【6】ベイレフェルト[1]
二日後。夕陽が輝く頃、草原の向こうに低い家屋の建ち並ぶ町が見えてきた。アテマより少し大きい町だろうか。
「あれがベイレフェルトです」と、ウーヴェ。「僕の兄の店があって、今回はそこで出品させてもらうんです」
「ご兄弟がいらしたのですね」
「弟もいますよ。三人兄弟なんです」
「素敵です」
そういえば弟は元気だろうか、とエレンは心の中で呟いた。病気などしていないといいのだが。まだ自分を気に掛けたり、公爵邸を離れたことを後悔したりしていないだろうか。それにより妻子は気を病んだりしていないだろうか。エレンは、三人には何も気にせず暮らしてほしいと願っている。自分が死ぬその日まで、自分のことは忘れていてもらいたい。その報せで思い出すくらいでちょうどいい。
町は木造の家屋が建ち並び、空を赤く染める西日を受けて暖かい雰囲気を醸し出している。町を行き交う人々のあいだには、落ち着いた賑やかさが溢れていた。
馬車を預けて通りに出ると、おーい、と声が掛けられた。
「ウーヴェ!」
それは鮮やかな金髪のはつらつとした青年だった。背が高い上に体格がよく、健康的で活発さが感じられた。
「兄さん」ウーヴェが顔を綻ばせる。「元気だった?」
「ああ。お前は?」
「元気だよ」
ウーヴェがエレンとジークベルトを振り向いた。
「兄のディータです。兄さん、こちらはエレンさんとジークベルトさん。隊の護衛をしていただいてるんだ」
「どうも。弟がお世話になってます」
朗らかに微笑むディータだが、一瞬だけ目を細めたのをエレンは見逃さなかった。おそらく、エレンの仮面を訝ったのだろう。しかしウーヴェが信頼を置いているらしいということに気付き、疑いの心を捨てたようだ。
「今回は三日ほど滞在する予定です」
「もっとゆっくりして行けよ~」
「そうしたいのは山々だけどね」
ウーヴェの答えは、きっぱり「三日で町を出る」だった。温和な性格をしているが、兄に対しては少し手厳しいのかもしれない。兄の弟への愛は一方通行のようだ。残念そうな顔をしているディータも、慣れているように見える。仲の良い兄弟なのだろう、とエレンは思った。
「では、宿の手続きに行きましょう」
兄との久々の再会を果たした感慨は、あっという間に終わる。エレンとジークベルトに言ったウーヴェはさっさと兄に背を向けて先を歩き出した。他の四人は馬車の荷物の整理をするらしい。邪魔をするといけないので、ウーヴェに付いて先に宿へ行ってしまったほうがいいだろう。
ウーヴェの案内で訪れた宿の、二階の端が今回の部屋らしい。宿は三階建てで、アテマで泊まっていた宿より少し立派に見える。部屋も広く、ゆっくりできそうだ。
「ずいぶん良い宿ですね」
「兄貴の口利きだろ」
エレンは仮面を外しベッドに腰を下ろす。シーツは思ってた以上に触り心地が良く、本当に良い宿を用意してくれていたのだと実感した。これも弟への愛の一環だろう。
「素晴らしい兄弟愛ですね」エレンは笑った、「僕も弟に手紙でも書いてみましょうか」
「居場所がわかるのか?」
訝しげなジークベルトに、エレンは手のひらを上に向けて見せる。一瞬だけ魔法紋が開くと、そこに羽がついた銀色の玉が現れた。ジークベルトはまた眉根を寄せる。
「使い魔のアンチマジックドールです」
「なんだそりゃ」
「一切の魔力を放出せず、マナ感知に触れることもなく出没する魔力の塊です。僕の魔力から練り上げました」
アンチマジックドールは任意の場所へ魔法で転送することができる。目標と秘密裡にやり取りをするために使うものだ。誰かに発見されることは一切ない。
「兄弟って魔力回路が似ているんです。僕と似た魔力回路を探していけば、弟にたどり着けるはずです」
「それは弟も同じってことか」
「ええ、そういうことです。ちなみに、僕が死んだら遺書が弟と叔父に届くように設定してあります」
「抜け目がねえな。感心するぜ」
「僕の死は一応、社交界へ影響を及ぼしますからね」
郵送ではそれを外部に発見される可能性がある。しかしアンチマジックドールを使えば、誰にも見つけられることなく弟と叔父に届けることができるのだ。弟も叔父もアンチマジックドールを持っている。弟が屋敷を出るときに、緊急連絡用にエレンが作り上げたものだ。
