【1】ファル公爵の旅立ち[2]
ドアがノックされるので、ふたりは話すのをやめた。失礼いたします、と丁寧に辞儀をして入って来た侍女の手には、洗濯に出したエレンの衣類がある。侍女は静かにそれをクロゼットにしまい、また恭しく低頭して出て行った。
「私は今日、死ぬかもしれません」エレンは続けた。「この屋敷は魔法で守られていますが、外ではそうはいかないでしょう。誰かを巻き込むかもしれませんしね」
「……そのための護衛だが」
「ん、そうでしたね。ですが、私はこの屋敷から出るつもりはありません。外には用もありませんし。ですので、ジークベルトさんは自由にしていただいて構いません」
「護衛が対象から離れるわけにいかないだろ」
「ああ、そうですね……。では、庭に散歩でも行きましょうか。ここにいても退屈でしょう」
エレンは本をテーブルに置き、立ち上がる。叔父が、庭くらいなら出られるのではないかと言っていた。久しぶりに庭園を眺めに行くのもいいかもしれない。
部屋の外へ出るのも数日ぶりだろうか。食事は基本的に部屋へ運んでもらうし、書斎に本を取りに行くのも、まとめて持って来るため数日に一度だ。叔父に任される雑務も部屋で済んでしまうし、数年前からの取り組みもここで充分だ。食事を運んで来る使用人は決まっており、普段は数人の使用人としか顔を合わせない。そのためか、すれ違う使用人たちはどこか嬉しそうに挨拶をしてきた。
「……命を狙う者の中に爵位を狙う貴族がいると言っていたが」と、ジークベルト。「爵位は誰でも継ぐことができるのか? 普通は世襲なんじゃないのか」
「そうですね、基本的には。ですので、私の命を狙っている貴族は大抵、親族です。遠い親戚もいるようです」
「そうまでして爵位が欲しいのか」
「私が爵位を持っているのが気に入らないのだと思います」
「それなら、爵位を手放せばいいんじゃないのか?」
「それも考えましたが、他の誰かに公爵位が渡っても、争いは終わらないと思います。それなら、正当な後継者である私が預かっていたほうがいいと判断しました」
「なるほどな」
貴族のしがらみとは面倒なものだ。爵位を持つ家に生まれてしまったというだけで、その地位に縛り付けられることになる。もちろん拒否する方法はいくらでもあるが、無責任だと後ろ指を差されることになるだろう。
爵位の扱いは難しい面が存在することも確かだ。無責任な放棄は、社交界に混乱を招く恐れがある。それを最小限に留めるのが、正当な後継者の継承だ。エレンが爵位を手放すことも可能だが、この現状では控えるのが最善だろう。
「それに……前公爵の罪がありますからね」
ジークベルトは訝しげに眉根を寄せる。
父は六年前、重い罪を犯し王命により処刑された。その罪も処罰も隠すことなく公表され、社交界に大きな影響を及ぼした。罪の発覚から処分までの期間は異例の早さとなったが、父の首だけでは贖罪が足りないと考える者がいる。そういった者がエレンの命を狙っているのだ。
そう話すと、ジークベルトはより怪訝そうな表情になる。
「それは的外れなんじゃないのか。爵位とともに罪を引き継いだと考えているなら、あまりに荒唐無稽だ」
「ただの人殺しであったなら、恨みを買うのも最小限で済んだでしょうね。ですが、父の罪はあまりに重すぎます」
「…………」
父の罪が発覚したとき、一族に動揺が広がった。あまりにも重い罪に、ファル家から公爵位を剥奪することも検討されたと言う。しかし重い罪を呪いとして継承する可能性に怯える、冷静さを持ち合わせた一部の親族たちは、結局のところエレンに公爵位を与えた。父への恨みでエレンの命を狙う者は、おそらく爵位には興味がない。公爵位を狙う者は、公爵家にはもう罪がないと思っているらしい。どちらかと言えば、認識が正しいのは後者だろう。ジークベルトの言う通りに、あまりに荒唐無稽な思い込みである。
庭に出るのは久しぶりだ。庭はこの屋敷の中で一番に危険な場所と言える。何が飛んで来るかわからないからだ。
いち早く反応したのはジークベルトだった。腰に携えていた長剣を素早く振り上げると、激しい金属音が響き渡る。地面に叩き落されたのは、一本の矢だった。
エレンは思わず賞賛の拍手を贈った。
「お見事。素晴らしい動きです」
「動じないお前も大概だ。普通、少しは怯えるだろ」
「慣れてしまいましたので。それにしても、魔力を感知されましたか。なかなかの手練れを用意してきましたね」
