【7】宇宙の日[6]
「明日の朝に出発するので、支度をしておいてください」
そう言って、おやすみの挨拶をしてウーヴェたちは宿の部屋へ戻って行く。明日でこのベイレフェルトともお別れかと思うと、エレンは少し寂しい気分になった。
ふたりが部屋に戻ったとき、がたりと窓が開く。一瞬だけジークベルトが警戒する体勢になるが、すぐにそれを解いた。窓から入って来たのはレイクだった。
「俺も入っていいんスかね」
「ええ、どうぞ」
レイクはまだエレンとジークベルトに心を開いている様子はなく、警戒している気配がある。敵と見なされてはいないが、完全に味方になったというわけではないのだろう。
「とりあえず、久々に会った僕の友人という体でいてください。隠れてついて来ることはできませんから」
「それで、あんたたちと一緒にあの商人たちについて行くってわけ? ひとり鋭いやつがいるみたいだけど」
「ハンネスくんは誤魔化せないかもしれませんね。ジークベルトの友人のほうが自然でしょうか」
「それは嫌だ」
「そうですか」
エレンが小さく笑うと、レイクは肩をすくめた。ジークベルトの鋭い眼光に、まだ居辛そうにしている。
「僕の友人として自然な服装をして来てください」
「それってどんな服装なわけ」
「いまより派手さを抑えた服装、でしょうか」
レイクの服装は、冒険者と言うには少々華美だ。赤を基調とし首元を毛皮で飾ったベストが、護衛で商人とともに旅をする者としてはかなり目立つだろう。
「それから、僕たちを見張っていたときのような気配は消せるのでしたね? それを三分の一ほどにしてください」
「どんだけ注文つけんだよ」
「気配を完全に消していては不自然ですから。それでも、ハンネスくんは誤魔化せないでしょうが」
レイクがエレンとジークベルトの追跡者であることは、ハンネスにはすぐに気付かれてしまうだろう。その彼を同行させることは訝しむかもしれない。それでもおそらく、エレンが彼を同行させると決めたとわかれば追及してくることもないのではないかと思われる。
「あいつ、ほんとに商人なの?」
「どうでしょうね」
レイクが宿の外で気配を放出したとき、それに気付いたのはハンネスだけだった。本当にただの商人であったなら、他の四人と同様に察知することはなかっただろう。
「一応、聞いとくけどさ」と、レイク。「あんたの行方を追ってるやつらはどうするわけ?」
エレンが屋敷を出たことは、先日の新聞に載っていたくらいだ。おそらく屋敷を見張っていた者たちが追って来ているだろう。レイクはその気配を察知したのだ。
「ウーヴェくんたちに害がないなら放っておいてください。どうせ僕にはたどり着けないですよ」
「すげー自信」
「あなたと同等の実力でないとたどり着けないということです。僕は仮面で魔力を封じているのですから」
小さく笑うエレンに、あっそ、とレイクは興味が薄いような返事をする。エレンがレイクの実力を認めたということに気付いているようだが、特に思うところはないようだ。
「んじゃまあ、明日また来るわ」
そう言ってレイクは窓に歩み寄る。来たときと同じように窓から出て行かなければ、不審に思われるのは目に見えている。特にハンネスには気付かれてしまうだろう。
「レイク」
呼び掛けるエレンに、レイクは窓枠に足をかけながら振り向いた。まだ何かあるのか、と言いたげな表情をしている。エレンは仮面から顔を半分だけ覗かせ微笑んで見せた。
「期待していますよ」
レイクの表情が固まる。そのまま足を滑らせたように窓枠から外へ落ちていくので、エレンは目を丸くした。しかしここは二階だ。難なく着地することができるだろう。
「ところで」エレンは言った。「王都までまだ町をいくつか経由しますよね。いくつあるのでしょうか」
「三つだろうな。フースト、ヘイリンハ、モレナールだ。どの町も、商人にとっちゃ無視できない町だ。それに、冒険者にとっても経験値稼ぎに向いている場所だな」
「そうですか……。あまり旅を長引かせると、叔父貴が疲弊してしまいますね……。しばらく自由に過ごせと言ってくれましたが、叔父貴の負担は相当に高いのではないかと思います。のんびりしているわけにはいかないですよね」
