僕が全て覚えているから、貴女は全て忘れたままで
頂けたご反応が嬉しくて、平和なその後の番外編です。
「ねぇ、ジュリアン様」
「ん?なんだい」
二十数年ぶりに目覚めたリリアンと避暑にきた、湖畔の屋敷。
テラスで風に当たっていると、車椅子のリリアンが笑い混じりに僕を振り仰いだ。
「私、随分と眠っておりましたでしょう?」
「んー、まぁ、そうだね」
苦笑しながら同意の相槌を打てば、リリアンは冗談めかして続けた。
「不思議ですわ。あんなに眠ったのに、この風に当たっているとまた眠くなってしまいそう。よっぽど睡眠不足なのかしら」
「っ、コホ、ゲホッ」
本人から発せられるなかなか際どい台詞に、思わず咳き込んでしまった。
リリアンの安らかな寝顔を見るたび不安に駆られ、日々睡眠不足なのは情けない僕の方である。
朝が来るたびにどうか目覚めてくれと願い、開いた瞼の下の瞳が僕を見つけて綻ぶたび、神へ感謝する毎日だ。
「……はは、ここは気候が良いからね!それで眠くなるんだろう。それだけの話だと思うよ。なにしろ僕も眠気が強いからね」
慌てふためいて、無闇に言葉を連ねる僕を面白そうに眺めて、リリアンは悪戯っぽい顔で笑った。
「ふふ、そうですね。こんなに風が気持ち良いと、うつらうつらしてきて、誰もが眠り姫になってしまいそうですわ」
「おいおい、勘弁してくれ」
眠り姫になってしまいそう……だなんて。
何につけても不安が勝り、ついピリピリしてしまう僕を和ませようとしてくれているのだろうが、相変わらずズレた人だ。これ以上眠り姫にならないで貰いたいという僕の切なる願いを、きっと話半々に聞いているのだろう。
眠り続けるリリアンを見守ってきた二十年以上、後悔と自己嫌悪に押しつぶされそうになってきた僕にはなかなか攻撃力の高い冗談だ。
けれど記憶のないリリアンにしてみれば、寝ている間に二十年が経過したと聞いたときの方が冗談に思えたのかもしれない。
「でもまぁ、眠くなれば眠り、目が覚めたらお茶をすればいいさ」
僕は役に立たない思考を投げ出して、力の抜けた笑みで肩をすくめる。
今は十分すぎるほど幸せなのだから、どうでも良いかと思ったのだ。
リリアンは生きていて、冗談まで言えるほど元気なのだから。
「そんな自堕落な生活、怒られてしまわないかしら」
お茶目に怯えてみせるリリアンも、僕との掛け合いを楽しんでいるだけなのだろう。だから僕も敢えて芝居がかった仕草で胸を張り、さも偉そうに言い切った。
「先王とその妻だよ?僕らを叱ることができる人間などいないさ!」
幼い僕がそんな傲岸不遜な台詞を言おうものなら、リリアンは厳しく叱責したであろう。けれどリリアンは、目を和らげて楽しげに破顔する。
「ふふ、そうですわね。私たちを叱れるひとは、そうそうおりませんわ」
ふふふ、と笑い合う。
大人になってユーモアを覚えた僕らは、お互いに分かった上での冗談を楽しめるようになったのだ。
「さて、そろそろ部屋に戻ってお茶でもしよう?可愛い僕の奥様」
「ええ、そうしましょう。私の素敵な旦那様」
「よっと」
冗談めかして惚気を交わして、僕は車椅子に座るリリアンの体を抱き上げた。
痩せてしまった体は紙のように軽く、鍛錬にもならない。寝たきりだった二十数年を思って辛くなるが、首に回される腕の強さに喜びも込み上げる。今僕に抱かれているリリアンは、自らの意思を持ち、自らの力で体を動かしているのだと実感できるから。
そう考えていると、僕の左胸に頬を寄せていたリリアンが、ふと僕を見上げて言った。
「お茶を飲んだら、一昨日届いた結婚祝いのお返事を書きましょうね」
