私の身命をかけてお守りする、愛しい殿下へ
「とうとう追い詰めたぞ、手間をかけさせやがって」
目の前には破落戸のような形をした男たち。けれど隠しても滲み出る魔力量が、彼らが貴族の端くれであることを教えた。まぁ、隠し切れない時点で小物ではあるのだが。
「リリアン様……」
背中にそっと添えられた手はかすかに震えている。私は肩越しに振り返り、背後に護る少女へ笑いかけた。
「大丈夫ですわ、レアナ様。わたくしにお任せくださいな」
追い詰められて絶体絶命な状況など感じさせない余裕で、目の前の愛らしい少女の頭を優しく撫でる。まるで幼子を寝かしつけるかのように。
「こちらを見て」
言われるがまま顔を上げた素直な娘と視線を合わせて、一度だけゆっくりと瞬く。途端に、私を見上げる瞳がぼんやりとゆらめいた。
「……え?」
状況とはちぐはぐな己の体への違和感に彼女が気づいた時には、もう術は完成した後だった。
「っ、ぁ……リリアン様!?な、なにを」
「おやすみなさいませ」
慌てたように目を必死に開き、私に縋りつこうとするレアナに、私はどこまでも優しく微笑む。
「り、りあ……さ……」
「大丈夫。眠りから覚めた時には、すべてが終わっておりますわ。何も心配することはありませんのよ」
力の抜けた体をそっと抱き留め、静かに地面に横たえる。
「あとは、聖女様にお任せしますわね」
耳元でそっと囁いて、私は顔を上げた。
どうか最後まで、よく眠っていておくれと祈る。
ここからは、うつくしい彼女には見せられない悍ましい戦いになるだろうから。
「おい、冷血姫。お嬢さんを寝かしつけて、どうするつもりだ?」
一部で囁かれている私の渾名を口にして、ボスらしき男がニヤニヤと問いかける。
「俺らにセイジョサマを献上して、自分だけは逃してくれとでも言うつもりか?」
「おほほ、まさか!聖女様にこれ以上小汚いものをお見せするわけにはいかないでしょう?」
「はぁ!?」
耳障りながなり声が幾十も重なって不愉快だけれど、私は高らかに笑いとばした。
「お前たちの相手など、私一人で十分よ」
「ははっ、出来るわけねぇだろ!魔力も枯渇してるくせになァッ」
残念ながら、その通りだ。
実際に私はもう魔力切れで倒れる寸前。必死で己に回復魔法をかけてはいるが、レアナ様を包む防御魔法の維持のために回復したそばから使い潰している状況だ。
ついでにおそらくは、助けも期待できない。
つまりは私は、もう絶体絶命なわけだけれども。
「まったく問題ございませんわ」
そう、問題はない。
これはとっても簡単なお話だ。
だって、ここは場末の港倉庫。
魑魅魍魎うずまき、どこから毒矢が飛んでくるか分からない王宮ではない。
目の前で喚いているこの下賤で小物な奴らから、レアナ様を守り抜くだけで良いのだ。
私は魔法を切らさないように、つまりは死ななければ良いだけ、なのだから。
「大丈夫。……殿下の愛する方は、わたくしがちゃんとお守りいたしますから」
それが私の求めた、私の存在意義なのだから。
***
人の情を持たぬ冷血と畏れられる公爵家の一人娘。
母を亡くし、後ろ盾を持たぬ幼い王太子と婚約する、九歳上の公爵令嬢。
それが私だ。
運命に流されるまま、淡々と生きているだけだったのに。
私は気がつけば、流行りの小説に出てくる悪役令嬢のような立ち位置にいた。
どこから歯車が狂ったのか、今でも私には分からない。
私は歴史ある公爵家の令嬢として恥じぬように生きてきた。
王立魔法学院では実技、座学ともに首席を誇り、他の追随を許さぬ才媛として名を馳せた。芸術にも造詣深く、奏楽も嗜み、マナーは淑女を目指す令嬢たちの手本であると評された。
我ながら微瑕ひとつない完璧さで、人々からは称賛を集めていたはずだ。
けれど同時に、美形揃いの公爵家の中で凡庸極まる容姿のため、公爵家の血を引きながら平凡な顔を待つ哀れな失敗作と蔑まれる存在でもあった。
私はあまり気にしてはいなかったけれど、両親は随分と気を揉んでいたようだ。なんとか対応してくれようとしていたが、残念ながらあまり効果はなかった。
