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私が愛してやまない、ただひとりの貴女へ

前編よりも長いです。長くなりすぎて前編後書きの更新宣言が守れず、すみませんでした……。

あなたは言っていた。 


己には価値などないと。

己は僕を守るための存在なのだと。

それが己の存在する意味なのだと。


そんなわけはないと、伝え切れなかった僕が未熟だったのだ。








それは晴天の霹靂だった。


「リリアンから書簡?珍しいな、何かあったのか?」


数日ぶりに目にした美しい筆跡に思わず頬が緩んだが、視察先まで連絡を寄越すなど普段にはないことだ。胸がもやつくような不安感を抱いた。湧き上がる焦燥を抑えつけ、開封すると。


「なんだと!?」


果たして不安は的中し、そこにはとんでもないことが書かれていた。


「レアナに聖力が発現しただと!?そんな馬鹿な!」


五十年ぶりの真聖女の顕現を喜ぶよりも先に、怒りが込み上げる。

全ての予定が狂った、と歯噛みをした。


それでは困るのだ。

だって、聖なる力は愛し子への、神の祝福だ。

その真聖女を()()()()()()()()()()()()()ではないか。


「あぁ、まったく!初めから考え直しじゃないか!」


()()()()()()を思い出し、苦虫を噛み潰したかのように顔を顰めつつ、僕は二通目を開いた。


「今度は良い知らせであってくれよ」


しかし、そんな願いも虚しく、もう一通の封書に入っていたのは数枚の書類。

その中身は、僕をさらなる衝撃へと叩き落とした。


「なっ!?婚約解消だと!?なぜ!」


僕は思わずうめいて、そのまま机に突っ伏して頭を抱えた。


「リリアンは何を考えている!?真聖女は王家が押さえておくべきだと、そう言いたいのか……!?」


添えられていた手紙にも、こうなるに至った経緯は書かれていない。文面からは特に怒りも感じない。

ただ「レアナが真聖女ならば王妃とすることができる。婚約を解消しましょう」というだけのもの。

側室や愛妾自体は、リリアンからも持つべきものと言われてきているから、そこに怒っているわけではないはずだ。常に最善を目指すリリアンは、レアナに正妃を譲るといいたいのかもしれないが……。


「正妃の大変さもわかっているはずなのに。ほぼ平民の男爵令嬢にそんなことが可能だと思っているのか!?真聖女を王家で押さえておきたいなら、予定通りリリアンが正妃となり、レアナは側室とすれば良いじゃないか!過去にもそんな例はいくらでもあるのに……っ」


冷静な貴婦人の顔をして内面は少し変わっていて、時折極端な思考に走るひとではあった。しかし、今回ばかりは唐突すぎるし出鱈目すぎる。リリアンが考えていることがわからず、お手上げだった。ウンウンと唸っていると、遠慮がちに扉が叩かれた。


『殿下、そろそろ』

「……わかった、今行く」


控えめな声の苦言に、ため息を押し殺して返事を返した。

情報を整理したくとも、ドアの外には侍従が待ち、そして広間には辺境の有力者達が集まっているのだ。すぐに次の会議があるのに、急ぎの書簡かもしれないから少しだけ待ってくれと頼んだのだから、侍従の言動は当然のことだと言えた。


「あぁもう!」


今すぐ王都に取って返したくとも、公務を放り出して戻るなど、まるで恋に溺れた若き日の愚かな父のようだ。王家にある者はまず公人たれと、子守唄のように僕に繰り返し語ったのはリリアンだ。

彼女の教えに背く真似はできなかった。


「くそっ、数日王都を離れただけなのに、とんだ地獄絵図じゃないか!帰ったら話し合いだ!」


いや、それは長く続く地獄の日々への序章に過ぎなかったのだけれど。





***





「公爵からの書簡がきた!?まさか……くそっ」


一日遅れで届いた書簡をひったくり目を通せば、やはりリリアンとの婚約解消についての話だった。もう公爵家では話がまとまっているらしい。今後の後見も公爵家がつくので問題ない、ご心配なく……と言われても。


「あぁもうっ!……リリアン、さすがだよ」


さすが、僕の家庭教師もこなしていたひとだ。我が婚約者の仕事が早すぎて、ため息もでない。これでは、どこまで手が回されているのか恐ろしかった。


「おいおい、王都に戻ってからで間に合うのか……?」


背中を冷や汗が流れる。

いや、そもそも、リリアンが婚約解消を決めた時点で手遅れだったのではないだろうか。


「あぁ、まったく!結婚できるまで、あと二年だったのに……ッ」


婚約解消?

なんでそんなことに?


せっかく、()()()()()()を見つけたと思ったのに!


それがまず最初に思ったことだった。





公爵に告げられた、リリアンと結婚する条件。

それは『健康で子供をよく産める娘を後宮にいれること』だった。


なぜなら、リリアンはおそらく子が産めないから、だ。

本人は知らないが、公爵からはほぼ不可能だろうと聞いていた。




「必ず、必ずです。リリアンを王太子妃とするのならば、後宮には複数の妃をお入れください。愚かな執着から、リリアンに己の子を産ませようなどとは、ゆめゆめなさらないように」


僕は唇を噛み締めて、渋々にそれを承知したのだ。本来ならば僕も父のように、愛する者()()を妻としたい。けれどリリアンを失うことになるくらいならば、公爵からの提案を呑もうと。


けれど、少しだけ逆らうことも決めていた。

僕は愛妾は入れても、側室を入れるつもりはなかったのだ。


おそらく公爵は正式に側室を迎えて、第二妃や第三妃として遇せと言いたかったのだろう。

複数の派閥から妃を娶り、うまく勢力をコントロールせよと。

王族の結婚は、政略的にとても有用なツールなのだから、有意義に使うように、と。


けれど僕は、物心ついてからリリアンのことしか考えていなかったのだ。

リリアンあっての僕であり、リリアンあっての国なのだ。


だから、たとえリリアン以外の女性を後宮に迎えるとしても、世継ぎを産まなくともリリアンの王宮での立場が弱くならないような相手が好ましいと考えた。

つまり、有力な大貴族たちの家から側室を迎えるのではなく、力を持たず野心のない、国にとって毒にも薬にもならないような娘を、公的権力のない愛妾に迎える、ということだ。