「そうだね。お返しの品物も用意しなくては」
僕らは先日、ひっそりと再婚した。
もう少しリリアンの体力が回復して、まわりの状況も落ち着いたら、身内だけで小さな式をあげようと話している。
今伝えているのは国内の、本当にごくわずかな身内だけだから、お祝いの数も知れているが、国内貴族や他国に知られたらまた大量の祝いが届いて対応に追われることとなるだろう。
けれど今届いているのは、リリアンの実家である公爵家と、僕の身内からだけだ。
みんな、予想以上に喜んでくれた。
公爵は既に孫たちが成人しているような年齢だが、男泣きしながら喜んだ。やっとリリアンが普通の娘のように幸せになれると、僕の前で号泣したものである。もちろん、必ず添い遂げて死ぬまで幸せにすること、つまりはリリアンを看取ってから死ぬことを約束させられた。リリアンの世話ができるくらいには元気に長生きするため、僕はしばらくサボっていた日々の鍛錬を再開した。
今や国王や王弟を名乗っている息子たちは、後宮が許されている国で清廉潔白な一夫一妻を貫いてきた僕が突然再婚したことに随分と驚いたようだった。けれど、母と結婚する前に婚約していた相手だといえば、何か事情があると察したのだろう。誰も反対はしなかった。万が一子供が産まれた場合の対応のみ取り決めると、あとは素直に祝福してくれた。
さて、もちろん先妻であるレアナにも報告した。
レアナはよほど驚いたのだろう。翌々日には早馬で分厚い手紙が送り返され、質問責めにされた。
元々レアナには、リリアンは難しい病を得たためひっそりと領地で静養していると伝えていた。
随分と心配していたから、二十年越しにかつての憧れの人の回復を聞いて喜んだのだろう。
僕の返信から数日置いて、浮かれたお祝いの贈り物が、静養先にいくつも届いた。
学生時代のレアナがリリアンの信奉者であったことを実感しながら品物を眺めれば、元王妃、というよりも、元真聖女様からのプレゼントは流石の逸品揃いだった。
中でも、娘が生まれたらと思って若き日に作ったという聖力が込められたヴェールなんて、国宝に認定すべきなのではと冷や汗が垂れたくらいだ。
娘が生まれず日の目を見なかったから、是非着用して欲しいとのことだったが、リリアンは完全に腰が引けていた。
「なんて素晴らしいヴェール……」
届いた箱から出てきた白いレースがふんだんにあしらわれたヴェールに、リリアンは蕩然と、というよりも、呆然と呟いた。顔が引き攣っていた気すらする。
「レアナはレース編みや刺繍が得意だったからね。よく聖力を練り込んで、神具を作っていたよ」
あまりの見事さに僕も一瞬絶句したが、二十年ほどを連れ添った女性を思い起こせば、さもありなんと頷く。彼女は稀代の真聖女だったのだ。
「よく作っていたのですか……神具を……?」
「うん」
瞠目したリリアンは愕然と口を開けたままで、驚愕をあらわにしている。常に微笑みを絶やさず、理想の淑女と崇め奉られた女性とは思えない。よほど驚いたのだろう。
「彼女には簡単なことだったようだ。この二十年で、我が国には神具…聖力が込められた聖具が増産されたよ」
軽口を叩きながらヴェールを手に取れば、ふわりと体が軽くなったような感覚を覚える。レアナはただの「祈りを込めたヴェール」だと言うが、これはほとんど神具だよなと苦笑いしつつ、純白のヴェールをリリアンに被せた。
「とても綺麗だよ」
しかし万感の思いを込めた僕の賛辞にリリアンは複雑そうな顔をした。躊躇いがちにヴェールを外すと、丁寧に畳んで胸元に抱える。そして、そっと視線を下ろし、不安そうにぽつりと呟いた。