当時、私に婚約者がいなかったこともその風潮を助長したのだろう。釣り合う男がいないと嘯いて独り身を貫いていたけれど、高位貴族なら入学前には婚約者がいるのが当然の世の中で、年頃の男性に相手にされていない惨めなご令嬢だったのだから。
まぁ、そんな私が突然王太子の婚約者になどなったのだから、学院の学生たちはもちろん、世間も大騒ぎだった。
そして上がった声は、肯定的なものより否定的なものの方がはるかに多かった。
お相手も問題だったのだろう。
私の婚約者となったのは、国王陛下唯一の王子、ジュリアン殿下だ。
隣国の大して力を持たない伯爵家の次女を母とするジュリアンは、国内の伝統貴族たちから嫌われていた。
伝統保守を謳う彼らにとって、他国の、大して尊い身分でもない女の血を引く王子など、不快極まるものだったのだ。
そして、そんな保守的な伝統貴族たちの支持を集める王弟殿下派は、ジュリアンが生まれた時からずっと彼を排除しようと画策してきた。
「これでは国が乱れます、陛下。保守派の貴族から第二妃をお迎えください」
宰相でもある我が父は何度もそう進言したというが、ただでさえ肩身の狭い王妃がこれ以上王宮で苦しむのはと、王妃を溺愛する国王は頷かなかった。
父の率いる改革派貴族たちも、繰り返し苦言を呈したという。
このままでは神聖であるべき王宮で血が流れる、と。
しかし国王は頷かなかった。
そして。
「あぁああッ!王妃よ!我が唯一の妃よ!」
凍てつく冬の奥宮に国王の絶叫が轟いた。
陰湿で血生臭い戦いの果てに、とうとう王妃が暗殺され、国王は決断を下した。
己の結婚を、ではない。
公爵家の一人娘、冷血姫と名高い私を、一粒種の王子の婚約者とすることを、だ。
「国王陛下は愛妻の死で気が触れた!」
発表された日は、そんな悲鳴じみた罵倒があちらこちらで飛び交った。
我が公爵家は、この国で国庫を上回る財をもち、第二の王家とすら揶揄される。
権力の分散のため、これまで王家と縁続きになることを極力避けてきたのだ。
それにもかかわらず、ここにきて結ばれた婚約に、我が国は大いに荒れた。
なにしろ国王の持てる力は、権威を除き、全てが公爵家より劣る。
王が頭を下げて申し入れたとされるこの婚約は、公爵家の傀儡となることを王自身が宣言したにも等しかったのだから。
「ジュリアン殿下、こちらが我が娘、リリアンです。本日より婚約者として、これから殿下をお支えいたします」
「お初にお目にかかりますわ、ジュリアン殿下。どうぞよろしくお願い申し上げますね」
初めてジュリアンと顔を合わせた日。
膝を折って顔を覗き込めば、深い湖の底のような群青の瞳がくるりと私を見返した。
「こんやくしゃ……」
噛み締めるような言葉は、理解が追いつかないのだろう。
私は微笑を作ったままじっと待つ。
友達の前に婚約者を、しかも、見上げるほどに大きい、大人のような女をあてがわれたのだ。
難しそうに眉を寄せた小さな王子様に、私はそっと両手を差し出した。
「婚約者というのは、殿下をそばでお支えする人間のことですわ」
「ゆうじん?」
「いえ、もっとお側で。これからは殿下の家族のように、同じ王宮に暮らさせていただきますわ」
私は学生時代から、魔法騎士団に無試験で入れると言われる程度には攻撃魔法が得意だった。上位クラスでトラブルが起きないのは、私の存在自体が抑止力となっているからだと言われたほどだ。
その上、私はなぜか治癒魔法にも異常に秀でていた。だから、いつ毒を混入されるかも分からない王宮で王太子を守ってくれと、国王陛下に直々に頼まれたのだ。
「かぞく……では、あねうえになってくださるの?」
「いいえ。私は他人です」
ほのかな希望が込められたはにかんだ笑みを、私は静かに否定する。すうっと悲しみを浮かべた小さな殿下に、そっと言い添える。
「将来家族になる約束をした、他人ですわ」
「かぞくに、なる?」
不思議そうに首を傾げるジュリアンに、私は貴婦人らしい楚々とした笑みを浮かべたまま、家庭教師のように説明した。
「ええ、殿下のお父上とお母上のように、夫婦になる約束をした人間のことを、世間では婚約者と呼ぶのです」