我ながら浅ましく、醜い悪足掻きだと思った。


ただでさえ恋に溺れて判断を誤った現国王の過ちで、貴族たちの均衡が乱れ、王宮は荒れている。

それにもかかわらず、僕は最良と理解していながら、己の婚姻を道具として使う気はなかったのだ。


愛するただ一人の妻のために、国にとっての最善の選択肢を握りつぶす。

リリアンや公爵の期待とは裏腹に、僕の本質はどこまでも父と似たものだった。







「さて、どこかに手頃な娘はいないかな」


そのため、十三で入学した学院では、僕は密かに「王太子の愛妾」として迎えても()()()()()少女を探していた。


まぁ他の浮かれた貴族男子たちと同じだ。

どれほど言い繕ってもしょせんは愛人探しの女漁り。

いや、彼らのそれと比べれば、僕自身の必死さも、女性に対する残酷さも比べものにはならないだろう。


だって僕は、()()()()()()()()となるべき存在を探していたのだ。

言葉が悪いけれど、女性自身ではなく、僕の望みにふさわしい(はら)を探していた。

どう言葉を取り繕ったところで、結局はそういうことだ。


リリアンの害にならない愛妾を、僕は探していた。

たとえ国母となってもリリアンの立場を脅かすことなどありえないような、都合の良い娘を。






さて、そんな僕に目をつけられた哀れなレアナ嬢は、あらゆる条件を満たしてくれる素晴らしい少女だった。


健康なからだ、素直で純真な心根。

田舎娘らしい素朴な愛国心を持ち、王家の祖たる主神への信心も深く、王族への敬意に満ちていた。

父母ともに子沢山の家系で、入学時の健康検査も身体検査も非常に優秀だと聞いた。

容姿も垢抜けてはいなかったが人並み以上に優れ、多くの者から好感を抱かれる小動物のような愛らしさがあった。


そして目立たないが特筆すべき美点は、身の程をわきまえて、多くを望まない姿勢だ。

王都にでてきて高位貴族たちと交わるようになっても、ここで人脈を作って一旗あげようだとか、玉の輿に乗りたいだとかは全く考えていない。


実家は小さいが堅実な男爵家で、平民だと言う母は地方の古い商人の跡取り娘だ。学院で嗤われていた妾腹の子というのも語弊がある。

たしかに正式な妻の子ではないが、レアナが生まれるよりとうの昔に、前妻は男児一人を産んで亡くなっているのだ。

レアナの母が、貴族であった前妻と前妻の子である嫡男に遠慮して籍を入れず、妾の立場に甘んじているだけであって、事実上は幸せな四人家族だ。

穏やかな家庭環境の証に、彼女は毎日実家から郵便が届くのを楽しみにしている。


そんな、早く故郷に帰りたがっているような、目立たず害のない娘。

人脈もなく、おかしな繋がりもなく、背後にいる人間を考えなくても良いような、平凡な境遇の娘。

とても神殿の聖女に合格は出来なさそうな、光魔法が少し使えるだけの慎ましい聖女候補生。


とても良い条件だった。


彼女ならば愛妾として迎え入れても、リリアンの立場を脅かすことなく、後宮の主人に取って代わろうとするような野心を抱かないだろう。

王家と、そして僕にも誠実に、忠義を尽くしてくれるだろうと思われた。






近づいてみれば、やはりレアナはとても扱いやすく、わきまえた娘だった。

僕からの接触に驚き、狼狽え、そして感激していた。

王子様という存在への憧れもあるのだろう。

僕に声をかけられれば嬉しいと素直に喜び、図書館で代わりに本を取ってやる程度の些細な施しにも、涙すら浮かべて感激していた。


レアナの素直に感情を表す点は貴族的とは言えなかったが、僕に取っては非常に好ましかった。感情を読み取る手間が省けるし、僕やリリアンにはないものだから後宮で良い風になるかもしれないとすら思った。


なにしろ僕が望むのは、穏やかで平和な後宮だ。

そのために、僕やリリアンだけでなく、愛妾である女性にも幸福でいてもらわなけらば困るのだ。 

たとえ一番にはなれずとも、夢の王子様と結ばれるだけで幸せだと言ってくれるような、優しい心根と純朴な感性を持つレアナは、まさに理想だった。


加えて、光属性の魔力持ちというのもよかった。

魔力が弱くとも光魔法が使えることは、王宮にとっては都合が良く、喜ばれるだろうと思われた。

なにしろ母の死により血が流れ穢れた場所となってしまった後宮には、より多くの光の祈りが必要なのだから。



なにより、学院始まって以来の才媛と呼ばれるリリアンに、レアナが強い憧れを抱いていたことが非常に好印象だった。


卒業試験で座学も実技も全て満点を叩き出し、飛び級で卒業したリリアンは、この学院で完璧な令嬢として、今や伝説となっている。

リリアン様のようになりなさい、というのは、女子部の先生方がよく言う言葉だ。

レアナは教師や先輩たちの話から、未来の王妃であるリリアンへの憧れを強めたと言う。


年に一度だけ、リリアンは学院から請われて女生徒たちに特別講義をしにくる。その時、希望者の中から選抜された優秀な十数名にだけ、直接マナーの指導をしているのだ。

未来の王妃の侍女探しと呼ばれるこの行事に懸けてくる下級貴族の娘は多い。

なにせ、ほとんどの下級貴族の娘たちにとって、将来の王妃と間近で言葉を交わせる最初で最後のチャンスだ。


選抜には私や公爵も密かに関わっており、特別講習にはリリアンへの憧れや、王家への忠誠心が強い者を優先して選んでいる。

レアナは魔力量が少ないため昨年は惜しくも選抜を漏れたものの、気質や王家への忠誠心などの点は十分にクリアしていた。


だから、まずはリリアンの侍女として迎え、相性が良さそうであればリリアンに相談してからレアナを愛妾にしようと思っていたのだ。






***





「嘘だろう……なんでこんな面倒なことになったんだ……」


早馬で公爵家に飛ばした抗議への返答に、僕は王都へ全速力で駆ける馬車の中、遠い目をした。


『元からこの婚約は解消する前提のものでした』

『リリアンも、九歳という年齢差を気にしておりましたし、公爵家の直系ではない自分が王太子妃となってよいのかとも気にしておりました』

『双方の幸福のために、婚約解消は良い選択かと思われます』


実際ははるかに回りくどく勿体ぶった、いわゆる貴族的な言い回しだけれども、結局はそういうことだ。


「……あの狸親父め」


何度読み直しても取りつく島もない公爵からの手紙をグシャリと握りつぶし、僕はガタガタと揺れる馬車の天井を眺めた。


「リリアンもリリアンだ。男爵家の庶子を王太子妃にしようとしているくせに、仮にも公爵令嬢として育った自分の血筋を気にするなんて!さすがに筋が通らないよ、リリアン……」







「私は公爵家の冷血姫などと呼ばれておりますが、生まれは違うのです」


リリアンがそう口にしたのは、僕が八つを過ぎた頃だ。

社交の場で父や目付け役の公爵から離れることも多くなり、()()が耳に入ることが増えた。

嫌な話ほど、人は僕の耳に入れたがる。だから、周りから聞くよりは私からと、教えてくれた。


リリアンは公爵家の傍流にあたる伯爵家の一人娘だった。

けれど前公爵の後妻の末娘、つまり現公爵の腹違いの妹を母に持つため、公爵家の子息たちとは関係上はいとこに当たる。

そんな高貴な血筋にも関わらず、伯爵家では実母亡き後、父親から冷遇されていたらしい。


「引き取られる前のことは、わたくしも幼かったのであまり覚えていないのですけれど」


困ったようにそう笑って、リリアンはどこかぼんやりとした仕草で俯いた。


「父上……公爵である今の父上の話によると、貴族令嬢とは思えないような、酷い扱いだったそうです。だからかしら、私、実は大人の男性が、とっても苦手なのですわ」


内緒の話だと笑うリリアンは、普段とは異なる雰囲気を纏っていた。少し触っただけで砕けてしまいそうな、この吐息一つが致命傷になるのではと思えるような、そんな恐ろしさだ。


「……そうだったのだな」


僕は伯爵家での暮らしについてはあまり触れないことに決めた。静かに相槌だけを打てば、リリアンはふっと表情を緩めて顔を上げる。


「でも公爵家では、のびのびと過ごさせてもらいましたわ。だから、もう平気ですのよ」


そう穏やかに笑うリリアンに、僕も安堵とともに笑い返した。


「リリアンは皆のお手本となる、素晴らしい令嬢だものな。自慢の娘で、公爵もさぞ鼻が高いだろうね」

「そうでしょうか?ふふ、そうだと良いのですけれど」

「本当だよ。あなたと結婚できる僕はとっても果報者だ」


こんなに優れた女性であるリリアンがなぜ十四の年まで婚約者がいなかったのかと思っていたが、そういうことか。リリアンは男嫌いだったのだ。

だから五歳の子供と婚約してくれたのだろうし、逆に、五歳から婚約していたからこそ僕は大丈夫なのだろう。

リリアンの不幸と引き換えの幸運を、身勝手な僕は密かに神に感謝した。


「僕もリリアンに恥ずかしくないように頑張らなくてはならないからね。もっと頑張るよ」

「ふふ、殿下は公務でお忙しい中で、とっても頑張っていらっしゃるわ。勉強やマナーだけ頑張ればよかった私とは違いますもの」


目尻を柔らかく細めてリリアンはそう言ってくれるけれど、僕は「ありがとう」とだけ返して密かに決意を新たにしていた。


リリアンは本当に何でもできた。

特に治癒魔法は国でトップクラスの使い手と言っても過言ではないほどで、僕も何度も助けられた。

一般的に、貴族と違って自己治癒するしかない平民の方が治癒魔法が育つ土壌があると言うが、やはり潜在的な魔力量ゆえなのか、リリアンは学生時代から騎士団で前線を駆け回っている叩き上げの医官と同程度の能力があったらしい。

一体どうしたらそんなに素晴らしい治癒魔法使いになれるのかと尋ねても、リリアンは苦笑して、肩をすくめた。


「そもそもこの力のおかげで、私は公爵家に引き取られたとも言えますので。卵が先か鶏が先かという話の気がいたしますわ」


リリアンは七歳の魔力測定で希少な治癒魔法への素晴らしい適性が認められ、しかも魔力量も並の高位貴族をはるかに上回った。そこで、それまでは疎遠だった公爵家に見つかり、現公爵の熱烈な申し出により伯爵家から引き取られたのだと、そう話していた。