「……お前はいつも他人のことばかり考えてるな」
ジークベルトが呆れたように言うので、エレンは首を傾げた。肩をすくめたジークベルトは、静かに続ける。
「三つ目のモレナールまであいつらにくっついて行ったとしても、屋敷を離れているのは合わせて一ヶ月程度だ。六年も耐えた叔父貴が、一ヶ月を耐えられないと思うか?」
「……ですが……」
言葉に詰まるエレンに、ジークベルトは溜め息を落とす。
「お前は自分の心配をしろ。王都にたどり着いたとき、王がそう判断すれば死ぬのはお前だ。そうなれば、他のやつらがどうとか言ってる場合じゃねえぞ」
「……自分で対処できることは、いまのうちに対処しておきたいのです。何かできることがあるはずです」
「王の判断を聞かないことには、お前にできることはない。俺にもな。いまここでうだうだ考えても仕方ないことだ」
おそらくジークベルトの言う通りなのだろうとエレンは思う。叔父も一ヶ月程度なら持ちこたえるだろうし、ウーヴェたちのことはレイクに任せておけばいい。エレンには、ウーヴェたちの護衛を遂行し王都に向かうより他に手立てはない。そのあとのことも、エレンだけの力でできることは限られている。ともすれば、できることはないかもしれない。噂が耳に入らない限り、ウーヴェたちがエレンと別れたあとのことを知る由はない。どんな判断が下されても、叔父なら自分で対処できるだろう。いくらエレンが心配しても仕方のないことだということはわかっている。
「あいつらは、お前が王都を目指している理由は知らない。叔父貴は処刑される可能性があることも頭に入っているはずだ。お前が心配することは何もないだろ」
「…………」
「それに、この旅がすぐ終わってしまうのは惜しいって言ってたじゃねえか。急いでもいいことはねえぞ」
商隊を転々として王都に向かえば、旅が終わるのはすぐだろう。ここで別れればウーヴェたちへの影響も最小限に留めることができる。叔父が解放される日も遠くないだろう。だがジークベルトの言う通り、旅がすぐに終わるのは惜しい。この美しい世界を目に焼き付けたいと、旅を始めてそう思ってしまった。それはいまでも変わらない。
「ひとつ忘れてねえか」ジークベルトが言う。「お前が自由に生きることをこの俺が許した。自由にして構わねえんだ」
「……そうですね」エレンは頷いた。「ですが、これは僕のわがままです。付き合っていただけますか?」
「報酬分はな」
ジークベルトは不敵に笑い、肩をすくめる。安堵して微笑むエレンに、そういえば、とジークベルトが言った。
「あいつの報酬はどうする」
「そうでした。叔父貴に報せなくては」
エレンはアンチマジックドールを呼び出し、紙を手に取った。アンチマジックドールはエレンが手紙を書くあいだ、彼の肩に止まって大人しく待っている。
「なんて報告するつもりだ?」
「護衛が増えた、というだけでいいでしょう。私を守る人は多いに越したことはないでしょうからね」
「勝手に雇ったことになるがいいのか?」
「叔父貴は寛容ですから」
「諦めじゃねえの」
呆れたように言うジークベルトに、エレンは悪戯っぽく笑って見せた。そんな彼に、ジークベルトはまた肩をすくめる。何を言っても無駄だと思っているのかもしれない。
* * *
翌朝。身支度を整えてエレンとジークベルトが宿の受付へ行くと、よお、と軽快な声が掛けられた。
「下りて来んの遅くね?」
待ちくたびれたぜ、と肩をすくめるのはレイクだった。
「お待たせしてすみません」
「まあいいけどさ。それより、どうよ?」
レイクがどんと胸をたたく。彼の服装は昨日までの華美なベストと打って変わって、茶色を基調とした冒険者らしい格好だ。これならエレンと並んでいても違和感はない。
「素晴らしいです。あなたは優秀な方ですね」
「服装を変えただけでそんなに褒められても困るんだけど」
「昨日の服装のセンスがアレでしたので……」
「しばくぞコラ」
エレンに掴み掛ろうとしたレイクをジークベルトが鋭い眼光で制したとき、ウーヴェたち五人が受付に出て来た。
「おはようございます。……あの、その方は……?」
