十二歳の花嫁を迎えた公爵は十年後に離婚したい
「――それで、女性と同衾している現場を恐妻に見つかったグレーヴ伯爵は、かつらをむしり取られ、裸のまま表に叩き出されたそうだ」
「ははは、それは大変だ」
レオドルトは大木に背を預けるように立ち、眼下で笑い声と共に揺れる銀色の頭を眺めていた。木陰で両足を投げ出して座るのは、銀髪に紫紺の瞳という、世にも稀な色彩を持つ美貌の青年だった。男としてはいささか華奢だが、くつろいでいるだけでも所作が優美で、みすぼらしくは見えなかった。
レオドルトが聞かせてみせた話に、銀髪の青年――ダルクレア公爵ゼラリオは、特に驚く様子もなく呑気に笑っている。さきほどの話は、耳聡い宮廷人たちの中でもごく限られた者しか知らない、早朝に起きたばかりの事件だ。青年の様子にレオドルトは確信する。
「……ゼラリオ、伯爵夫人に密告したのはお前だな?」
「まさか」
青年は妖しく口の端を持ち上げて笑った。
「冷静に処理されては意味がないもの。吹き込んだのは、彼女とはあまり仲の良くないご友人だよ。普段からいけ好かない婦人に、親切な忠告の振りで嘲笑われるなど、気位の高い伯爵夫人には耐えがたいことだったろうね」
「本当にお前は……」
「脇が甘いクレーヴ伯爵が悪いんだよ。他人に喧嘩を売るなら、自分の弱みくらいは管理しておかないと」
「彼は喧嘩など売っていない。たかが騎士をからかっただけだ」
「……他人事みたいに言わないでくれ」
『どうも臭うと思えば、こんな所に家畜が紛れ込んでいるぞ』
先日、警護のため参加していた舞踏会で、自分とすれ違ったクレーヴ伯爵はわざとらしくハンカチで口元を覆い、夫人と共にレオドルトを嘲った。
自国の王侯貴族こそ至上と考える人々に、土人だの、ケダモノだのと馬鹿にされるのは、今に始まったことではない。レオドルトは騎士階級の出だが、南国出身の母を持ち、それは赤銅色の肌や砂色の髪を見れば一目瞭然だ。
さらにレオドルトは、この国の平均的な身長よりもかなり背が高い。代々騎士である血筋のせいか体格にも恵まれており、そのおかげで宮廷付きの騎士になれたが、代わりに人目にも付きやすい。悪目立ちすることには慣れており、軽口くらいはどうとも思わなかった。
「君を侮辱したなら、それは私に喧嘩を売ったということだよ」
この男はいつもそうだった。レオドルトがこの『月の精霊』のごとしと謳われる、美貌の青年と出会ったのは六年ほど前。中流階級から上流階級まで、幅広い階層の子弟が学ぶ寄宿学校でのことだった。どうみても美少女にしか見えなかった、風変わりな一つ上の先輩は校内でも有名だった。
ゼラリオは儚げな容姿と、温厚そうな言動とは裏腹に、《奸計のダルクレア》で知られる二つ名を、体現したような人間だった。恵まれた容姿と、人当たりの良さで他人を誑し込むのが得意で、同時に敵対した相手の弱みを見抜く観察眼を持っている。いかにも男所帯で侮られそうな風貌でありながら、ゼラリオは一目置かれる存在となっていた。
一方レオドルトは、戦場外で策略を用いるなどもっての他、という実直な教育方針で育てられた。それでもゼラリオとつるんでいた理由は、彼が他人をやり込める時は、自分以外の誰かのためだからだ。ゼラリオは歴代のダルクレア公爵に比べれば、権威欲も出世欲もない。自分のことにはあまり興味がない性分だった。
それでいて、いざやると決めた時は徹底的にやる。今朝ゼラリオに嵌められたクレーヴ伯爵は婿養子と聞いている。これまで女所帯の唯一の男としてチヤホヤされてきたが、今後は恐妻の監視の下、婚家で飼い殺しだろう。
「彼は王党派の中でも過激な若者の支持を集めていたしね。ちょうどよかったよ」
「わざわざ他人の恨みを買うような真似をするな。お前こそ、いつか足をすくわれるぞ」
「確かにね。その点では私もあまり他人のことは言えないな。……実は今、なかなかの窮地なんだ」
「何かあったのか?」
「どうやら私は、ルヴェリエ侯爵令嬢と結婚しなくてはならないらしい」
「……どうしたらそうなるんだ」
ダルクレア公爵家とルヴェリエ侯爵家は長きに渡り、宮廷で権力争いをしてきた犬猿の仲だ。子息同士の取っ組み合いから血なまぐさい話まで、宮廷ではこの百年ほど、二家の争いに関する話題が絶えたことがない。先日も王家主催の茶会で、両家の老婦人とその取り巻きが、貴婦人らしからぬ口汚い舌戦を繰り広げていたと聞いている。
「ルヴェリエ侯爵は、両家からそれぞれ娘を差し出し、婚姻による和平を結びたいそうだ。その誠意の証に、自分の愛娘を嫁がせると言ってきた。国王陛下も、つい先日ご婦人方の醜い争いを見たばかりだったからね。話を聞いて『それはいい!』と膝を打って、仲介役を買って出られた。……つまりこの結婚は王命ということだよ」