「冷血公爵家の冷血姫などと大層な二つ名で呼ばれてはいても、私はしょせん紛い物ですわ。この魔力がなければ、元よりここには居なかった人間なのです」


だから。

……自分はそんな、()()()()()()()()()だから、と。

リリアンはいつも私に言ったのだ。


「私との婚約は公爵家が後ろ盾についたことを明らかにするためだけのもの。殿下がご成長なさり、望めばいつでも解消できるのですよ」

「なぜそんな酷いことを言うんだ、リリアン。僕を捨てると言うの?」

「そうではありませんわ」


初めてその言葉を聞いた時は、まるで見捨てられたような気分になった。泣きそうになりながら詰れば、リリアンは幼い僕を宥めるように優しく頭を撫でてくれた。


「殿下をお守りし、殿下をお幸せにするために私は在るのですもの。私の存在が殿下のお幸せの邪魔をするなんてこと、あってはなりません」

「僕の幸せ、僕の幸せって、そればかり!第一、それじゃあリリアンの幸福はどうなるの」


涙目の僕の言葉に、リリアンは一瞬ぱちくりと子供のように目を瞬いてから、ふわりと破顔した。


「驚きましたわ、なんてお優しい王子様かしら」

「ふざけないでくれ!」


こちらは真面目なのに、まるで赤子の癇癪を見守るような目で見てくるから、僕は真っ赤になって怒鳴った。


「僕がリリアンを捨てても良いと言うの?」

「ええ、殿下がもう少し大きくなって、国も落ち着き、我が家の後ろ盾がなくても大丈夫になれば、いつでも」

「だって、そんなことをしたら、リリアンはどうなるの?そんな……そう。その頃にはあなたは二十代後半じゃないか。それから婚姻など難しいだろう?リリアンは僕と結婚した方が幸せなはずだ!」


必死に言い募っても、リリアンは穏やかな顔を変えることはなかった。


「さきほどお話ししましたように、私、男性が苦手ですの。婚約を解消した暁には、私は修道院に入りますので、問題ございませんわ」


問題はあるだろう。

大問題だ。

僕と結婚して家族になるよりも修道院に入るほうが良いわけないじゃないか。


幼い僕はそう思った。

女性の幸せは愛する人と結婚をして、愛されて暮らすことだと信じていたのだ。

だってリリアンが読み聞かせてくれた絵本でも、お姫様はいつだって素敵な王子様と結婚して、いつまでも愛し合い幸せに暮らしたと書いてあるのだから。

けれど。


「婚約解消後に私が未婚を貫くことになったとしても、それは殿下のせいではありませんわ。公爵家の者のくせに容姿は十人並で、気質も気難しい私ですもの。若い頃だとて、結婚したいと思ってくれる相手はそうそうおりませんでしたわ」

「そんなことはない!」


淡々と繋げられるのは、とんでもなく歪な自己認識だ。とてもじゃないが聞き流せず、僕は慌てて否定した。


「リリアンはとても綺麗だし、もし僕という婚約者がいなければきっと引く手数多だったよ!」

「ふふ、ありがとうございます。でも、本当のことですわ」


けれど僕がどれほど言い張っても、リリアンは微笑ましそうに苦笑するだけだ。


「もとより、幼い頃から変わり者で、貴族令嬢にあるまじきことに男嫌い。ですので殿下と婚約を結ぶまでは、結婚を望んだこともございませんでした」


リリアンは動揺もなく淡々と告げた。まるで自明の理を語るように。


「政略結婚の駒としては使い物にならず、公爵家の役に立てぬ己をずっと疎んでおりましたのに、おかげさまでこうして父上達のお役に立てて、しかもこんな穏やかで幸せな日々を送らせてくださって……、私、毎日殿下には感謝しておりますのよ」


朗らかとすら言える表情で、優しい年上の人は僕の頬を撫でた。


「可愛い私の殿下。私は王太子妃になることなど望んでおりません。忠実な臣下として、殿下をお守りするためにこの身を捧げられるのであれば、本望ですわ」

「リリアン……」


あまりにも澄んだ瞳で告げられた忠誠の言葉は愛の告白とはかけ離れた場所にあるものだった。

僕は何言えばいいのかわからず、絞り出すように「ありがとう」とだけ呟いたのだった。




僕と婚約を結んでいながらそんなことを言う年上のひとに、モヤモヤとした悲しみを抱がなかったと言えば嘘になる。

家族になると言ったくせにと、八つ当たりじみた感情も芽生えた。


けれど、それはリリアンとすれ違っている現状に、ただ不貞腐れていただけだ。


まさか婚約の解消を、()()()()()()()()()()()()とは、思いもしなかったのだ。






「殿下、リリアンとは、近々婚約を解消して頂きますので、そのおつもりでいてくださいませ」

「え?」


挙式を数年先に控えて、閨教育が始まった頃のことだ。

僕は将来、リリアンとこんなことをするのかと恥じらい、少し関係がギクシャクしてしまっていた。

しかし本当は、僕の中に生まれた欲情という、これまで彼女に向けたことのない感情を扱いかねていたのだ。

ただ純粋に「最も近く大切なひと」「家族にもっとも近しい存在」だったリリアンに、僕が一人の男として恋心を抱き始めたとも言えるだろう。

けれど、そんな僕のおかしな様子を、誰かが伝えたのだろう。


ある日、なぜか急に講義が変更になり、講師の代理としてやってきた公爵は講義を終えた後、僕にそう告げたのだ。

リリアンと結婚できるとは思うな、と。


「横暴だ!確かにリリアンは、僕が望めば婚約は解消できると言っていた。だが逆に言えば、僕が望むならリリアンと結婚できると言うことだろう!?」

「なりません」

「なぜだ!僕が納得できるような理由を言ってみろ!」


冷血と名高い公爵のことだから、僕をより良い国政のための道具としたら使いたいのだろう。

そのために、今はともかく、将来は他家の娘と僕を番わせた方が都合が良いと考えているに違いない。

そんなことさせてたまるものか。


僕はそう考えて、徹底抗戦の構えだった。

しかし。


「……あの子に子を望むのは難しいでしょう」


沈黙の後、苦虫を噛み潰した顔の公爵が絞り出したのは、そんな言葉だった。いたわしげな響きすら孕んだ静かな声に、僕は動揺しつつも食い下がった。


「なぜそう言い切れる?歳の問題か?確かに僕とリリアンは九歳離れているが、成人の儀を終えてすぐ、十七で結婚すれば、彼女は二十六。確かに遅めの結婚ではあるが、不可能では」

「違います」


公爵に詰め寄り、僕は早口で言い募った。しかし公爵は興奮する僕の言葉を静かに遮った。


「婚約を結ぶより前、魔力身体検査を受けた時から分かっていたことです。ゆえに、この婚約が一時的なものとなるだろうことは、陛下も了承されております」

「な、……どうし、て」


へなへなと身体中から力が抜ける。この王宮に、僕の味方は誰もいないのかと、目の前が暗くなる気すらした。


「……これは、本来ならお話ししたくないのですが。殿下がリリアンに対して、()()()()()をしてしまうといけませんので、お話しいたします。決して、他言無用でお願いいたしますよ」


ソファに座り込み、呆然と公爵を見上げる僕に、公爵はつらそうな顔で語り始めた。

リリアンが忘れている、彼女の壮絶で過酷な日々を。






「あの子は、父親である伯爵から虐待を受けておりました。ご存知でしょうか?」


どこから話そうかとしばらく躊躇った後で、公爵は僕を見据えながら問いかけた。


「それは……少し聞いている。だが、リリアンは覚えがないようだった」

「……ふふ、()()()()()()()


僕の肯定に僅かに安堵を浮かべた公爵は、その後続けた言葉にはひどく悲しげに呟いて、一つ重い息を吐いた。


「始まりはあの子が生まれる前のことです。あの子の母親、私の末の異母妹は、あの子を産んだことで亡くなりました。難産の上、産後の肥立ちもわるく、赤子のリリアンを抱くことも叶いませんでした。結婚して数年後のことです」


淡々と語られるのは、僕が生まれるより十年ほど前の、全く知らない話だ。


「あの子の両親は、珍しく恋愛結婚でして。伯爵は恋女房である妻を溺愛していました。難産で危険だった時には、『腹の子などどうでもいい、赤ん坊を殺して妻を助けろ』と、絶叫していたと聞きます」