「ふうふ……」
私の言葉を難しそうに眉を寄せて聞いて、ジュリアンはじっくりと己の小さな体を見下ろした。その仕草の稚さに、思わず口元が緩む。まだ子供の自分が父と同じように、と言われても戸惑いが大きいのだろう。
「殿下が大きくなったら結婚するというお約束で、私は殿下のお側で過ごさせて頂く、ということです。……ちょっと歳が上ですけれど、これから末永くよろしくお願い申し上げますわ」
笑って言ったものの、五歳と十四歳は、ちょっとどころの年の差ではない。
ジュリアンにとっては、当時の私はきっと周りの大人と同じように、見えたことだろう。
けれど、父王達から無理矢理押し付けられた私と言う奇妙な婚約者を厭うこともなく、ジュリアンは私に笑いかけた。
「ありがとう。これからよろしく、リリアンじょう」
「……はい」
小さなまろい手で差し出されたのは、純粋な好意だった。
この醜い王宮で生きてきて、どうして、と不思議になるほどに穢れのない心。
「こちらこそ、」
いつも通りの微笑を貼り付けようとして、顔が強張る。
色のない日々を過ごしていた私の前に差し出された、生命力に溢れた鮮やかな笑顔。
そして幼くとも強く、どこまでもまっすぐな瞳に射抜かれてしまったのだ。
「よろしく……」
言葉に詰まり、こくりと小さく呑み込んだのは、ピカピカと光る感情。
冷血姫と呼ばれて、心を閉ざして生きていた私の中で、初めて生まれた煌めきだった。
「……よろしく、お願い申し上げます。我らの王太子殿下」
何年振りかの自然な笑みで、私は心から告げた。
「私は殿下のために在る者。この王宮で私だけは、必ず最後まであなたの味方となりますわ」
この方のために身命を捧げられるならば、臣下としてこの上なく幸せなことなのかもしれない。
無感動に生きてきた私の胸に、そんな淡い希望すら芽生えた。
その思いが強くなったのは、数年後の外遊先でのことだった。
ジュリアンの十歳のお誕生日を迎える少し前、隣国の皇太子の結婚式に招かれ、私達は二人で参列した。
実力主義の隣国で、己の力を示して皇太子の座を勝ち取ったという第三皇子は、傲岸不遜を絵に描いたような人物だった。
国家間の序列に応じて、五番目にお祝いの言葉を述べた私たちを、皇太子はあからさまに見下して笑った。
「俺は好きな女を娶ったが、あなた方は大変だな」
華やかで美しい少女を隣に侍らせながら、王族にしては珍しく恋愛結婚だという皇太子は同情を装い、さも楽しそうに嘲った。
「御母堂がお亡くなりになった後は随分と揉めていたそうじゃないか。婚約者殿のご実家のおかげで、今は落ち着いているようで何よりだ」
後ろ盾欲しさに公爵家に泣きついた軟弱者だと。
「婚約者殿も控えめで、あまり人前がお好きなタイプではないと見える。本来なら田舎で刺繍でもしていた方が落ち着く質だろう。まるで修道女のような、素朴な御方だ。殿下のお国では、このような女性が美人なのですなァ?我が国とは違うようだ」
家の力がなければ王族の妻になどなれぬ地味な容姿の行き遅れ女だと。
「それだけ歳が離れていると、朝も昼も夜もお勉強に付き合わねばならなくて、大変だなァ。……おや失礼、幼子を前に失言だったな」
年嵩の婚約者に身売りした惨めな傀儡王子と、お子様に嫁いで夜伽まで教えてやらねばならない哀れなお嬢様だと。
その後も至る所で散々嘲笑され、一日中微笑を、いや、苦笑を貼り付けていたジュリアンは、私たちに与えられた部屋に戻ると、かすれた声で謝罪をこぼした。
「今日は、すまなかった」
「殿下、どうか謝らないでくださいませ」
苦しげに目には涙を浮かべて、まだ十にもならない少年は、血が滲むほどに唇を噛み締めていた。
「僕が不甲斐ないせいで、あなたまで辛い目に遭わせてしまう」
「殿下……」
年嵩の婚約者を与えられた哀れな傀儡王子と、大国の人々に嘲笑された日。
蔑まれるような立場に置かれた己の不運に憤るのではなく、ジュリアンは私を思い遣って苦しみ、涙を堪えていたのだ。
「泣かないでくださいませ、可愛い殿下」