「こんなものを身につけるには、私は相応しくないのではないしら」
「え?」
その台詞に僕の脳に甦ったのは、あの災厄の日、己を「穢れている」と評したリリアンだ。どくり、どくりと嫌なリズムで鼓動が打つ。まさか、リリアンは何か思い出してしまったのかと、僕は青ざめて俯いたリリアンの顔を覗き込んだ。
しかし。
「……だって」
リリアンはさも困ったように愛らしく眉を落として、少女のように小首を傾げていた。
「だって、ちょっと歳をとりすぎてますもの」
はぁ、という深いため息とともに、リリアンは嘆き、ヴェールを持って鏡の前に立った。
「私ったら、知らないうちにおばあさんになってしまいましたわ」
鏡の前でヴェールを胸に当て、リリアンはじっと虚像の己を見つめる。その寂しげな瞳には、美しく咲き誇るべき花の時期を奪われた彼女の悲しみが宿っていた。
「リリアン……」
名を呼んだきり、次の言葉を言いあぐねているうちに、リリアンは再びか細いため息を漏らした。
細く長い人差し指ですうっと目尻の皺を撫でる。苦笑する口元にも、かすかに薄い線が見えた。
それをひとつひとつ、そっと視線で数えて、リリアンは嘆息をもらした。
「こんな真っ白の美しいヴェール……うら若き少女ならともかく、孫がいてもおかしくない年齢の、醜く老いさらばえた女が身につけるものではありませんわ」
「リリアン……そんなことはない」
静かに断言して、僕はリリアンの手を握った。
確かに痩せ細ってはいる。
けれど、長年寝たきりで日に当たることなかったリリアンの肌は抜けるように白く、侍女たちが丁寧に手入れを続けてきた髪は枝毛ひとつない。
そして何より、僕を捕らえて離さいリリアンの深く澄んだ瞳は、少女の頃と全く変わらず美しい。この透明な瞳に見つめ返されることを、僕はこの二十年以上、ひたすら希ってきたのだ。
ほっそりとした頬に手のひらで触れて、僕はまっすぐ見つめる。
「ねぇ、リリアン」
ヴェールの純白にも負けない透明さを放つ幼い頃からの想い人に、僕は真顔で言った。
「あなたは誰よりも綺麗だよ」
戸惑っているリリアンの目をまっすぐに見て、僕は切々と語った。
「たしかに知らぬ間に年は重ねてしまったかもしれない。けれど、僕にとってリリアンは、いつだって、誰よりも綺麗なんだ」
一度放した柔らかな手を、もう一度そっと掬い取って己の頬に当てる。僕の情熱で、このひとの困惑も躊躇いも、全て飲み込んでしまえますようにと願った。
「年齢など単なる数字だ。あなたは清らかで美しく穢れない、このヴェールに相応しい女性だよ。……どうか僕の想い人を貶さないでくれ」
いつまで経っても自己評価が低い愛しい人に、そして天におわす意地悪な神に、どうかこの想いが届いてくれと、僕は心からの祈りを込めて訴えた。
「ジュリアン様ったら……」
僕の真剣な想いを受け取ってくれたのか、リリアンは恥じらうようにほのかに頬を染めて、そして僕を上目遣いに睨んだ。
「いつだって、だなんて。……はっ、ジュリアン様」
「な、なんだい?」
はにかんだ眼差しが何かに気づいたように一瞬で真顔に変わり、じろりと睨まれる。突然の変化に動揺しつつ問い返せば、リリアンは眉を顰めて言い放った。
「妻帯者でいらしたくせに。レアナ様というものがありながら、不誠実ですことよ」
「おいおい、この流れでそこに飛び火するのか!?」
僕は目を丸くして叫ぶしかなかった。
過去二十数年にわたる純愛を伝えたつもりが、二十数年間の妻への不義と受け取られたというのか?