「なんと……」


思わず絶句した。

それは確かに、僕が聞いても十分に恐ろしい話だった。


ただ両親に関心を持たれていない子供は、貴族の家ならばいくらでもいる。

むしろ、子供に()()()()()とやらを注いでいる家の方が少ないだろう。


なんなら我が父も、決して良い親とは言えない。母の生前は特に、僕よりも母を優先しているようなところがあった。

けれど父は母が何より大切なだけで、僕のことも一応一人息子としてそれなりの情を持ってはいる。


そんな僕ですら父に思うところはあるくらいなのだ。

それなのに。


「……伯爵は妻を愛しすぎていました。生まれてくる己の子供よりも、はるかに。それゆえ、リリアンはこの世に生まれ落ちたその時から、父親からは母殺しとして嫌われていました」


それなのに、リリアンは生まれた瞬間から、唯一の親から憎まれていたと言うのか。

幼い頃のリリアンを思い、息が苦しくなった。無意識に胸を押さえる僕の前で、公爵は苦しげな顔をしながらも、淡々と話を続ける。

話はまだ終わっていないのだ、真の悲劇はここからだと言うように。


「そして恐ろしいことに、あの子の父親はさらに狂っていきました。悍ましいことに……五つを過ぎた頃から、あの子に妻の影を見るようになったのです」

「……え?」


ひやり、と背中に冷たいものが伝った。

それは一体どう言う意味なのか、そう尋ねようとしたが、喉がカラカラに渇き、声は音にならなかった。

そんな情けない醜態を晒す僕の前で、公爵は静かに、醜悪で残酷な事実を告げた。


「あの子は幼くして、伯爵に()()()()()をさせられていたのです」

「……な、んだと?」


閨教育を受けていた僕の脳裏に、参考書で見た画像が浮かぶ。恋する人との行為と思えば至極胸の踊る、艶めいた秘め事だ。けれどもしそれが、父親が娘に強要するものだとしたら?


「っ、ぅぐ」


こみあげた吐き気を、ぐっと飲み込む。拳を握り締めれば、爪が手のひらの皮膚を裂いた。その僅かな痛みが、必死に僕の理性を留めていた。


「七つの歳、あの子を私が見つけた時。あの子の体には幾つもの傷がありました。内にも、外にも。……あの子の治癒能力は、己の体の傷を癒すために、無意識に育まれた力です。平民の間で治癒魔法が得意な者が多いのと同じ原理ですよ」


皮肉げに吐き捨て、公爵は鎮痛なため息を落とした。


「虐待の詳細について、あの子は語らなかったでしょう?本当に記憶がないのです。わずかな食事だけを与えられ、部屋に閉じ込められ、犯されて過ごしてきた三年のことを、あの子は覚えていません」

「……心の防衛反応ということか?」


掠れた声で問い掛ければ、公爵は疲れ切った苦笑を浮かべながら首を振った。


「それもありますが、それだけではありません。過剰な魔力を費やすと、人は仮死状態になります。そして起きた時には記憶が失われていることが多い。あの子には、それが()()()起きていたのです」

「なんかい、も」


仮死状態に陥るようなことが、何回も?

前線を駆け回る傭兵顔負けじゃないか。

そんなふざけた比較が頭に浮かび、あぁ自分は現実逃避をしかけているのだ、と認識した。

予想していたよりもはるかに最悪な、僕の初恋の女性の過去に。


「無意識下で治癒魔法を使い続けるたびに、あの子は自分の記憶を消して、心も修復していたのです」


今の僕よりも幼いリリアンが、小さな体で死と同等の痛みや苦しみに耐えていたのか。

そう想像すれば体に力が入らなくなるほどの衝撃で、今すぐ過去に駆け付けたくなる。そんなことは不可能なのに。


「ご存知のように魔力を枯渇すれすれまで使うことで、回復する時に魔力量は増幅します。十にしてはありえない魔力は、枯渇するほど何度も治癒魔法を使い続けた証です」


魔力を頻繁に枯渇させるほど過酷な日々の中では、僕を見て優しく緩むあの緑の瞳は、絶望の闇に染まっていたのだろうか。死人のような目をした幼いリリアンが頭に浮かび、心臓が鷲掴みにされたような痛みに息が苦しくなった。


「体は回復したとしても、無理やり何度も生まれ直しているようなものですからね。リリアンに初めて会った時は、歳の割には随分と幼い印象でした。私と言う大人の男の姿を見て怯え、赤子のようにえぐえぐと泣いていた姿を今も鮮明に覚えています」


冷血公爵の名に似合わないいたわしげな表情で、公爵は目を閉じた。


噛み締められた唇は愛情の深さを表すようで、かつて父王から与えられた助言を思い出した。

あの男は冷静沈着なだけで、身のうちに入れた者には甘いから、お前も頑張って内側に入れ、と。


この公爵に引き取られたことだけは、間違いなくリリアンの幸福だっただろうと、そう思った。


「魔力属性や魔力量を理由に、あの子を伯爵家から引き取りました。我が家には娘が居ませんでしたので、政略に使うのだと言って、父親を押さえ込みました。けれどあの子の父親はしぶとかった。妻の忘れ形見であり、最愛の妻と生き写しに育つあの子に執着し、手元に呼び戻そうとしました。我が家だけではもう手に負えなくなってきたところで……この婚約の申し出があった」


ぞっとする展開に固唾を呑んでいれば、公爵はふっと笑って僕を見た。分かるか、と問いかけてくる瞳に、僕はゆっくりと唾を飲む。


「この婚約は、殿下の後ろ盾として我が家があることを現すことだけではなく、()()()()()()()()のものでもあったのです」


まっすぐこちらを見据える瞳に息を呑む。そして小さくうめいて顔を覆った。そこからここに繋がるのか、と驚き、己の勘の悪さに気が遠くなった。

そうか、だから。


「だから、リリアンは婚約者の立場でありながら、まるで王族のように王宮で暮らしていたんだな。おかしいと思ってはいたんだ。僕の護衛や教育が目的だとしても、あまりにも特例対応すぎて」

「そうです。それが、我が家が国王陛下に提示した条件でした」


正解です、と公爵が小さく笑う。まるで教え子の正答に満足げな教師のように。


「政治的な思惑もありましたが、何よりもあの子が、あの悍ましい父親の手が決して届かない、この宮中で過ごせる。この婚約は、我が家にとっては、一石二鳥だったのですよ」

「じゃあ」


カラカラの喉を無理やり動かして、僕は引き攣った疑問符を絞り出した。


「じゃあ、なぜ今更」

「あの父親が死んだからです。もうあの子をここに、この王宮の中に入れておく必要はない」

「かっ、勝手だな」


あまりにも公爵側の都合だけを考えた台詞に思わず罵倒したくなったが、公爵は平然と「当然です」と言い放った。


「もとより国王陛下とは、そういう約束でした。あなたの立場が固まり、王弟殿下派の力をそぐ。最近王弟殿下は()()()()()していらっしゃるとのことですし、まぁもう大丈夫でしょう」

「なっ、なんで……いや、まさか」


機密にされているはずの叔父の事故について、あっさりと言ってみせる公爵に唖然とする。


「……あれは、お前の仕業だったのか」


酷い事故にあったという叔父の情報はごく近しい者たちの中に伏せられていて、僕の元にすら辿り着かない。しかし漏れ聞こえてくる話によると、どうやら王位を狙うことなどとても出来ないだろうということだ。


「さぁ、どうでしょうか?あの方は、たくさんの恨みを買っていらっしゃいましたからねぇ。……まぁ、それは良いとして」


僕の疑惑の目に、軽く肩をすくめて受け流し、公爵はまた真面目な顔に戻った。


「妃教育の一環として、先日も詳細な魔力検査を受けました。その時にもやはり、同じ結果を言い渡されました。……過去の虐待の影響で、あの子は妊孕力が著しく落ちているとのことでした。何度も修復と治癒を繰り返す過程で、あの子は、子を持つことが難しい体になってしまったのです」


静かに締めくくった公爵に、僕は何を言えば良いのか分からず押し黙った。

ただリリアンの顔が見たいと、今は穏やかに笑顔を見せてくれる彼女を見て安心したいと、心の底から思った。


「ねぇ、殿下。あの子は結婚するよりも、私の手元の修道院で穏やかに神に祈りながら暮らすことを望むでしょう。本来は妃のような表に立ち、人々の上に立つようなことを好むたちではありません。あの子は自然の風と花を愛し、祈りの言葉を読みながら、聖歌を囁いて暮らす子です。そろそろあの子を解放してあげてくださいませ」