「今回はやめておきましょう。驚かせてしまいますね」
アンチマジックドールは、飽くまで緊急連絡用のものだ。安易に手紙を出せば、エレンの有事だと思わせてしまう。
「すべてが終わったあと」エレンは続ける。「やはり公爵位は弟が継ぐべきです。……撤廃できなかった場合ですが」
自分は公爵には相応しくない。エレンはそう思う。それは父も同じ考えだった。予め弟に公爵位の継承権を与えたのはそのためだ。本来なら長男であるエレンが継ぐべきなのだろうが、エレンは民の上に立つのには向いていない。
「父の罪はすべて私が引き受けます」
「王がその必要があると判断したらな」
「そのとき私の首が落とされれば、父の罪が消えていないと思う者も、おそらく納得するのではないかと思います」
「……そんなことを考えていたのか」
ジークベルトは呆れて溜め息を落とす。彼は公爵位の撤廃に希望的な観測をしているようだが、エレンはどうしてもそう考えることができなかった。屋敷を出る前、父の罪の贖罪が父の首だけでは足りないと考える者の圧力でエレンもそう思ってしまっている、とジークベルトは言っていた。実際のところ、その通りなのだろうと思う。しかし、それが正しいことのようにも思う。それだけ父の罪は重い。「叔父貴にもそう話して来ました。もちろん、誰も巻き込まないようにします。手筈は整えてあります」
「それを俺が許すと思うか?」
「いくらあなたでも、王命には逆らえないでしょう?」
「俺が王命に従うような人間だと思われてるなら心外だ」
自信を湛えた笑みでジークベルトが言うので、今度はエレンが呆れて眉根をひそめる番だった。
「口には気を付けたほうがいいかと」
「盗聴されてる可能性があるってことか? それなら、俺とお前は揃って処刑台だな」
「…………」
エレンは思わず絶句した。そんなことを言われるとは思っていなかった。重い溜め息が零れてしまう。
「あなたという人は……」
ひたいに手をやるエレンに、ジークベルトはおかしそうにクツクツと喉の奥で笑う。そんな彼の様子に、エレンは脱力した。自分が覚悟を持って屋敷を出たように、ジークベルトもまた、そうして腹を括っていたのかもしれない。
「私は命を懸けてもらうような人間ではありません」
「それは俺が決めることだ。俺の命を懸けるに値する命だと、俺がそう判断した。それだけのことだ」
「……そうですか……」
エレンは小さく息をついた。ジークベルトがそのつもりでいるなら、自分に止めることはできないのだろう、と半ば諦めの境地である。おそらく何を言っても無駄だろう。
「それなら……ひとつだけお願いしたいことがあります」
「なんだ」
「ウーヴェくんたちのことを頼みたいのです。もし私が処刑されることになったとき、私が関わったことによるなんらかの罪に問われることにならないように、彼らを守ってほしいのです。彼らを巻き込みたくありません」
「あいつらがどう動くかまでは操れねえぞ」
「私たちがウーヴェくんたちと別れたあとのことを、彼らの耳に入らないようにすることならできるでしょうか」
「もし処刑の判断が下されれば、その情報が開示されることはないと思うが。民の噂で流れることはあるかもな」
「そうですか……」
「だが、俺はともかく、お前がファル公爵だということは少なくとも知らねえはずだからな。俺の情報さえ洩れなければ、お前のことが知られることはないんじゃねえか」
「それなら大丈夫ですね」
貴族が革命や見せしめで処刑されることは、残念ながらよくあることだ。しかし、現王になってからは貴族の処刑はあまり聞かない。公開されなければ意味がないと考えれば、貴族の処刑自体が減っているのだろう。長いこと革命は起きていない。その必要性がないということなのかもしれない。自分の処遇がどうなるかは、エレンにはわからない。社交界への影響を考えれば、処刑となる場合、範囲は狭いだろうが公開される可能性はある。それがウーヴェたちの耳に入りさえしなければそれでいいのだ。
そのとき、ドアがノックされるのでエレンは反射的に仮面に手を伸ばした。ジークベルトが応対すると、ドアの隙間から顔を覗かせたのはウーヴェだった。
「お休みのところすみません……」
「どうしましたか?」