それはあまりにも……あまりにもではないか。
「レアナのことはもちろん好ましく思っているし、誰よりも尊敬している。男爵家の庶子でありながら、神の思し召しならばと覚悟をきめて、立派に王妃として務め上げたのだからね。強く立派な女性だ」
なぜか現妻の前で前妻を讃美するという不可思議な状況だったが、僕は全力で熱弁をふるった。不誠実であることをリリアンは何よりも嫌うだろうから。
「僕は彼女を誰よりも、それこそ公爵よりも信頼している。レアナが反対するとしたら、それはこの国のためにならないことだ。もしレアナに止められたら、僕は君との結婚だって諦めたことだろう」
「ふふ、それを聞いて安心いたしましたわ」
力強く断言すれば、リリアンはやっとかたくなさを手放して、表情を綻ばせた。
安堵共に、もしかしたら照れ隠しに、僕を揶揄っていたのかもしれないと思い至り、恨めしい気分になった。
よく考えてみれば、リリアンは昔から政略結婚や王の一夫多妻を、国のためになる良策だと推奨していた。今更そんなことで責めるはずもなかった。
もちろん後宮の乱れは国の乱れ、である。健全な後宮運営のため、一人一人の妻に偽りなく誠実であれ、秩序をもち平等に愛せと繰り返し説かれたものである。
今回の発言は、リリアンなりの気の利いたユーモア……のつもりだったのだろう。僕がリリアンの冗談に慣れていないだけで。
「レアナ様とジュリアン様が良き夫婦として国民の規範となられていたことは、父上や侍女たちからもよく聞き及んでおりますわ。本当にようございました」
「あぁ。お互いに熱烈な恋心というのは持ち合わせていないけれどね。若い頃から二人三脚で頑張ってきたから、同志という気分だ。今は二人とも自由な身になって、第二の人生を満喫している最中なのさ」
「ほほほ、面白い方達ですこと」
僕とレアナが結婚するように整えたのはリリアンだから、責任も感じていたのだろう。先日、僕らのもとに届いた手紙を一緒に読んだ時は、随分と気安い言葉で綴られた文面に、僕たちが不仲でなかったと実感したようでしみじみと安心していた。
実はリリアンは、レアナが再婚したと聞いてから密かに、二十年前のことを自分の勘違いだったのでは、と心配していたらしい。僕がレアナへ片思いしていただけだったのにはやとちりして、今のご主人との仲を自分が引き裂いていたりしたらどうしようか、と思っていたらしい。
まぁその懸念は、実は当たらずとも遠からずではあるのだが、この二十数年を見ればリリアンの行動が総合的に最善であったのは自明だ。レアナという優れた真聖女を王妃として、神の恩寵を溢れるほどに注がれたこの国は、いまや大陸屈指の強国となっているのだから。
「明日は湖畔の散策をしようね。きっと懐かしい風景ばかりだよ」
「素敵ですわ」
テラスから室内に戻った僕たちは、他愛ない会話を楽しみながら夕食を待っている。地元の者が好意からまとめてくれたこの地の観光名所についての資料を見つつ、二人で明日はどこに行こうかと話し合う。かつてを思えばまるで夢のような時間だ。夢だとしたら、覚めてしまうのが恐ろしいものである。現実でよかった。……現実だよな?
そんな不安を抱きつつも資料を熟読していたら、リリアンが不思議そうに僕に問いかけてきた。
「随分真剣にご覧ですのね」
「このあたりの地理なぞ、何も覚えていないからね。ぼんやりした記憶だけで散策したら迷子になってしまう」
「あら大変」
おどける僕にリリアンは破顔し、僕に尋ねた。
「このお屋敷はそんなに久しぶりでいらっしゃいますの?」
「あぁ、君と来て以来だよ」
「まぁ、それでは本当に、三十年以上ですのね」
目を丸くするリリアンに、僕はわざとらしく真面目ぶった顔で頷いた。
「ああ。久しぶり過ぎて、懐かしい景色が残っていない可能性すらある」
「ふふふっ」
おどけて肩をすくめて見せると、リリアンは小さな声で笑った。
出会ったばかりの三十数年前を思えば、びっくりするほど砕けた笑みだ。
僕が五歳の頃。
婚約したばかりのリリアンとともに、僕はこの地で長期に滞在した。
あの時は、婚約者との親睦を深めるため、なんて言われて誤魔化されていたけれど、今ならわかる。
父はリリアン、そして公爵家という強力な護衛役をつけて、僕を王宮から逃がしたのだろう。