ウーヴェが困惑したようにレイクを見遣る。彼の背後でハンネスが険しい表情を浮かべていた。
「僕の古い友人です。もしご迷惑でなければ、旅の仲間に加えていただけませんか? 邪魔にはならないと思います」
邪魔って、とレイクが不満げに呟くのをエレンは仮面の下に笑顔を張り付けて流した。ウーヴェは少しのあいだ視線を彷徨わせたあと、小さく頷く。
「わかりました。そういうことでしたら……」
自信がないような表情をしているが、ウーヴェはおそらくレイクを敵ではないと判断したのだろう。果たして味方だと思っているかはわからないが。
ウーヴェの後ろで、ハンネスが呆れたように息をついた。
* * *
宿の馬車の停留所に見送りに来たディータが、エレンに紙を差し出した。丁寧に封蝋がされた茶色の封筒だ。
「紹介状だ。次の町の道具屋で出しな」
「ありがとうございます。どうも、わざわざ……」
「可愛い弟たちの護衛だ。なんの足しにもならないかもしれねえけどな。希望に沿えなかった詫びだ」
「お気になさらずとも良かったですのに」
「いいってことよ。これからも弟たちをよろしくな」
「はい。無事に王都まで送り届けます」
「頼んだぜ」
ひとり増え八人になった一団を乗せた馬車を、ディータは町の門をくぐるまで見送った。草原に出てもまだ手を振り続けているディータに、ウーヴェはどこか気恥ずかしそうな表情をしている。羨ましくなるほどの兄弟愛だ。
ベイレフェルトが見えなくなると、街で買って来たのだとフォルカーが丸い弦楽器を取り出した。朗々と歌うフォルカーに、ベイエルとローイは手を叩いて囃し立てる。そうして馬車は賑やかに草原を進んで行った。
ややあって、御者台のハンネスが荷台を振り向いた。
「レイクさんでしたか。せっかく旅の仲間に加わったのですから、ぜひ自己紹介をお聞かせください」
「は? やだよ」
膝で頬杖をつくレイクのにべもない返答に、ハンネスの眉がぴくりと震えた。あわや一触即発という気配に、フォルカーたち三人の空気が凍り付く。
「俺はこの人について来ただけであって、あんたらと馴染む気はないから。そこんとこ勘違いしないでほしいわけ」
「こら! 仲良くしなさい!」
「するよ。表面上は」
先が思いやられる、とエレンは溜め息を落とした
「そういえば」と、フォルカー。「エレンさんとジークベルトさんはずっと旅をしているんですか? ご家族とか……」
「フォルカー」ハンネスが言う。「あまり踏み込んだことを訊くのは失礼です。出発のときに言ったでしょう」
「あ、すみません……」
「いえ、お気になさらずとも大丈夫ですよ」
気落ちしたように見えたフォルカーだったが、次の瞬間には鮮やかな青色の瞳を輝かせて言った。
「実は俺、妹がいるんです。六つ離れてるんですけど、もう可愛いが具現化したような可愛さで……」
「出た」ローイが笑う。「フォルカーの兄馬鹿」
「確かに可愛いけど」と、ベイエル。「お前に似なくて」
「なんだと! あいつは母さん似の美女だぞ!」
「だからお前には似てないって言ってんだよ」
「まあ、俺は父さん似の美男だからな……」
胸を張るフォルカーに、ベイエルとローイは呆れた表情を浮かべる。いつものお決まりのやり取りのようだ。
「そんなに可愛いならご尊顔を拝見してみたいですね」
笑って言うエレンに、あ、とベイエルとローイが声を合わせた。しかしふたりが言葉を続ける前に、フォルカーが表情を輝かせて前のめりになる。
「見ます⁉ ほんとに可愛いんですよ!」
フォルカーはエレンの返事を聞かずに、カバンの中から写真を取り出した。五枚の写真には、満面の笑みを浮かべる可愛らしい少女が写っている。フォルカーは、妹の笑顔は世界一の可愛さで、声も鈴を転がすような可愛さで、とエレンが聞いているかを差し置いて捲し立てている。
「可愛らしいお嬢さんですね」エレンは言った。「……妹の小さい頃に少し似ている気がします」
「妹もいたのか」
「もう何年も会っていませんが」
妹は弟が屋敷を出るより早く親元を離れている。勉強のため国外へ向かい、徐々に連絡も途切れるようになった。最後に手紙が届いたのは、確か三年前のことだ。公爵家の現状を人伝に知り、関係を断ちたいと思っていたのかもしれない。もしそう思っていたとしても、エレンには咎める気はない。自分たちのことは忘れてほしいと思っている。
