レズ鴉の嘴は丸い
人間性を欠いた人間と欠落した人間とのあいだには大きなが開きがある。ある意味で、欠落とは人間そのものかもしれない。欠落のない人間などどこにもいないのだから、むしろ人間性を欠くということが欠落を埋めきった成れの果てであり、加えて欠落があろうがなかろうが、自身の欠落について1つでも知っているということは財産であり、そしてそれはまた別の話となる。酒を飲まないことそれは怠慢だ。酒を飲まない奴ほど悩みを主な材料として現実のあれこれに酔うことができる連中。まったく私らがこそが正常な人間ですと言わんばかりの自信満々に、自らの闊歩さえ省みることもないまま清潔に暮らしている。あるいは人間性を欠くこととは、欠落を想起させない人間に対し抱く、僕たちの想像についての評価かもしれない。依然として、酒を飲まない人間のことなど僕には理解しようがなく、いつまでも自分本位の価値基準を振り回していた。
ある作品につけられた二極のコメントは以下の通りである。
『作者の自己満足に過ぎない』『美人のオナニー』
概して世間とはこんなものだ。
エロゲの森の満開の下、もはや些細な抵抗すらもアホらしい。後方にある世界は首筋の温度計に任せて意識は前に働かせておこう。左右のいずれからトラックが突っ込んできても構わない。気持ちだけはそんなつもりで、でも確認は怠らずにこの道を渡ろう。確認とはいつだって密かに行われるものである。両者の合意が交わされた裏にはいつだって不合意の可能性が語られる。人の判断が入る隙間にはすなわち自らも値しない可能性を含んでいる。酒を飲んで無茶苦茶になっても決して疑問を手放してはならない。人はいつだって疑問から出発しとりあえずの真相を掴む。もしも出発点たる疑問を手放し、いつかの真相から始めてしまったのならソイツは最後、疑問に辿り着いてその日を諦めることになるだろう。こんな風なことをあのフランシスベーコンが言っていたらしい。フランシスベーコンといっても果たして哲学者の方か画家の方か、自分が好きな方で全然問題ないと思う。僕は画家の方が好きだ。
酒の話に戻ろう。「BEEFEATER LONDON」という名前のジンだ。お酒は鉄板の銘柄しか選んだことがない。詳しくないし詳しくなろうとも思わないから、僕はジンが何からできているか知らないけれど、この種類は結構甘い味がするんだな。飽きが来ないていどの甘さで大変美味しい。酒を飲むと、初めは喉と腹が熱くなって、次第に感情ごと鎮静されていく。鎮静されるのは気持ちがいい。飲酒にしても投薬にしても変わらない事実だ。君は事実を重んじるあまり幻想というジェットパックを脱ぎ捨ててしまった。それでも問題はない。そのジェットパックの作用は1mの距離を1kmにみせ、走り終えるまでの経過時間が無変動であることから加速を体感させるというもの。これで君はやっと現実と向き合えるようになったわけだ。古くから時間軸とは逆行不可能の代物だ。だから明日の方へケツを向けて過去へ取りに戻るなんてことはないよう、僕は酒でも飲んでここで待っているから気を付けて行ってらっしゃい。僕らは大規模パラパラ漫画の副産物だ。