当時はいつどこで王族の血が流れるか分からないくらいに、王宮は荒れに荒れていたから。
当時はそんなことも知らず、年上の婚約者と毎日のびのびと遊び、少しずつ距離を縮めながら過ごした、思い出の場所だ。
リリアンが寝台の住人となってしまう直前、僕がリリアンに「新婚旅行はここに行こう」と笑っていた場所でもある。
どうやら、リリアンはその約束を、すっかり忘れていたらしい。だが、まあ無理もない。
休憩時間の軽口だったのだから。
けれど、リリアンは随分とそのことを気にしていた。
「あまりにも多くのことを忘れてしまったような気が致します」
重いため息とともに、リリアンは嘆く。
「思い返せば、幼少期のことも記憶が抜けておりますわ。父は私が病弱でよく寝込んでいたから、そのせいだろうと申しますが……生まれつき、よほど弱い体なのでしょうね」
「うーん、まぁ、昔からリリアンは丈夫な方ではなかったよね」
事実とはずれた認識にいろいろと思うところはあるものの、わざわざ口にする気はない。
そう信じてくれていた方が幸せだから。
それに、記憶をなくしたリリアン自身にとっては、「寝込んでいて記憶がない」という方が真実なのだ。
覚えてもいない事実を聞いたところで、無意味な不幸を産むだけなのだから。
「何度も何度も寝込んで……はぁ。私、この無駄な魔力量のおかげで自己治癒力が高くて生き延びておりますけれど、そうでなければもうとうに儚くなっていたのではないかしら」
「おいおい、縁起でもないことを」
冷や汗が垂れる。
それが誇張でもなんでもない事実であると、僕は知っているのだから。
「そんな体の弱い娘を、婚約解消前提とは言え仮にも王太子妃になんて、父上も無茶をしますわ」
「……ふふ、なるほど」
発言自体は自己評価の低さが見え隠れするけれど、リリアンの表情は穏やかで、口元も幸せそうに綻んでいる。
要は「先王の後妻くらいがちょうど良い」、つまりは「今がとても幸せだ」と言いたいのだろう。わかりにくい人である。
「もう僕はそれなりに責任は果たしたし、君も若い頃十分苦労したからね。あとは時々働いて、若い人たちを助けたりしながら、優雅にのんびりと暮らしていこう」
口に出さない様々な想いを込めてそう呟くと、リリアンも静かに笑みを返した。
欲のないこの人は、目覚めてからはいつだってこうして満足したように笑っている。
知らぬ間に老いてしまった身の不幸に怒りを向けることも、理不尽を恨むこともない。
ただ、今を受け入れ、そして十分幸せだと柔らかに目を伏せるのだ。
そんな人だから、僕は何かしてあげられることがないかと、いつもつい勇み足になってしまうのだ。
「明日はどこに行こうね。リリアンは何か望みはあるかい?」
「特に何も。……でも敢えて言うなら」
そう呟くと少しだけ躊躇ってから、リリアンは口を開いた。
「お暇な時に、私が忘れていることを、教えて頂けません?」
「え?」
思いもかけないお願い事に、僕は動揺して不覚にも固まってしまった。
リリアンの望みは何でも叶えてあげたいけれど、それだけは難しい。
どう断ろうかと頭を悩ませる僕に、リリアンは困ったように眉を下げて苦笑した。
「ずっとどこかそわそわと落ち着きませんの。何か大切なことを忘れているような気がして」
「……忘れていることはあるかもしれないけれど、思い出さなくても良いさ。忘れたってことは、大して重要なことじゃないんだよ」
几帳面で真面目なリリアンだ。本当に忘れていることがあるのが不安で、何とも言えず気持ち悪いのだろう。
やるべきことをやらずに放置しているような、後ろめたさがあるのかもしれない。
でももちろん、僕は何一つ伝えるつもりはない。
「でも……」
「いいんだ」
困り顔のまま言い淀むリリアンに、僕はきっぱりと言い切った。
「僕が全部、覚えているから」
苦しみばかりの人生で、リリアンは何度も死にかけ、何度も生まれ直してきた。
そのたびに、死に至るほどの苦痛に満ちた過去の全てを忘れて。
忘却は、リリアンの人生にとって唯一の救いだったのだ。
その代わり、きっと全てを知る公爵はさぞ辛かったことだろう。
彼は伯爵家で見たものを家族にも口にせず、リリアンを単なる不遇な病弱な娘として引き取り、育てた。
それが功を奏して、リリアンはこうして過去を病むこともなく、今も笑っているのだ。