まだ十歳にもならぬ小さな身体で、全ての責を己で背負おうとする哀れな王位継承者を、私はそっと抱きしめた。
「大丈夫ですわ、殿下」
人より華奢な私の腕でも簡単に包み込んでしまえる小さな身体。この背にはどれほどのものが重くのしかかっているのであろうか。
「私は殿下より九つも年上なのです。大人なのですから、お守り頂かなくても平気なのですよ」
震える背中をそっと摩りながら、私は小さく誓った。
「あなたの大切なものは全て、私がお守りいたしますわ」
***
ジュリアンと私の仲は、一般的な婚約者の関係とは少し異なっていたかもしれないが、比較的良好だった。
ジュリアンが五つの幼子だった頃から、私は王宮で共に過ごした。
婚約後は王立魔法学院へも王宮から通っていたが、飛び級して最短で卒業した後はほとんど王宮から出ることはなかった。
この十年、私はジュリアンの一番近しい存在だっただろう。婚約者でありながら、時に護衛で、時に家庭教師、そして時には乳母だった。
家族の真似事をしながら王宮で過ごしたのは、驚くほど穏やかな十年だった。
けれど、王宮から一歩でれば、私の存在を厭う人の方が多かった。
ずっと人々から疎まれていることは知っていた。
私とジュリアンの婚約が、国内ですら歓迎されていないことも、よく知っていた。
我が家や陛下の手前、声高に言われることはなかったけれど、私の周りで醜悪な揶揄や辛辣な陰口は日常茶飯事だった。
中でも、九つも上の婚約者を押し付けられた哀れな王子様、という話題はよく耳にした。
貴族社会よりも、むしろ庶民の中でこそ人気の話題だと聞く。
なにしろ近年は、身分差恋愛の成就や、悪役令嬢が酷い目に遭う話が流行りなのだ。
私たちはとても典型的な「可哀想な王子様」と「酷い悪役令嬢」の立場にあった。
冷血公爵家の一人娘。
とうに結婚適齢期を過ぎた年増女。
そのくせ、親の力を振り翳して、後ろ盾を持たない幼い王太子の婚約者におさまった悪女。
王妃様がお亡くなりになったのを良いことに王宮に棲みついて、まるで自分が王妃様かのように大きな顔をしている唾棄すべき魔女。
根も葉もない、とも言い切れない、かすかに真実を含んだ謗言は、誰かの悪意とともに、あっという間に城下へと広まっていた。
そしてある頃から、人々はことさらに私を悪役令嬢と呼ぶようになった。
王太子と聖女候補の少女の恋を妨害する極悪非道な女だ、と。
そう、恋だ。
どうやらジュリアンは、聖女候補の少女と恋をしているらしかった。
らしい、というのは、本人から聞いたわけではないからだ。
再来年に私との挙式を控えているジュリアンは、思慮深く思いやりもある方だから、私の前でそんな、他の女性を想うような素ぶりは見せなかった。
けれど、遠回しに尋ねた聖女候補の少女とやらのことを、否定もしなかった。
悋気はなくとも、心ない噂や些細な失敗で足元を掬われることもある。
私にとってはまだ幼く見えるジュリアンが恋の熱情に任せて浅慮をしないかと心配で、私は少しだけ手を打った。ジュリアンに監視をつけたのだ。
しかしどれほど見守ってみても、二人の清らかな少年少女は節度ある距離を保ち、ただ時折、そっと見つめ合うだけだった。
とても恋愛関係とは言えない、触れ合いとも言えない触れ合いだ。
けれど、まだ幼い彼らの瞳に浮かぶ甘い熱は、年上女の目を誤魔化せるはずもない。
そして周りも似たような感想を抱いているのだろう。
時折見つめ合うだけの健気な二人のことを、「無力な王子は叶わぬ恋に身を焦がす」「冷血令嬢の怒りを畏れよ」と面白がって愚か者たちが騒ぎ立てていた。
喧しい限りだった。
さて、周りの予想とは裏腹に、幼い頃からお支えしてきたジュリアンが人並みに恋をなさったことを、私は密かに喜んでいた。
これまで、ただびとであればしなくてもよい苦しみや痛みを己のさだめと受け入れ、まっすぐに生きていらっしゃったのだ。
どうにかして、私の大切な殿下の願いを叶えてさしあげたいと願った。
けれど相手が小さな光魔法が使えるだけの男爵家の妾腹の娘という、身分の低い少女であったのが困りものであった。