優しく語りかける公爵は、僕が頷くと信じて疑っていなかった。

公爵は僕のことを小さな子供だと思っているから。

僕がどれだけリリアンのことを好きだとは言っても、それは子供の執着でしかないと、そう思っているから。

けれど。


「い、やだ」

「え?」


困惑する公爵を睨みつけ、ぎゅっと拳を握り締めながら、僕は瞼の裏のリリアンに謝る。そして、力いっぱいの拒絶を言い放った。


「絶対に、嫌だ!」

「殿下!?」


もう話は終わったつもりだった公爵は、彼らしくもなく素直に驚愕を浮かべて、まじまじと僕を見返した。


「少なくとも、リリアン自身が己の意思で、……加えて、前向きな理由で解消を望むのでなければ、やはり婚約の解消をするつもりはない」

「なぜ!?子供の産めない王妃がどれほど辛い立場に追いやられるか、あなたには想像出来ないのですか!?」


声を荒げる公爵に、この男も大声を出すのかと驚く。こんな子供の言葉にこれほど乱されるのかと。


「子は神の授け物と言う。子供が出来るかどうかなど、どこの夫婦でも結婚してみなければわからぬではないか!そんなことで」

「確実に無理なのならば、十分に婚約破棄の理由になります!……お分かりですか!?あなたは王太子なのですよ!?」


屁理屈をこねる僕に、心底忌々しそうに公爵が吐き捨てた。


「世継ぎを、なるべくたくさんの子をもうけることが、あなたの一番の仕事ではありませんか!()()()の陛下がその義務を放棄なさったせいで、一番苦しんでいるのは殿下ご本人でしょうが!」

「くっ」


父と同じ愚行に及ぶのかと迫ってくる公爵の烈しい眼光に、僕は負けてたまるものかと睨み返す。


「ならば……ならばなぜ!私と婚約などさせたのだ!?私に夢など見せたのだ!!」

「殿下?」


激情のままに吐き捨てて、机を力任せに殴りつけた。少しでも気が緩めば泣きそうだ。けれど涙など見せたら負けだ。公爵にばれないように顔をそむけ、震える己の足をまた力一杯殴った。


「無理だと言うのならば、リリアンとの子供は諦めよう。けれど私からあの人まで、あの人と家族になり幸せに暮らすと言う夢まで、奪わないでくれ」


この部屋にはもう一国の王太子と宰相ではなく、愛娘を守ろうとする奮闘する男と、愛する女を奪われまいと癇癪を起こす子供しかいなかった。

血を吐くような僕の懇願に、宰相は長く押し黙った。


最愛の母は見えぬ敵による毒で奪われ、命を狙われることも少なくない王宮での生活。恐怖に疲弊する日々の中で穏やかな笑みを絶やさず、幼い私の心を静かに守り、淡々と救い続けてきてくれたのはリリアンだ。

どうか彼女を奪わないで欲しいと、僕は今にも泣き出しそうな掠れ声で、必死に訴え続けた。




「……本人が、望めば」


ひどく長い沈黙の後、宰相が絞り出した。


「リリアン本人が望むのならば、結婚しても良いでしょう」

「ほ、んとうか」


あと数年、挙式を予定されている成人の年までに、リリアンを口説き落とせばよいのだ。

かすかに見えてきた希望の光に、僕は目を輝かせた。

あからさまに表情を明るくする僕を見て渋い顔をした公爵は、低い声で念を押す。


「けれど、必ず側室か愛妾を娶ってください。世継ぎを産めという周囲の重圧は、女性にとって耐え難いものです」


普段は無表情で冷静を貫く宰相が父親の顔をして、必死に義娘への思いやりを説いている。リリアンへの思いやりよりも己の欲を通してしまった申し訳なさで、宰相の顔が見れなかった。


「あの子の母は、本来は「妻は体が弱いのだから子供は持つまい」と決めていた伯爵に、子供を産みたいと泣いて乞うてあの子を産み、そして命を落としたのですから」


激情を叩きつけあった部屋は、じっとりとした興奮に満ちて気分が悪い。

けれど、公爵の声から妥協と諦念を感じ、僕の体からは力が抜けていた。今体に満ちているのは、身勝手で圧倒的な安堵だ。机についていた手からも強張りが取れる。懇々と語る公爵から目を逸らすように、僕は顔を伏せた。


「年端も行かない少女が憧れる恋物語のような、()()()は抱きなさるな。己の立場をよくわきまえてください」

「そう、だな」


思い当たる節が多すぎて、みっともなく頭を抱えて机に突っ伏した僕は、力無くつぶやいた。


言外に、父親のようなことはするなと何重にも念を押され、理解はしたが正直納得は難しかった。

なぜ僕には、()()()()()()許されないのか、と。


「必ず、必ずです。リリアンを王太子妃とするのならば、後宮には複数の妃をお入れください。愚かな執着から、リリアンに己の子を産ませようなどとは、ゆめゆめなさらないように」

「分かっているよ、公爵。僕は父とは違う」


本当は僕も父と同じなのだ。

愛するただ一人を妻として、その者と愛し愛されて暮らしたい。

リリアンがいてくれるのならば、僕だって子供などいてもいなくてもよいのだ。


けれど、それを望むわけにはいかない。

僕は王太子なのだから。

次代に後継を残さなければならないのだから。


あぁ、父が憎い。

母だけで良いと、母だけが良いなどと我儘を言って、勝手に一夫一妻を貫いたせいで、僕は夢を捨てなければならないのだ。


もう何人か王子がいれば、そいつに王太子の座を渡してやったのに。

僕がいつ、王になりたいと言ったのか。


いや、でも、王太子でなかったら、リリアンとは会うことすら出来なかったか。

そう考えると、これは運命だったのかもしれないけれど。


「……わかっている」


様々な感情が胸の中を行き来したけれど、まとめて全て呑み込んだ。

どうにか繋ぎ止められた夢のかけらを手に入れるために、僕は涙声で約束した。


「分かっている、公爵。それだけは必ず、約束する」






そう約束した。

僕の、僕らの未来のために。


それなのに。





あぁ、どうしてこうなってしまったのだろうか。










「そんな……っ、これは、なんという……」


王族の中でも近しい者しか入れない王宮の最奥。

寝台の上で眠るリリアンを見て、公爵はそのまま床に崩れ落ちた。




港倉庫で発見された途端に意識を失ったリリアンは、そのままここに運び込まれた。

その日から三日。

やっとリリアンの容体が落ち着き、医師から許可が出たので、秘密裏に公爵を呼び寄せた。

これまで経過報告しかされずずっと気を揉んでいたらしい公爵は、とるものもとりあえず現れたのだが、リリアンの姿を見た瞬間に崩れ落ちてしまったのだ。


「あぁ。あぁ、なんで……またなのか……こうなると知っていれば、私は……、ああぁ……っ、無理やりにでも、さっさと連れて帰れば良かった!」


何もかもが今更すぎる繰り言を、うめくように何度も繰り返す。


「すまない……公爵……」


父親として悔やみ、ひたすらに自責する姿に、僕は謝罪することしかできなかった。


こんこんと眠り続けるリリアンは、全身傷だらけだ。魔力も底をついているので、常時治癒魔法に練り込んで魔力供給が行われている。それでも生命維持が限界だ。


「僕の手落ちだ。本当に申し訳ない……っ」


王族が頭を下げてはならないとリリアンに教え込まれたけれど、僕はその場に膝をつき、床に擦り付けるほどに深く頭を下げた。自分が許せなかった。


どれほど後悔しても、今となっては全てが遅い。

意地を張らずに、もっと早く婚約を解消しておけばよかったのだろうか。

そうでなくとも、公爵の勧める通り、さっさと何人か側室を娶っておけばよかった。

リリアンへの執着を見せなければ、彼女を排除しようとする者などいなかっただろう。

お飾りの妻として人々から馬鹿にされる立場ならば、こうも酷い目に遭うことはなかったはずだ。

僕が勝手に夢を見て、我儘を言ったからこんなことになってしまったのだ。


「すまない、ほんとうに……本当にすまない……っ」





***





「眠っているだけで、命に別状はない……のです、よね」


リリアンが眠りについてから一月。

何度目かの見舞いの時に、公爵がぽつりと口にした。

静かに確認するような声音に、僕は一瞬ためらった後で頷いた。


「あぁ。既に何度か、目覚めている。……だが、その」

「分かります」


暗い目に涙を浮かべて、公爵は眠るリリアンの前髪をそっと左右に流した。


「きっと、()()()()()()ですね」

「あぁ……公爵が言っていた通り、だ。リリアンは、記憶がない。言語や日常動作も危うい」


なるべくこの部屋にいるようにしているから、僕は覚醒を何度か見たことがある。けれど、とてもではないが、「目覚めた」とは言えない状態だった。


「一応一言二言の言葉が出る時もある。でもほとんどの時間を、まるで産まれ直したかのように、嬰児のようにぼんやりと世界を眺めている」

「なるほど。……昔より、酷そうですね」


はぁ、と公爵は大きなため息をついた。







「リリアン様は、この度、死の直前まで魔力を酷使されたことにより……幸か不幸か以前よりも魔力量が増大してみえます。そのため普通の人間であれば即死の状況ではありましたが、身体の回復は早く一命を取り留められました。しかし……どうしても、内面は難しいようです」