「兄が、よければおふたりと食事をしたいと言ってて……」
「無理に決まってんだろ」
にべもなく言うジークベルトに、エレンは苦笑した。
「申し訳ありません。仮面を外すわけにはいかないんです」
「そうですよね。兄に伝えておきます。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
遠慮がちに微笑んでウーヴェは去って行く。ドアを閉めて戻って来たジークベルトが、呆れたように言った。
「適当な理由で断ればよかったんじゃねえのか」
「僕が仮面を外せないことは、ウーヴェくんはわかっているでしょうからね。改めて言う必要はなかったですね」
「兄貴にそのまま伝えたらどうすんだよ」
「ウーヴェくんはきっとそんなことはしませんよ」
「ずいぶん信用してんだな」
「あなたこそ」
仮面を外しながらエレンが笑いかけると、ふん、とジークベルトは鼻で笑う。彼がウーヴェに対して一定の信用を置いていることは、エレンにもよくわかる。エレンに害があると判断したとき、ジークベルトはウーヴェたちであろうと容赦はしないだろう。おそらく、その判断基準は非常に厳しい。ジークベルトがそうしないということは、ウーヴェたちが信用に足ると、現時点ではそう思っているということだ。しかしそれはきっと、いつでも覆る可能性があるのだろうとエレンは思う。ジークベルトはおそらく、義理は守るが情には流されない人間なのだろう。
* * *
エレンが「面白いですよ」と言って渡してきた本を読みながら、ジークベルトはもう何度目かわからない欠伸をした。本を読んでいるだけというのは退屈なことだ。
そのとき、ピリ、と肌が痺れた。本を閉じ目を細めると、シャワールームでエレンががたりと音を立てた。
「ジークベルト」
「出て来るな」
張り詰めた重い空気が肺へ押し込んでくる。気味の悪い気配だ。不躾に注がれ、射るように感じる視線。経験の浅い者なら充分に身動きが取れなくなるほどの圧力だ。殺気と言っても過言ではないそれは、鋭く研ぎ澄まされている。この不穏な空気にも怯んでいる様子のないところを見ると、エレンもなかなかに肝が据わっているようだ。
「追手でしょうか」
訝しむようにエレンが言った。
「さあな。そうだとしても、お前のだけではなさそうだが」
観察しているようにも感じる。どこか面白がっているような雰囲気だ。だが、彼らも余興に付き合ってやるほど親切ではない。ジークベルトはまた本を開いた。
「どこからでしょうか」
「アテマだろうな。これほど気配を上手く操れるやつは珍しいぞ。なかなか骨のあるやつかもしれねえな」
「では、今日は手を出して来なさそうですね」
「少なくとも俺が起きているうちはな」
「狙いは私の首でしょうか」
「情報は持ってるかもしれねえな」
アテマから尾行をし続けているのだとすれば、エレンがファル公爵だと気付いている可能性は高いだろう。ただの要人だと思っているなら、面白がって追って来ることもない。真の目的は判然としないが、少なくともエレンを捕らえて王宮に差し出すようなことはないのではないだろうか。
「ただ面白がってるだけだろ」
「では今日はゆっくり眠れそうですね」
「お前、良い性格してんな」
エレンが小さく笑ったとき、部屋のドアがノックされた。めんどくせえ、とジークベルトは独り言つ。重い腰を上げ渋々で応対に出ると、顔を覗かせたのはハンネスだった。
「無事ですか。それならいいんです」
短くそれだけを言い、ハンネスは去って行く。おそらく監視者の気配を感じ取ったのだろう。それがエレンとジークベルトを追う者だと気付いたところを見ると、相当に鋭い感覚を持っているのかもしれない。
「あいつは信用ねえみたいだな」
「他の子は怯えたりしていないでしょうか」
「あいつ以外は気付かねえだろ。あいつ本当に商人かよ」
その実、エレンとジークベルトは、ウーヴェたちのことをよく知らない。あまり私的なことに踏み込むのはよくないと思っているため、詳しいことを聞くつもりはない。自分たちも話せないことはあるし、お互い様というものだ。
「こちらの反応を面白がっているだけなら、ウーヴェくんたちに害はなさそうですね」
「そうだな。もし何かあれば俺が起きる」
「頼もしいです」