せめて伯爵家であれば妃として迎えられたのだが、男爵家では貴賤結婚も甚だしい。
光魔法が使えるため一応聖女候補として学院に入学したものの平凡な成績で、光魔法の魔力も底辺。とても神殿で光魔法を捧げる聖女としての勤めを果たせそうにはなく、飛び抜けて秀でたもののない彼女が高貴な身分の者の妻として相応しいとは思えなかったのだ。
さてどうするかと頭を悩ませたけれど、それとなく探ってみれば、ジュリアンは彼女を妻とするつもりはないようだった。
どうやら私との結婚の数年後、しかも側室ではなく愛妾として彼女を迎え入れる心算と知り、殊の外に感心した。
それがこの王宮にとっても、彼女にとっても一番良い選択肢だと感じたからだ。
お父上の現国王陛下は、若い熱情のままに突き進み、この国を乱したというのに。
けれど同時に、どこまでも理性的で溺れることのできない哀れな王太子殿下をおいたわしく思いもした。
「ぼくも、愛する人と愛しあうような、幸せな家庭をきずたい」
夢物語のような美しい絵本を読んで、ぽつりと呟いていた幼い日のジュリアンを思い出す。
そんな純情な私の殿下が、最愛の人を愛妾の立場に置くだなんて、どれほどお辛いことだろうか。
私は密かに胸を痛めていた。
けれど。
「お可哀想な殿下、もうそんな必要はございませんわ」
先ほどの報告によれば、ジュリアンが懸想している相手のレアナという少女に強い聖なる力が認められたというのだ。
光魔法の上位である聖なる力を持つ者は歴史上でもごく稀であり、愛し子への神の祝福とされる。
聖なる力を持つ者は、どれほど小さな聖力だとしても、神の愛し子たる真聖女として扱われるのだ。
「しかも、彼女は過去の偉大なる真聖女にも劣らぬ聖力をもつとか。……素晴らしいわ」
この報せに、私は二つの意味で安堵し、そして心の底から嬉しく思った。
一つは彼女が正式に王家に嫁ぐに足る資格を得たこと。
二つは彼女が真に清らかで心の美しい処女である確証を得たこと。
真聖女の聖力は、神から愛し子へと与えられた、穢れなく聖なるもの。
ゆえに、神以外にその身を捧げた女は聖なる魔力を扱うことはできない。
彼女が聖女候補と認められたのならば、その心身の清らかさを神から認められたのと同じことなのだ。
そして、国王は神の子孫。
王家の妻は神の妻であるのと同じこと。
処女性を喪くしても、王家の妻となれば真聖女の聖なる力は喪われない。
つまり彼女は、王妃となることができるのだ。
「さすが殿下、見る目がおありになるのね」
殿下が愛した少女は、私の愛する殿下を託すに足る女性なのだと神に認められたようで、私は心から嬉しかったのだ。
「これで、殿下は幸せになれますわね」
神からの祝福とも言える真聖女と、神の子孫たる王太子の結婚だ。
誰にも文句のつけようもない。
歴史の上でも、真聖女の多くが王家に嫁いでいる。
真聖女は存在するだけで、国に豊かな実りをもたらす、神からの祝福なのだから。
「本当に良かった……」
噛み締めるように呟き、目を閉じる。瞼の裏に、ジュリアンが万歳とともに国民から祝福され、神殿で神々から寿がれている様が浮かび、私は心からの笑顔で頷いた。
「婚約を、解消しましょう」
視察に出てらっしゃるジュリアンに、レアナが真聖女と認定されたことを伝える手紙をしたためた。
そして同時に、婚約の解消も申し出て、婚約解消のための書類を同封した。
届くのに一週間ほどはかかるだろうから、返事が来るまで半月。
その間に出来ることはしてしまおうと、私は動き始めた。
もとより私とジュリアンの婚約は、立場の弱い小さな王太子殿下をお守りするためのものだった。
これは最後の仕上げだ。
愛し合える女性と結ばれて、日々幸せに生きる道を整えて差し上げなければならない。
私は密かに父と連絡をとり、事後承諾ではあるものの了承を取り付けた。
父も元よりこの婚約はいつか解消つもりだったのだろう。
あっさりとしたものだった。
そしてジュリアンが帰還するまでにあらゆる根回しを終え、あとはレアナとの会食を控えるだけ。
それで、私の殿下にお幸せを差し上げられるはず、だったのに。