分かりきったことを申し訳なさそうに語る医師に、力無く手を振って退出を許した。

必死に治療してくれたのは分かるが、労おうにも声が出なかったのだ。

わずかでも口を開いたら、泣き出してしまいそうだった。

もうリリアンは戻ってこないのだと、突きつけられたのだから。




「きっと、この子は赤子に戻ってしまったのですね」


淡々とした公爵の声には、諦念と紙一重の受容、そしてひと匙ほどの安堵がこめられていた。


「何もかもを忘れて、一からやり直すのです。……だから、殿下」


ゆっくりを顔を上げ、公爵が僕を見る。その揺るぎない眼差しに、何を言われるのか察して、僕はごくりと唾を飲んだ。


「どうか、この子を解放してください。王弟殿下は今や、()()()()()()()()()で体は動かず、あとは死を待つばかり。そしてあなたはもう、十分に力をつけた。あなたを追い落とせる者はいないはずです」


親の愛を凝縮した切実な嘆願。

私はゆるゆると視線を床に落とし、頭を下げる公爵を視界から消し去った。

その僕の仕草に拒絶を見てとったのだろう。公爵は強く僕の両腕を掴み、下から覗き込んだ。目を逸らすことは許さないと言うように。


「殿下……ッ!我が家は今後もあなたの後ろ盾としてあり続けます。ですから……、ですから、お願い申し上げます!婚約解消の書類に、サインをくださいませ!」


リリアンの静かな呼吸音と、公爵の震えるような呼吸音しか聞こえない部屋。

どんどんと己の心臓の音がうるさくなる。


ギリギリと食い縛る。

頷かなければ。

今度こそリリアンを解放しなければ。

僕のせいでこんなことになってしまったのだから。


「公爵……」


顔を上げれば、射殺さんばかりの鋭い眼光が僕をみる。

この男に任せれば、悪意の届かないところで、二度と僕の手の届かないところで、リリアンは守られて暮らしていけるだろう。


「…………ぅ」


もちろんだ、と言おうとして声が詰まる。

代わりに頷こうとして、ふるふると体が震えた。


あぁ、……あぁ。

もう無理だ。


「……すまない」


噛み締めた唇からは、血の味がした。 


「僕のせいで、不幸にしてすまない……」






***






あの地獄の日から、いったい何日が経ったことだろう。


いまや僕は、即位して国王となった。

隣には、リリアンが望んだようにレアナが立っている。

レアナは歴代でも稀に見る強い聖力をもつ真聖女として、建国王妃の再来とも言われ、国民達からは熱狂的な人気をもつ。

そして、その地に在るするだけで恵みの雨を呼び大地に実りをもたらす存在として近隣諸国でも大陸の女神と誉れ高い。他国に出向けば、僕よりもよほど喜ばれ、丁重にもてなされている。




レアナは今も知らない。


あの時、何が起きたのか。

血を求めて荒れ狂った男たちの中で、どうして自分は無事だったのか。

なぜ今、自分が真聖女として崇められているのか。


そして、それを疑問に思うこともない。


なぜなら彼女は、あの港倉庫にくる少し前から、記憶を奪われているのだ。

しかもリリアンは、レアナの身体だけはなく心も守るために、あの土壇場で彼女の記憶を修正していた。


僕がレアナを愛していると。

健気な恋人同士の僕らのために、リリアンは身を引いたのだと。

真聖女と認められたレアナこそ未来の王妃に相応しいと考えて、リリアンは国と僕を託したのだと。


それは実際、あの日リリアンがレアナに伝えようとしたことなのだろう。


元々僕に憧れを抱いていたレアナは、純粋にそれを信じていた。


そして責任感と使命感も強いレアナは、敬虔な神の信徒らしく「神の思し召しならば」と覚悟を決め、僕と結婚して王妃となったのだ。

そして今は真聖女として、そして国母として、国に実りを与えている。

全てリリアンが望んだ通り、この国にとって最良の結果と言えるだろう。


レアナは存在するだけで国を豊かに富ませる、素晴らしい王妃だ。

未来の歴史書はきっと、僕のことを「学院で運命の相手と出会い、結ばれた史上稀に見る幸福な国王」として語るのだろう。


そして僕の婚約者として一時的に公的文書に名を記されたリリアンはレアナに王妃の座を託した後、潔く身を引き、領地で静かに生涯を終えた……とされるのだろう。


せめて、リリアンに相応しい形で幕引きを整えたかった。

将来の歴史書は彼女の素晴らしさを正しく伝えてくれるだろうか?

いや、無理だ。きっと碌でもない憶測で、リリアンの名誉を貶めることだろう。


誰かれ構わず真実を言って回りたいという思いもあった。

けれど僕は、いや、僕らは口をつぐみ、レアナという稀代の真聖女を守り抜いたリリアンの偉業を伝えることはしなかった。

だって、リリアンは()()を望んでいなかったから。




だから、レアナは知らない。


リリアンのおかげで、その身を汚されることはおろか、小さな傷ひとつなく、無事に帰ってくることができたのだということも。




そして。




リリアンが未だ、後宮の外れの別塔で、ひっそりと夢の世界に生き続けていることも。





***






「……かの方のお加減は、いかがですか?」

「変わらずだ」


深夜の執務室。

問いかけてきたのは、あの災厄の日、僕と共に現場に乗り込んだ近衛騎士だ。幼い頃から僕とリリアンに付いてくれていた彼は、事実を知る数少ない人間のひとりでもある。


「まだ、()()()()()()()

「時折、夢を見て寝言を話すようにして言葉を使う。けれど、それだけだよ」

「あんなにしっかりとした、素晴らしいお方でしたのに……」


鎮痛な声で話す彼は、リリアンより少し年上だ。リリアンとともに僕を見守ってきてくれた者であり、僕の目付役同士、リリアンとの交流もあったから、その言葉には深い悔しさと哀しさが込められていた。


「駆けつけた時は、しっかりと話されていて、さすがリリアン様だと安堵したものでしたが、……あれで安堵してしまった私が愚かでした」


悔やむように言う騎士に、僕は自嘲と共に目を伏せる。

僕も似たようなものだった。


僕の呼ぶ声に応えて、いつも通りこちらを見て眼差しを和らげてくれたリリアン。

その姿を見て、僕は咄嗟に「よかった、大丈夫だ」と思ったのだ。

そんなはずはなかったのに。


「ははっ、むしろ、保護した時がおかしかったのだろう。あれだけ無茶苦茶に魔力を使い果たして、身体は拷問と強姦でめちゃくちゃ……、普通なら、舌を噛み切りたくなるものだろうに」


口にするだけで体に震えが走った。


あぁ、覚えている。

今でも鮮明に覚えている。


リリアンの整った顔と美しいくびれを持つ体の、あらゆるところに飛び散った夥しい鮮血と悍ましい白濁液。白く透き通る肌に刻み込まれた、赤黒く醜い幾千もの裂傷、挫傷、打撲痕。床に散らばっていたのは引きちぎられた髪と剥がされた小さな爪。すらりと真っ直ぐに伸びた細い足はおかしな方向に捩れ、白魚のような指は何本もブラブラと揺れていた。


「あの状況で意識を保っていられたのがおかしかった……いや、それもちがうな、リリアンは意識を失えなかったんだ。()()()()()()()()()


見ているだけで気が遠くなりそうな傷だらけの肌を衆目の目に晒しながら、リリアンは澄み切った笑みで助けに向かった私たちを見た。

安堵したような瞳の柔らかさと、やり切ったという達成感に満ちて弧を描く唇。


僕を含めて、その場にいた者は皆、思わず息を呑み、足を止めそうになった。

リリアンの不自然なまでの清らかな美しさに、あんな状況なのに僕らは見惚れてしまったのだ。


「……本当に、お強い方でいらっしゃいました。あの状況でも、あのお方はどこまでもお美しかった」


この騎士も覚えているのだろう。

誰のものともわからない血と汗と涙と涎と、そしておぞましい体液に塗れながら、美しいはずの裸体に破れた服のかけらを引っ掛けて、眠るレアナを抱きしめていたリリアン。


その異様な美しさと恐ろしさを。

僕は、忘れることなんてできない。


「あぁ、強くて美しい女性だった。けれど、到底、正気ではいられないような苦痛と恐怖と屈辱を味わい続けて、……守り続けて、プツンと、糸が切れたんだろう。そして魂がどこかへ飛んでいってしまったんだ」