叔父が仕掛けた魔法は目眩ませだが、熟練度の高い者の中には、対象者の魔力を感知できるスキルを持っていることがある。それは叔父の魔法を掻い潜ることができるのだ。
「ですが、これで気兼ねなく散歩ができますね」
ジークベルトは呆れたように肩をすくめる。
「エレン様! お久しぶりですね」
庭師のトールが嬉しそうに歩み寄って来た。初老のトールは、エレンが幼い頃から庭の整備を任されている。
「トール。お元気そうでなによりです」
「いつぶりですかな。ハハ、同じ敷地内にいると言うのに」
子どもの頃は、トールの仕事ぶりを眺めるのが好きだった。木を剪定する技術は、見ていてとても楽しくなる。
庭は最も危険度が高いが、トールは庭の手入れをやめようとしない。公爵家に残った十数人のために庭を整えてくれているのだ。監視者はエレンの魔力に狙いを定めてくると考えられているため、おそらく自分に危害が及ぶことはない、とトールはそう言うのである。
「ジークベルト殿。エレン様は我々にとって、この上なく大事なお方です。どうか守り抜いてください」
「……ああ。わかってる」
静かに頷くジークベルトに、トールは安心したように穏やかに微笑んだ。優秀な護衛がいるというのは、使用人にとっても安心感を得られることなのかもしれない。
「そう言えば、ジークベルトさん」エレンは言った。「私の護衛の契約はいつまでなのですか?」
「後継者が決まって爵位を継ぎ、お前の安全が確保されるまでだそうだ。長くかかりそうだな」
「そうですか。早めに片付けなければなりませんね」
それからしばらく、庭園を見て回った。久々に屋敷の外に出たが、太陽に照らされるのはとても気持ちの良いことだった。トールが手を抜かずに整えてくれた庭園も、心を穏やかにしてくれる。いつも部屋から見下ろしていただけだったが、草花の匂いを感じるのは気持ちが安らいだ。そのことで感謝を伝えると、トールはとても喜んでくれた。
* * *
「おかえりなさいませ、エレン様」
廊下の掃除をしていたメイド長が優しく微笑んだ。エレンも笑みを返すと、そうですわ、と彼女は手を叩いた。
「ご夕食は、せっかくですからジークベルト様とダイニングでお過ごしになられてはいかがですか?」
「護衛対象と同じテーブルにはつかない」
ジークベルトが素っ気なく言うので、メイド長は残念そうに眉尻を下げる。エレンは肩をすくめた。
「たまには誰かと食事をともにするのも良いかもしれません。ぜひお付き合いいただけませんか?」
「…………」
「お願いします。今日は叔父もいませんし」
「……わかった」
渋々といった様子でジークベルトは頷く。メイド長は顔を綻ばせ、ご用意いたします、と辞儀をして去って行った。
「すみません、無理を言って」
「お貴族様のわがままには慣れてる」
「そうですか。助かります」
ジークベルトの気負わない態度は、とても気が楽だ。エレンは堅苦しいのが苦手で、これくらいがちょうどいい。
ジークベルトは一切の隙がない。庭園での反応も含めて、熟練度が高いことは経験の浅いエレンでもわかる。おそらく、いままで何人もの対象を護衛してきたのだろう。
斜交いに誰か居たとしても、食卓は相変わらず静かだ。ジークベルトは口数の多い人ではないのだろう。それに加え、今日が初対面だ。まだ楽しく会話をするような間柄でもない。エレンもそこまでの関心はない。おそらく、それはジークベルトにとっても同じことだろう。
パンを千切りながら、エレンはふと思い立って言った。
「ジークベルトさんは冒険者としてやってきたのですか?」
「俺は傭兵だ」
「おや、そうなんですね」
尋ねておいてなんだが、冒険者と傭兵の何が違うのかエレンにはよくわからない。そもそも、冒険者というものもなんなのか、その詳細は知らない。なぜ何もわからないことを訊いてしまったのだろうか。エレンは首を傾げた。
それから特に会話もなく、黙々と食事は続く。相手が叔父だったとしても、多少の世間話をするくらいだが。
それでも、家族以外の誰かが斜交いにいるというのは少し新鮮だった。気のせいかもしれないが、料理にもいつも以上に気合いが入っているように感じられた。
「公爵家の食事はいかがでしたか?」
「悪くないんじゃないか」
「それは良かったです」
部屋に戻ろうと立ち上がったとき、ぐらりと視界が揺れた。足に力が入らず、侍女が悲鳴を上げる。そのまま倒れ、誰かに受け止められたのを感じると同時に意識を失った。