「なーにやってんだ!?おい、聞こえてんだろッ」
「……はぁ、うるさいこと」
レアナを眠らせ、何重もの守護魔法をかけ終わり、遮断していた音が急速に戻ってきた。耳障りながなり声に、頭痛が強まる。鈴を転がすようなレアナの愛らしい声との落差が酷い。
「お黙りなさいな、小悪党さんたち。可愛らしい聖女様が起きてしまうでしょう?」
「ハンッ、おいてめぇ、何を妙なこと考えてやがる」
護身術すら身につけていない少女を抱えて王都中を逃げ回り、辿り着いたのは見知らぬ港の倉庫だ。
この男たちを撒くために姿を変えたりを魔力痕を捏造したりと無茶をしたから、騎士団が早々に見つけてくれるというのは期待はできないと思われる。
こんな小物たち相手に後手に回ってしまったと思うと忌々しい。怒りのあまり噛み締めた奥歯が砕けそうだ。
「私を聖女様誘拐犯に仕立て上げようとしたあなた方よりは、マシなことを考えているわ?」
「けっ、そりゃいいや」
皮肉げに言えば、下品な笑い声がどっと沸き、なおさら怒りが煽られる。
本当に腹立たしい、いや、苦々しいやり方だった。
レアナと内密に今後の話をしたいと思って、殿下や陛下の耳に入らぬようにと街中に呼び出したのがまずかった。
こいつらは、私たちが食事をしていたレストランの個室に押し入り叫んだのだ。
「悪役令嬢が、聖女様を毒殺しようとしているぞ!」
と。
騒つく周囲に、慌てて弁明と抗議をしようにも、彼らは声高に私の出鱈目な悪行をがなりたて、周囲はどんどん興奮していく。そして、押し寄せる平民たちに紛れて、明らかな手練れの気配を感じた。
「まずいわね、逃げましょう」
「え!?リリアンさ、ぅあ……わぁ!?」
そこからは、目を白黒させるレアナを連れて、街中が敵の逃避行だ。
街中で下手に見つかれば、正義感に駆られた平民たちが私に襲いかかっただろう。正当な理由もなく守るべき民に攻撃するわけにもいかず、しかし城下の民が全て敵となれば圧倒的な数だ。打てる手も少なく頭を抱えたくなったけれど、絶対にレアナ様とはぐれるわけにはいかなかった。
なにせ、おそらく彼らの目的は私とレアナ様の両方。
そしてレアナ様は、捕まれば間違いなく穢されてしまう。レアナ様の処女を奪い、聖力を奪うことが、愚かな彼らの目的だろうから。
「おたくのご主人様のところのお嬢さんは、十三歳だったかしら?あんなチンチクリンなお子様、殿下の趣味には合わないから、わたしたちを排除したところで無駄だと思うけれど」
おほほ、と嫌味に笑えば、男たちは怒りを燃やしながらも、無言で睨んでくる。挑発に乗って言質を取らせるような真似はしないらしい。ご主人様によく躾けられた狗のようだ。
「好きにほざけ。俺たちはお前らを王宮に帰れなくすれば、それで良いんだよ」
「ほほ、身の程をわきまえた目標設定ねぇ」
城下で禁止されている魔法を使うこともなく、私たちをその場で殺そうともせず、ひたすら追いかけてきた男たち。
おかげで王都警備隊が管理している魔法感知が作動せず、ひたすら逃げ回る羽目になった。土地勘のない港まできてしまったのだから、彼らの目標は達成されたと言っていいだろう。
もう少し慣れた土地なら、何か他に打つ手があったかもしれないが、悔やんでももう遅い。
敵と味方が見分けられない状態では仕方なかったけれど、もっと上手くやるべきだった。反省を胸に刻む。この失敗を活かせるような次があるのかは分からないけれど。
「おい、冷血姫。お嬢さんを寝かしつけて、どうするつもりだ?」
私がほんの少し物思いに耽っているうちに、男たちは余裕を取り戻したらしい。
一部で囁かれている私の渾名を口にして、ボスらしき男がニヤニヤと問いかける。
「俺らにセイジョサマを献上して、自分だけは逃してくれとでも言うつもりか?」
「おほほ、まさか!」
あまりにもありえない話に、素で笑ってしまった。その後で、「馬鹿のわりには面白いことを言うわね」と高らかに笑い飛ばす。
「聖女様にこれ以上小汚いものをお見せするわけにはいかないでしょう?」
「はぁ!?」
