儀をして医師が部屋から出て行くと、ジークベルトが険しい表情で戻って来た。
「殺鼠剤だそうです」エレンは言った。「まるで小説ですね。医師が解毒の魔法を使えて助かりました」
「…………」
解毒の魔法は有用性が高いが、使用したあと体に多少のだるさが残るのが玉に瑕だ。ベッドにもたれるエレンのそばに立ち、ジークベルトは小さく溜め息を落とす。
「護衛を雇い入れたことで、焦って行動を起こしたか」
「そういうことでしょうね。さすがに毒を盛られるのは想定外でした。完全に油断していましたね」
食事に細工をされる可能性は、考えていなかったわけではない。ただ、それはかなりリスクの高いことだ。すぐに犯人はわかるだろう。その危険を冒したとしても、エレンの暗殺を遂行したかったということだ。いままで行われなかったことが起きたというのは、ジークベルトがこの屋敷に来た影響を受けたということだろう。毒を盛られることは、いかに優秀な護衛でも止めることができないからだ。
「……毒を盛るのは強行手段だ」ジークベルトが言う。「お前はこの屋敷に居続けることはできないんじゃないか?」
「……どうでもいいです」
エレンが小さく言うと、ジークベルトの眉がぴくりと震えた。エレンは自嘲気味な笑みを浮かべる。
「使用人は全員、信用しているつもりでした。運良く助かってしまいましたが、やはり私が死んだほうが都合の良い者が多いようです。でも私には行く場所がありません。この屋敷を出たところで、路頭に迷うだけです」
「…………」
ジークベルトは眉間に深いしわを寄せたあと、不意にきびすを返した。おもむろにドアの外の衛兵に声を掛けると、かしこまりました、と衛兵が応えるのが聞こえた。戻って来たジークベルトにエレンが首を傾げても、彼は応えず椅子に腰を下ろし、黙ったままだった。
* * *
衛兵の声でエレンは目を覚ました。どれくらい眠っていたのだろう。体のだるさはすっかり取れている。
衛兵に声を掛けて戻って来たジークベルトが、エレンの膝に箱を放った。エレンが首を傾げていると、ジークベルトは椅子に腰を下ろし、静かに口を開く。
「爵位を放棄する気はあるか?」
エレンは言葉に詰まった。彼の意図が読めない。
「その気があるならこの場で放棄しろ」
「……それはできません」
以前、叔父にも同じ質問をされたことがある。もしエレンにとって爵位が重荷なら、他の人間に預ける方法もあると叔父は言った。秘密裡に事を進めれば、エレンが爵位を持たないと知られず預かった者の命が狙われることもない。しかしそれでは状況は変わらない。他人を巻き込む可能性は排除するべきだと、エレンはそれを断った。彼の命を狙う者にとって、エレンが爵位を有しているかどうかは関係がないのだ。危険はすべて自分が請け負う、それでいいとエレンは思っていた。そうするのが最善だと。だが、そう自分に言い聞かせていただけだったのかもしれない。そうでなければ、これほどまでに心が揺さぶられることもないはずだ。毒で体が弱っているせいだろうか。それとも、ジークベルトの鮮やかな青色の瞳に、心の奥底まで見透かされているような気分になるからだろうか。
「爵位の放棄は争いを生みます。正当な後継者が継承しなければなりません。中途半端な放棄はできません」
「それなら、この屋敷を出るぞ」
エレンはジークベルトを見上げた。もともと表情が読み取りにくいと思っていたが、何を考えているかがわからない。だが、とても真剣な表情をしている。
「ここにいるから命を狙われる。屋敷の者を散開させろ」
「……ですが……」
「なにもクビにしろを言っているわけじゃない。使用人だってここにいないほうが身の危険は少ないだろ」
確かに、屋敷に石が投げ込まれるのは使用人にとっても危険なことだ。命を狙われているのがエレンだけだったとしても、使用人に危険が及ぶ可能性は高い。
再び言葉に詰まるエレンに、ジークベルトは彼の膝に置いてあった箱を開いて見せた。その中に入れられていたのは、白いフルフェイスの仮面だった。
「これは……?」
「碍魔の魔力が込められた仮面だ」
それは魔道具に付与される効果のひとつだ。碍魔の魔道具を身に着けていると、魔力を封じることができる。つまり、碍魔の魔道具を身に着けていれば、魔力を感知されることがないのだ。魔力を隠し、さらに仮面を装着していれば、その正体が容易に知られることはないだろう。
「狙われるのなら、逃げればいい」
真っ直ぐに投げられる強い言葉に、かすかに目眩を覚える。この六年、自分とこれほどまでに真剣に向き合ってくれた者はほとんどいない。叔父くらいのものだ。それも、自分が逃げていただけなのかもしれない。
「……私は……」エレンは俯いた。「……公爵家には、父の罪の呪いが付与されました。その贖罪をしなければ……」
父の犯した罪は重い。父の命だけでは足りないと思う者が多いのは致し方ないことだろう。それにより自分が命を狙われることは、当然のことと言える。
「その贖罪はいつまで続くんだ」
エレンはハッとした。たとえ自分が殺されたとしても、それでも足りないと思う者がいるかもしれない、ということだ。贖罪という呪いを、自分の次に爵位を継いだ者にも継承してしまう可能性があるのだ。
「そうやって背負った罪をどうするつもりだ? 父親の罪は父親の死で贖われたはずだ。父親の命で気が済まない者の恨みが、お前に罪の意識を刷り込んでいるだけだ」
「……それは、そうかもしれませんが……」
エレンは言葉を続けることができなかった。
ジークベルトは、呆れたように小さく息をつく。
「とりあえず、王都を目指す」
「王都ですか?」
「目的は公爵位の撤廃だ」
力強く言うジークベルトに、エレンは目を丸くした。
「そんなことができるのですか?」
「知らん。だから行くんだ。王に会いに」
「…………」
爵位の撤廃。それはいままでに聞いたことのない事例だった。貴族社会において、爵位は当然としてある制度だ。それがなければ社交界は成り立たない。爵位の撤廃、それは公爵家をエレンの代で終わらせるということだ。
「王が、お前の父親の罪をお前が負わなければならないと判断したら、お前はそこで首を斬られればいい。その必要がないと王が判断すれば、それで終わりだ」
エレンは激しく心が揺さぶられていた。この六年、こんなことを言ってくる護衛はいなかった。いままで叔父が連れて来た護衛は、一ヶ月と待たずに彼のもとを去って行った。彼は、いままでの護衛とは遥かに違う。
「ここで死んだように生きていて良いのか。お前は、お前の人生を生きたくないのか」
「……私に、それが許されるのでしょうか……」
「俺が許す」
「…………」
強い意志を湛えた声に、胸が締め付けられた。エレンの未来、過去を真っ直ぐに見据える瞳が、エレンの中の枷を解いていく。彼の言葉はまごうことなき真実だった。
ただすべてを諦めているだけだった。自由になることは許されないと、そう思い込んでいただけだ。父の罪が自分のものであると刷り込まれ、爵位を狙う貴族に命を脅かされることも致し方ないことだと、そう諦めていたのだ。
エレンは顔を上げ、衛兵に呼び掛けた。
「叔父貴を呼んでください」