体に魂を繋ぎ止めていた糸が、きりきりと張り詰め、千切れていく像が目に浮かぶ。

彼女の魂は今、どこを漂っているのだろうか。


「どこに行ってしまわれたのでしょうね……」

「そう、だな」


魂のない抜け殻のような彼女を見つめ続ける日々の中、何度もそう思った。

リリアンは、どこに行ってしまったんだろう、と。


あの日からずっと僕は己を責め、憎み続けてきた。

やり場のない憤怒、目の前が真っ暗になるような不安、己の首を切り裂きたいほどの後悔、押しつぶされそうな恐怖。

ありとあらゆる負の感情が身のうちに渦巻き、この身体を食い破ろうとする。

いつか、この嵐を我が身の内に閉じ込めていられなくなりそうな気がしていた。


「リリアン様より優れたおひとを、私は知りません。どうか一日も早く、陛下の元へ帰ってきてくださることを祈るばかりです」

「……あぁ、ありがとう」


いつものように一つ大きく息を吐き、荒れ狂う内心を押し殺す。そして心からの同情と祈りを捧げてくれた忠義の騎士を労った。


「ご苦労、もう下がっていいぞ」

「はっ」


一人になり、しんと静まり返った部屋の中。

ぼんやりと目を伏せたまま、僕は小さく呟いた。


「僕も、祈っているよ」


あの日からずっと。


ずっと。





***





ふと、目を開けた。


俯いていた顔を上に向けると、眩しいほどの日差しが目に飛び込んで来て、顔を顰める。


「まぶし……」


しかめっ面で呟いて、首をかしげる。

私、なんで外にいるのかしら?


「なっ、あ、え、えぇっ」


背後から奇妙な、そして、聞き覚えのあるようなないような声が聞こえてきた。私は振り向こうとして、固まった。


「え?どうして車椅子に?」

「リリアンッ!」

「え?きゃぁッ!」


大慌てで前に回り込んできた彼に、ガバリと急に抱きしめられて、私は悲鳴を漏らした。

絞り出す声が妙に掠れているけれど、気にする余裕もない。


「な、な、な、何をなさいますの!?」


真っ赤になっているであろう顔を隠すように片手で顔を覆い、もう片方の手で彼を押し戻す。


「婚約は解消とお伝えしましたでしょう?真聖女様を妻にお迎えになる男性が、他の女性に抱きつくなんて、不誠実な真似をなさってはいけません!」


憤慨している私をよそに、弱い力でも簡単に押しのけられてくれた彼は、おかしそうに「あはははははははっ」と笑い出した。



「え?……あら?」


真正面から見上げればまだ、やけに老けた顔。

まだ十代半ばのはずなのに、目尻にはうっすらと皺があるし、髪の中にも数本の白い髪が見える。


「……殿下、いつの間に白髪が交じるようなご年齢になりましたの」


呆然としながら問えば、ジュリアンは吹き出した後に苦笑する。


「寝起きのくせに、相変わらずめざといひとだね、リリアン」

「寝起き?」


首から下を見下ろせば、見たことのない、寝巻きのような室内着。


「ええっ!そんな、私ったらなんて格好をしておりますの!?ここは屋外でしょう?」


慌てて周りを見回すが、どこかの庭園のようで、幸いにも他に人はいない。

ほっとした後で周囲をよく見ると、一度だけ訪れたことのある王家の避暑地だと気がついた。


「ここ、ヘンルーネ地方ではありませんこと?どうして私はここにおりますの?」


呆然とする私の問いかけに、彼は妙な顔で「あー」とか「んー」とか言った後、急に笑い出した。


「ふふふっ、はは、あはっはははは!ものすごく普通にお喋りしてくれるんだね、リリアン。起きたばっかりのくせに」

「え?」


大爆笑するジュリアンを睨みつけながら、私は改めて首を傾げる。

明らかに細くなっている手、足、首。

痩せたというよりも、筋肉がごっそり落ちたというような。


「……私、病気でもしていおりましたの?」

「んー、まぁ、そんなところかな?」

「……全然思い出せませんわ」


己の痩せ細った手を愕然と眺めていると、ジュリアンは困ったように視線を彷徨わせた後で首をすくめた。


「あー、病気の……いや、薬の影響だと思うよ」

「そんな強い薬使いましたの?私ったら、なんの病気に?」

「いや、……あー、体はもう大丈夫のはずだ。なまってるだけさ」

「なまっている、で済ませて良い状態ではありませんけれど」


何せ腕を持ち上げるだけで一苦労だ。


「君、二十年以上も夢現で()()()()()()()()んだ」

「えぇっ!?そんなに寝ておりましたの?」


想像以上の長さに、私は絶句する。そんなに寝ていたのでは、きっと世の中は大きく変わってしまっていることだろう。まるで精霊世界に迷い込んでしまった御伽話のような気分だ。帰ってきた世界が百年後ではないだけマシだろうか。


「はぁ、それにしても急だなぁ。夢現の君相手に独り言を言っていたつもりが、急に喋り出すのだもの。嬉しいけれど、びっくりだよ」


ジュリアンはにこにこしながら私を見つめている。そして、「あ、そうだ」と手を打った。


「早く公爵家に連絡しないと。きっと慌てて駆けつけてくるよ」

「あ!おとうさまたちは、お元気ですの?」


二十年もしたら、下手をしたらもう儚くなっているのではと青くなったが、ジュリアンは笑いながら頷く。


「元気さ!公爵はまだ爵位を譲らず宰相も辞めていないよ」

「そんな!?働きすぎですわ!」


先ほどとは違う意味で言葉を失う。あれから二十年以上経っているのならば、父はもう相当な老人のはずだ。


「何度か辞めようとしたらしいんだけどね、苛々してしまうらしくて「見守るのは性に合わない」と戻ってきてしまうんだよ。でも今はたくさん下が育っているし、公爵も監督しているだけでご自分で動いているわけではないから意外と平気だよ」

「それならば……よいのですが」


苦笑混じりの言葉を一応信用して、飲み込む。けれど私は思いついた疑問に、再びハッと顔を上げた。


「二十年の間に、他には何がありましたの?殿下、ご結婚は?」

「したよ、()()()()()()()()、レアナと」

「え?私の言った通り?」


思いがけない言葉に、私は首を傾げる。殿下にとって好ましいようにと整えたような記憶はある。けれど正直記憶に靄がかかったようで、詳細はあまり思い出せない。なんだか苦労した覚えはあるけれど。


「はは。君、僕とレアナが結婚するようにと、いろいろ整えていただろう?」


苦笑まじりに淡々と告げられ、あぁそうだったと思い出した。


「だから、その通りにしたよ、という報告さ」

「え?えぇ、……あぁ、なるほど?」


ジュリアンの奇妙な言い方に、私は戸惑い混じりで頷く。

けれど、すぐに眉を顰めて苦言を呈した。


「そう、思い出しましたわ!私、殿下は一途でロマンチストでいらっしゃるから、きっとお父君のように愛する人をきちんと正妃として迎えたいだろうと思って、整えたのですわ。それなのに、まるで私が言うから結婚したみたいな言い方……!レアナ様にも失礼ですわ!」


根回しはそれなりに大変だったのだ。骨を折った私にも失礼である。

そう憤慨すれば、ジュリアンは苦笑して頬をかいた。


「あー、ごめん。でも、うーん……まぁ、それはいいじゃないか。……もう、昔の話だ」


何かを言いあぐねたように視線を泳がせてから、ジュリアンは諦めたように肩をすくめた。


「でもまぁ、とにかく、君の描いた通りにしたんだよ。おかげで国は富み栄えて、今や大陸の中でも最も強大な国と言われているよ。そういえば昔僕らを馬鹿にしてくれたお隣の皇太子が、先日食糧支援を申し込みに来てね。随分と老けてみっともなくなっていたよ。いい気味だと笑ってしまったね」