耳障りながなり声が幾十も重なって心底不愉快だけれど、私は高慢に鼻で笑ってやった。
「お前たちのような小物を恐れるとでも?冷血姫と呼ばれるわたくしが?自信過剰も甚だしいわね」
「強気だなァッ、箱入りのご令嬢のくせに」
「これからナニされるか分かって言ってんのか?」
ニヤニヤと下劣に顔を歪めた男達は、己を大きく見せようとするように肩を怒らせている。
まるで獣の威嚇のような仕草だ。馬鹿馬鹿しい。
「その細腰で、お前が一人で俺たちを相手するつもりか?そこの平民上がりの聖女サマの方がよっぽど体力がありそうだけどなぁ!」
「ほほ、どうかしら」
いやらしい目つきで私を見てくる男どもを鼻で笑い、悪女然とした眼差しで睥睨する。巷で話題の悪役令嬢小説に出てくる、最恐の王妃とやらはこんな感じだったかしらね。
「きゃんきゃんと仔犬のように吠えるばかりで、近づいても来ずに……何を恐れているの?武器も持たない女子供に相手に、随分と怯えているのねぇ」
「……はぁ?こっちが下手に出りゃあ、つけ上がりやがって」
傲慢な物言いに、私への怒りが燃え上がっていくのを感じる。
そうよ。
そのまま私に対してだけ感情をぶつけなさい。
あなたたちの相手は、私だけ。
レアナ様には指一本触れさせないわ。
「お前たちの相手など、私一人で十分よ」
「ははっ、出来るわけねぇだろ!魔力も枯渇してるくせになァッ」
残念ながら、その通りだ。
気力で保ってはいるが、実際に私の体はもう魔力切れで倒れる寸前。
けれどそんなことはおくびにも出さず、私はパチパチと幼児を褒めるように手を叩いた。
「あらまぁ、よくわかりましたわね」
「はっ、見りゃ分かるさ!お前の目の色は、さっきから平民みたいな薄緑だぜ?魔力切れの証だろ」
魔力量の多い貴族は濃い色の瞳を、魔力量の少ない平民は薄い色の瞳を持つ。
私は貴族の中でも飛び抜けて魔力量が多い方だから、普段は深闇の森の奥のような暗緑色だ。
けれど、どれほど魔力量が多くとも、これだけ消耗してしまえば魔力は切れる。
「うふふ、こんな愚かなことをなさる人間にしては、少しはお勉強もしたのね。まぁ、勉強したわりにはお馬鹿さんだけれど」
常識とも言える内容を大袈裟に褒め称えて相手を煽りながら考える。
大人数を相手の逃亡劇の果てにレアナを眠らせて、防御魔法を何重にもかけたのだ。私の体内魔力はほとんど尽きてしまった。
必死で己に回復魔法をかけてはいるが、レアナ様を包む防御魔法の維持のために回復したそばから使い潰している状況だ。
ついでにおそらく、当分は助けも期待できない。
つまりは私は、もう絶体絶命なわけだけれども。
「でも、聖女様をお護りするのに十分な程度は残っておりますの」
私はにっこり笑って言い放つ。
魔力を放つほどに体を巡る魔力が薄まっていくのを、私も感じている。けれど、負けられない。負けるつもりはない。
「へっ!そんな薄緑の目のくせして、どこからその自信が来るのか、謎だぜッ」
「はっ、強がりやがって!可愛くねだればちょっとは優しくしてやるんだがなぁ?」
「ご心配なく、雑魚に気遣って頂くほど落ちぶれておりませんの」
「クソがっ」
私からの度重なる挑発を受けて理性の糸が切れたように、全員がまとめて武器を振り上げて向かっててきた。
魔法と体術を駆使して彼らを捌き、レアナへの魔法が解けない距離を保つという制約の中、倉庫の中を駆け巡る。
数人がレアナに襲いかかるも、守護魔法に弾き返され、まずは術者の私から倒す方針にしたらしい。
良い調子だ。
「そうそう、それで良いのよ!お馬鹿さんたち、こちらにいらっしゃいっ」
「てめぇ!!」
あからさまな挑発に簡単に乗って、毛を逆立てた男たちが私を押さえ込む。
「あっちのお嬢さんも、お前が眠りこけた後で、せいぜい楽しませてもらうから気にすんな!」
「美女二人を犯せるなんて楽しみでヨダレが出るぜ、なぁ?」
「うははっ」
下品に笑う男どもを前に、私は酷薄に口角を吊り上げる。
「さすが畜生にも劣る愚図ですこと」
私が?意識を手放す?
聖女様の聖性をお守りするという、こんな責任重大な立場にありながら?