もちろん覚えていることもあるし、心の根に刻み込まれてしまったものもある。たとえば、リリアンの奥底に眠る男性への恐怖は、幼いリリアンを虐げ、冷遇した実の父により生み出されたものだろう。
だが、一番辛い三年間を、リリアンはほぼ全て忘れている。
だからこそリリアンは、僕との夫婦としての生活には支障がないのだろう。
初めての夜。
彼女はただ初心な少女のように戸惑い、恥じらい、そして嬉しそうに、初めてだと笑ったのだから。
あの晩、積年の恋が実った喜びとともに、彼女が残酷な幼少期を覚えていない事に安堵した。そして、意地の悪い神という存在に、僕は初めて心から感謝したのだ。
「本当にあなたは真面目だね。リリアン、覚えていない自分を責める必要はないんだ。寝込んでしまうくらい酷い病気だったのだから」
「皆様にご迷惑をかけたのではなくて?」
「優しいリリアン、人に移して災いを招いたりはしなかった。大丈夫」
軽やかに笑って肯定し、優しく懸念を否定する。
「わざわざ苦しかったことを思い出す必要はないよ」
サラサラの金の髪をそっと撫でる。
普通なら死んでしまう状況でも、リリアンの強大な魔力が死を許さなかった。
それが彼女にとって、幸福なのか不幸なのか分からない。
ただ僕にとってはこの上ない幸運だった。身勝手で、リリアンが生きていてくれればそれで良いと願ってしまう僕にとっては。
「でもまぁ、あなたが眠っている間のことは、そのうち教えてあげるよ。面白い順にね」
「まぁ、なんですの?その基準」
ふふふ、と楽しそうに笑うリリアンを見るのが幸せだ。
この幸せに感謝して、僕は何もかも忘れず抱えていく。
己の弱さも愚かさも、そしてリリアンの優しさも愚かさも。二度と同じ過ちを犯さないように。
「でもね。あなたは、人の話を聞かないところがあるから良くないよ」
「ええ!私がですか?」
しみじみと実感を込めて呟けば、リリアンは思ってもないことを言われたと目を丸くした。
「うん、それだけは直してほしい。ひとまず、僕の話はちゃんと聞いてね」
「あら、聞いておりますわ」
さも心外だと言うように眉を寄せるリリアンに、僕は片眉をあげて尋ねた。
「じゃあ、僕が誰よりあなたが好きだってことは、理解してる?」
「……そういう冗談は、あまり好みではありませんわ。おふざけで誤魔化さないでくださいませ」
顔を赤らめて、ぷいとそっぽを向く新妻に、僕は真面目な顔で迫った。滑らかな頬を両手で包み込んで、まっすぐに目を合わせる。
「冗談でもおふざけでもないし、誤魔化してもいないよ。ちゃんとまっすぐ伝えるから、これからは僕の言葉だけは疑わずに、そのまま受け取って欲しい」
そうじゃないとまた勘違いや、よく分からない思い込みで、とんでもないことになってしまうかもしれない。
もう二度とリリアンとすれ違わないように、僕は隠すことなく心を伝えようと決意しているのだ。
「お互いに誤解が生まれないように、きちんと言葉にしよう?僕はあなたのことが、世界一大切だよ。誰よりも美しい僕のリリアン」
「……慰めてくださらなくても構いませんのよ?あなたより十も年上のおばあさんですのに」
「これだけ言っているのに、まだそんなことを!?第一こんなに綺麗なおばあさんはいないからね?」
自己肯定感が低くて信じてくれなかった二十年前のリリアンと同じだ。僕の求愛を、子供の冗談、さもなければ雛鳥の思い込みだと微笑っていたリリアンに。
「だって……私と比べてジュリアン様はまだお若いし、男性として魅力的なのですもの。あの、本当に他にも愛妾をお持ちになっても構いませんのよ?」
「あぁ、もう!」
とんでもない提案が飛び出して、思わず頭を掻きむしりそうだ。
「リリアンってば、僕はこんなに愛しているのに、なんでそんなことを言うんだい!」
言ったそばから酷いことを言うリリアンに、僕は嘆いて天を仰いだ。
「君は自信がなさすぎるよ!僕は何度も言っているじゃないか。あなたが大好きだ、リリアンが居てくれればそれでいい、って」
大きくため息をついて、困った顔の愛しい人を見る。
「まぁいい。これから信じてくれるまで、伝え続けるから」
これは意地悪な神様が与えた運命と、そしていつまで経っても意固地なリリアンへの挑戦だ。
「思いしればいいんだよ。僕がどれだけ君のことを愛しているか、ね」