けらけらと笑いながら語るジュリアンを見るに、きっと我が国が昔より栄えているというのは事実なのだろう。それならば良かった。殿下の御代に栄えあれと願って仕えてきたのだ。私の長年の苦労が実ったということだ。


「それにしても殿下、お忙しいのでは?こんな辺境にいらしてよろしいのですか?」


大陸の近況を伝えてくれるのは興味深かったが、それよりも目の前のジュリアンの近況が気になる。

話の途中で心配して尋ねれば、平然と返ってきた。


「平気だよ、それに僕はもう殿下じゃないから」

「では、へ、陛下?」


それもそうか、二十年も経っているのだから、と、馴染まぬ呼び方でジュリアンを見上げれば首を振られた。


「ううん」

「え?」


思いもかけない返答に唖然として瞬きが増える。動揺を隠せない私に、ジュリアンは、これまたあっさりと告げた。


「もうね、息子に譲位したんだ」

「えええっ!?早くありませんこと!?」


軽い口調で告げられた衝撃発言に絶句する。

二十年経ったところで、ジュリアンはまだ四十歳程度。まだまだ引退する歳ではないはずだが。


「君が、あー、寝込んだ後。いろいろあって父が心を病んで引き篭もってしまってね。成人と同時に即位したんだ」

「まぁ……」


その状況での即位、若き国王となったジュリアンの苦労はどれほどのものだっただろうか。

理由は分からないが眠りこけていたことが悔やまれる。私がお側にいられれば、手助けできただろうに。

レアナ様に妃教育を行うことすらできなかったのだもの。


「それで、まぁ、即位が早かったからさ、もう疲れてしまってね。早いけどよろしくって、息子に頼んできた」

「そうでしたの……では、レアナ様は?」


簡潔にまとめたジュリアンは、肩をすくめて話を終わらせた。吐息混じりに相槌をうち、気になっていたことを尋ねると、またあっさりと返された。


「あぁ、少し前に離婚してね」

「ええぇぅ!?王族が離婚!?」

「あ、ごめんごめん、最近法律を改正したんだよ」


法律を改正。

思いもかけない単語に衝撃が走る。目の前のこの人が、確かに国王だったのだと妙に実感した。


「それは……レアナ様が望まれましたの?」

「うん。王子を3人産んで、次代も育ち、最近孫も生まれた。もう自分は十分にお役目を果たしたでしょう、ご褒美をください、と言われてね」


あぁ、よかった。

僭越なこととは思いながらも、私はほっと安堵した。

私が引き継ぎを行えなくても、レアナは立派に王妃という大役を果たしてくださったのだと。


「体が元気に動くうちに身軽になって故郷に帰りたいというから、これまでの国への献身の礼として離婚を認めたんだ。王族のままだと、どうしても王宮を出ることが難しいからね」

「まぁ……」


時代は変わった、とでも言えば良いだろうか。

あまりにも大胆な行動に、言葉もない。


「ふふ、それにしてもこの二十年ほどで、随分と逞しく、肝の据わった女になってねぇ」


そう言ってさも面白そうに頬を緩めるジュリアンを見るに、やはりレアナとは良い関係だったのだろう。離婚したと言われて、過去の自分の行動は誤りだったのだろうかと思い、慌ててしまった。


そんなことを考えていたら、とんでもない話が続いて、私は目を見開いて悲鳴を上げる羽目になった。


「聖力も、あると碌なことがないと言ってね。神殿で離婚が成立したその日に、故郷に伝書鳩を飛ばして、数年前に奥方を亡くしたという従兄弟殿と再婚を決めていた。今はもう平凡な主婦をしていると聞いたよ」

「なっ!え、えぇっ!?聖力を手放すなんて、そんなこと、許されるのですか?」


驚愕の展開に力の入らない体で身を乗り出す。聖力は失ってはならないものだと、そればかり考えていたのに。


「平気さ、我が国はもう、十分に祝福を享受した。本人の意思に反して神の愛し子を使い潰したら、逆に神の怒りを買ってしまうだろうよ」

「た、たしかに……?」


目から鱗が落ちた気分で呆然とする。

けれど、いまや他の男性と結婚しているというレアナの話を受けて、私は嫌な予感に胸がざわめくのを抑えられなかった。


「あの、もしかして……」

「ん?」


ふと思いついた一つの仮説は、私の背筋をぞっと凍らせた。平然とした顔のジュリアンを前に言い淀むが、やはり聞いてしまおうと私は思い切って顔を上げる。


「レアナ様との離婚は、殿……いえ、ジュリアン様が、私のお世話をしてたせいではありませんの?」

「じゅりあんさま……?じゅりあんさま……」


覚悟を決めて尋ねたのに、ジュリアンは妙な顔で固まって、私の言葉を反芻していた。

殿下ではなくなったと言ったから、名前で呼んだだけなのだが、何か気に障ったのだろうか。私の質問には答えず、ひたすらブツブツと己の名前を繰り返している。

首を傾げて待てば、ジュリアンは「うーん」と呻きながら数秒、無言で顔を覆った。その後、ふぅと息を吐いてから苦笑を見せる。


「あー、それは違うよ、リリアン。僕とレアナは別に不仲ではなかったからね。熱烈な夫婦ではなかったけれど、お互いに尊重し合い、良い関係を築けたと思う」

「それならば、よろしゅうございましたわ」


ジュリアンの穏やかな表情を見るに、それは真実だろうと思われた。ほぉ、と深く息を吐いて胸を撫で下ろす。

そんな私の様子をじっと見ていたジュリアンは、ゆっくりと口を開いた。


「ねぇ、リリアン」


どこか熱を持ち、掠れた声。

先ほどまでと異なる雰囲気に首を傾げながら、記憶よりも歳をとったジュリアンを見上げる。


「君から見て、今の僕はどう見える?」

「え?」


じっと目の前の顔を見る。

年齢だけならば、当時の陛下と同じくらいだろう。けれど、一言で言うならば、今のジュリアンの方が陛下よりもずっと漢前だった。

きっと良い人生を歩いてきたのだろう。


「えぇ、とても素敵な男性になられましたのね、ジュリアン様」

「ふふ、本当?……ありがとう」


照れてはにかむ仕草は記憶の中と変わらない。そう微笑ましく思っていたら、ジュリアンは私の目の前に膝をついた。


「ねぇ、リリアン。初めて会った時の約束、覚えてる?」

「初めて?」


怪訝な顔で首を傾げる私の前に、ジュリアンは微笑んで右手を差し出した。


「僕の家族になってくれますか?」

「っ、……ぁ」


思わず目を見開いた。

それは、私が小さな王子様に語った、子供騙しのお話だ。


「そ、んな……」


答えに困って目を伏せれば痩せ細った手が見えた。我に返って、こんな体で答えられる訳がないと断ろうとするが、ジュリアンは先手を打つように私の手を包み込んだ。


「ねぇ、お願い。僕と家族になるって約束、果たしてよ」


甘えるような声の懐かしさに、思わず涙が溢れそうで胸が詰まる。


「お願いだ、リリアン。僕の我儘を聞いてくれる?」


小さな王子様と王宮で過ごした日々が甦る。

あの優しくて愛おしい毎日が、もう一度帰ってくるのだろうか。


「こんな体の私でも、よろしいのですか?」

「もちろん!リリアンがリリアンであればそれだけで良いんだ」


震える声の問いかけに、ジュリアンは力強く頷く。そして私を、まるで壊れ物にするように、そっと抱き寄せた。


「ねぇ、元気になったら、また一緒に庭で食事をしようよ。そして、茶菓子を食べながら、他愛もないお喋りをするんた」

「ふふっ、そんなことでよろしいのですの?」


涙声で尋ねれば、少しだけ潤んだ声が小さく笑う。


「そんなこと、じゃないよ。僕はこの二十年以上、ずっと()()()()()がしたかったんだから」


記憶よりずっと歳を重ねた顔に、憎らしいほど記憶のままの笑みを浮かべ、私の小さかった王子様は言った。


「ずっと待ってたんだ。


これからよろしくね、僕のリリアン」


昨日今日と慌てて書き上げたので、誤字脱字報告ありがたいです。

とりあえず書き上げて投稿!と突っ走ってしまったので、表記揺れなどもまたじわじわ修正させて頂きます。


前編後編にするには長すぎるお話でしたが、読んでくださりありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
面白く読ませていただきました。 すごく好きなテイストの話です。でもちょっと辛すぎますね(T_T) 年下王子様、年上婚約者、大好物です。文章も読みやすくて好きな感じです。 辛い壁もそこそこあるものも好き…
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