「おほほほほほっ、そんなことありえませんわ!」
体内に残っている魔力量は僅かだが、潜在的な魔力は私の方が上だ。技術も制御も私の方が圧倒的に勝る。
それならば、あとは気合いだ。
一瞬の隙をついて男たちを弾き飛ばし、再び天井へと飛び上がる。
回復してくる魔力をじわじわと使い潰しながら男たちを捌き、隅に眠るレアナに防御魔法を重ねがけしていく。
無茶苦茶な負荷のせいで、死にかけの犬のように呼吸が速くなる。けれど荒い呼吸の中で、なぜかかつてジュリアンと庭園で隠れん坊をした記憶が蘇り、ふわりと口元が緩む。己の緊張感のなさに笑ってしまった。
「ふふっ、大丈夫です、殿下。まったく問題ございませんわ」
そう、問題はない。
これはとっても簡単なお話だ。
だって、ここは場末の港倉庫。
魑魅魍魎うずまき、どこから毒矢が飛んでくるか分からない王宮ではない。
王宮の方向へ飛ばした魔法を見つけた味方が駆けつけてくれるまでのしばらくの間、目の前で喚いているこの下賤で小物な奴らから、レアナを守り抜くだけで良いのだ。
私は魔法を切らさないように、つまりは死ななければ良いだけ、なのだから。
「大丈夫。……殿下の愛する方は、わたくしがちゃんとお守りいたしますから」
それが私の求めた、私の存在意義なのだから。
……だから。
私は、この身をかけてレアナを守ることに何一つ躊躇いなどなかったのだ。
「リリアン……ッ!」
「で、んか……」
あちらこちらで断末魔の絶叫が響く中、聞き覚えのある声が悲鳴のように私の名を呼んだ。
傷口から血が流れ込んで赤く染まった視界の中に、真っ白な顔をした殿下が映る。
「リリアン、リリアンッ、なんてことだ……ッ」
「ご安心、くださいませ……でんか……」
必死に私の名を呼ぶ殿下に、裂傷だらけで動きにくい顔で笑いかける。
「大丈夫。あなたの聖女は、ご無事ですわ……」
私は覆い被さっていたレアナの体からそっと起き上がる。抱きしめていた小さな体には、傷ひとつないはずだ。私の全ての魔力で守り抜いたのだから。
「レアナ嬢!?あぁ、リリアン……そんな……」
けれどジュリアンはレアナを一瞥すると美しい瞳をさらに絶望に染めて、ぐしゃりと顔を歪めた。
ジュリアンはすぐに騎士を呼び、レアナを神殿の医官のもとへ連れて行くように命じた。そして自身は、血だらけの私を躊躇なく抱き寄せた。
「彼女は私の婚約者だ。誰も触るな。……私が王宮に連れて行く」
その言葉に幼い頃から変わらぬ殿下の優しさを感じて微笑ましく思った直後、私は己の惨状を思い出し、私を引き寄せようとする力強い腕を慌てて拒んだ。
「あ……殿下、いけませんわ」
「リリアン?」
訝しむ殿下に、私は苦笑を浮かべながら首を振る。
「私は、穢らわしいものに塗れておりますもの。殿下が汚れてしまいますわ」
「なっ、リリアン……ッ」
淡々と告げた私の言葉に、殿下の顔はさらなる絶望に染まる。殿下は震える腕で私に縋りついた。
「リリアン……君は、っ、……君に、僕は、一体なんてことをさせてしまったんだ……そんな……」
「大丈夫ですわ、殿下」
砕けんばかりにギリギリと奥歯を噛み締めて、殿下は悲痛な声で唸る。
譫言のように繰り返される私の名は、どういう意味なのだろうか。
殿下が何を悔やみ、何に怯えているのか分からなくて、私は何度も「大丈夫」だと繰り返した。
「きちんと、お護りいたしましたわ。レアナ様はまだ聖なる処女でいらっしゃる……きっと聖なる力が証明してくれますわ……」
目が霞む。
使い尽くした魔力が、穢された身体が、壊された肉体が、断末魔の悲鳴をあげている。
でもまだ意識を手放すわけにはいかない。
だって、わたしの可愛い可愛い王子様が、泣いているのだもの。
「悲しまないでくださいませ、わたくしの愛しい殿下」
「あなたのすべてをお守りすることが、わたくしに課せられた務め」
「わたくしはね、わたくしの役目を果たしただけですのよ」
そしてなによりも、国のために生まれ、国のために生かされて、国のために生きていくこの方の……ジュリアン殿下自身の幸福を、臣下としてあるまじきことに、愚かにも私は希っているのだ。
この身命をかけても悔いのない、唯一の願いとして。
「だから泣かないで、そして……どうか、レアナさまと、おしあわせ……に……」
『リリアンッ!?リリアン、目を覚ませ、リリア……』
薄れゆく意識の中で、悲鳴のように私の名を呼ぶ殿下の声が聞こえた。
雷に怯えていた頃と同じ響きの声に、妙な安心感と愛おしさを感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。
3200字のプロットがなぜか10,000字超えに膨れ上がりました。前後編なのですが後編は書き上げられなかったので、明日更新します。