「俺も行商をしてるから、最後に会ったのはずいぶん前ですよ」と、フォルカー。「早く会いたいなあ……」
「まだ二十日も経っていませんが」
「三日でも長いよ」
冷ややかなハンネスに、フォルカーは唇を尖らせる。余程、妹のことが好きなようだ。果たして妹がどう思っているかはわからないが、ディータの弟に対する愛情に比べると遥かに重いことはエレンにもわかった。
「仲が良いのですね」
「フォルカーは兄馬鹿なだけですよ」
そう言ってウーヴェが笑う。おそらく四人はフォルカーの妹自慢を聞き慣れているのだろう。実際に会ったこともあり、その可愛らしさを知っているのかもしれない。
ふと、幼い頃に弟と妹とともに庭で駆け回った日の記憶が頭の中を過った。貴族の責任がなんたるかをまだ知らなかった頃、毎日が煌めいていたのをいまでもよく憶えている。あの頃のほうがよかったとは思わないが、このすべてが色褪せて見えた六年間が、その記憶を輝かせるのだろう。弟と妹がそれを憶えているなら、嫌な思い出として残っていなければいいのだが、とエレンは思った。
* * *
今日の野営の見張りは自分がやる、とエレンは断固として申し出た。初めは渋っていたジークベルトだったが、経験を増やしたいというエレンの意思を尊重することにしたらしい。それでも、木に体をもたれかけて座ったまま寝ているのだから、エレンはやはり信用がないようだ。
他の五人も穏やかに寝息を立て、夜は静かに更ける。町で買った本を読みながら、エレンは朗々とした風を楽しんでいた。月明かりは仄かに地を照らし、煌びやかな散開星団が美しく輝いている。魔物の脅威も特になさそうだ。
誰かが自分に歩み寄って来ることに気付いて、エレンは顔を上げた。それはレイクだった。
「どうしました? 眠れませんか?」
「いや、一応、聞いとこうと思ってさ」
そう言ってレイクはエレンの右に腰を下ろす。エレンが促すように首を傾げると、レイクはゆっくり話し始めた。
「俺、味方じゃなかったわけじゃん」
「ええ、そうですね」
「なのに簡単に信用していいわけ?」
「敵でもなかったですからね」
レイクはエレンとジークベルトを追跡していたが、攻撃して来たのは宇宙の日だけだ。もしエレンが誘い出さなければ、そのまま飽きて姿を眩ませていたかもしれない。
「それに、あなたは私と敵対することがどう考えても不利益だということがわかっているでしょう?」
悪戯っぽく言うエレンに、レイクは肩をすくめた。
「お人好しだな」
「あなたがそうしないことはわかっていますからね」
「あんたの護衛にはどう足掻いたって勝てねーしな」
「そうでしょうね」
「すげー信頼」
「彼の実力の賜物ですよ」
ジークベルトを雇い入れてから、エレンの命が危険に晒されることはなくなった。ジークベルトが死なない限り自分の命が安全であると、自信を持って言うことができる。
「それに」エレンは続けた。「先に言ったように、私の心臓には魔法が掛けられています。それは周囲を巻き込むものです。あなただって、そう簡単に死にたくはないでしょう?」
「まあね。ここへ来てあんたを敵に回すのは得策じゃない。まあ、そもそも敵だと思ってたわけじゃないしね」
「ただ面白そうだったというだけ、でしょう?」
「あんたの護衛のことはよく知ってる。あんなやつに手を出せると思ってたら命がいくつあっても足りねえよ」
「ふふ……。ですが、面白半分で首を突っ込むのは危険ですよ。これからは控えてくださいね」
「はいはい。せいぜい大人しくしときますよ」
「お前ら、うるせえぞ」
いつの間に起きていたのか、ジークベルトが呆れた表情でふたりに歩み寄って来た。
「見張りは俺がやる。お前らはさっさと寝ろ」
「ちゃんと休めましたか?」
「充分だ」
ジークベルトがそう言って、剣を傍らに腰を下ろすので、エレンとレイクは頷きおやすみの挨拶をして立ち上がった。
夜は密やかに、風は穏やかに。虫の声が心地良く、微睡の中で火を見つめれば夢の誘いに瞼が下りた。暖かな月のもとでの眠りは、悠々たる星空へ泳ぐようだった。