レオドルトは首をひねる。
「いいのか……というかできるのか?」
「無理だね、ムリムリ。私は君と違って、女性自体がそういう対象にならないもの」
レオドルトは、一応ゼラリオとは恋仲ということになる。寄宿学校時代に『君みたいな強面が隣にいれば、いい露払いになる』と、突然付きまとわれるようになったのがきっかけだ。妙なやつだと思ったが、意外にもゼラリオとは馬が合い、恋人になるまでそう時間はかからなかった。
レオドルトは寄宿学校に入る前年まで、戦士の習いを尊ぶ母の祖国で育てられた。あちらでは男同士の色事は、戦士の結束を高める崇高なものという認識がある。結婚前であれば、むしろ推奨されているくらいだ。
一方、この国で男色はそこまで一般的ではなく、迫害とまではいかないが、男性しか愛せないとなると相当な変わり者扱いされるだろう。
「まさか侯爵は、お前の性癖を知っているのか?」
「性的嗜好と言って欲しいのだけど。……あのルヴェリエ家だ、それくらいの情報は握っていてもおかしくはないさ」
ダルクレア家と双璧を成す、《威迫のルヴェリエ》。昔から膨大な財力で他者の弱みを握り、暗殺集団との噂もある私兵の圧力で敵を屈服させてきた家門だ。
「私もそこまで必死に嗜好を隠す気はないしね。色仕掛けなら警戒したけど、まさかこういう風に利用されるとは思わなかったなあ。どうも今代のルヴェリエ侯爵は、搦め手の方がお得意らしい」
「いったいどんな毒婦を送り込んで来るのやら」
「それならまだよかった。花嫁はもうすぐ十二歳になる女の子だそうだ」
「十二歳? まだ子供じゃないか」
すぐに跡継ぎを必要としている結婚でないとはいえ、十七、八が女性の結婚適齢期であることを考えれば、あまりにも幼すぎる。
「侯爵からすれば、私が承諾せず陛下の不興を買うのも良し。受け入れるのなら、娘を通じて我が家に横槍を入れられるからそれも良し。私が子供を成せなければ、自分の内孫を養子を送り込めるのでさらに良し。……良いこと尽くめだ」
「そう簡単にはいかんだろ。あちらだって、ダルクレアの花嫁を受け入れるんだから」
「侯爵は私ことを、歴代当主でも類を見ないボンクラとなめくさっているもの。自分の代で決着を付けようってことだろう」
ゼラリオは個人の評判や陰口には無頓着で、世間的には見るからになよなよとした、人畜無害な男だ。彼の本質を知らない以上、侮られるのもわからなくはない。
「相手が十二歳ならユーリスはどうだ。お前よりは釣り合いが取れるだろう?」
ゼラリオにはユーレリウスという年の離れた弟がいる。確か今、八歳か九歳だったはずだ。父親を早く亡くし、甘やかされた育てられたせいか、癇が強く生意気な所はあるが、実は寂しがり屋で人懐っこい。レオドルトも何度か剣の稽古をつけてやったことがある。少なくともこの兄よりは真っ当な子だ。
「向こうが侯爵の一人娘を差し出しているのに? ……無理だろうな。あちらが最高のカードを出した以上、こちらは公爵で迎え入れなければ、いい攻撃材料になる」
「その理屈なら、ダルクレアから差し出すのはまさか……」
「あちらは嫡子の花嫁に迎えると言っているんだ。当然リゼリナに行ってもらうしかない」
「実の妹を政治の駒にするのか!?」
その時、初夏の花を思わせる涼しげな香りが鼻をかすめた。レオドルトが後ろを振り向くと、侍女らしき女性たちを引き連れた、一人の貴婦人が立っていた。
「騎士ならば、尖兵として敵陣に切り込むのは誉れ、と考えるのではなくて?」
歌うように告げたのは、ゼラリオとよく似た繊細な美貌の女性だった。しかし儚げな兄とは違い、眼差しの印象は彼女の方が強く、気丈な性格を思わせる。扇形の長いまつ毛や、すらりとした立ち姿がまるで孔雀のようだった。
「これはリゼリナ嬢……」
「御機嫌よう、レオドルト卿。年始にお会いして以来かしら?」
ゼラリオの双子の妹リゼリナは、扇の影で優雅に微笑んだ。先日の舞踏会では顔を合せなかったが、兄に同伴していたのだろう。この季節になると宮殿で行われる様々な催しに合わせ、家族と共に王都へやって来る貴族は多い。
「耳聡いね、リゼリナ」
「呑気な兄様、とっくにご婦人方の噂になっていてよ。ルヴェリエ侯爵は本格的に、兄様に対する包囲網を固めているようですわね」
「リゼリナ嬢は騎士ではないでしょう。本当によろしいのですか? 駒のように他家に嫁がされて」
思わず口をついて出た言葉に、リゼリナは一瞬きょとんとした後、おかしそうに笑う。
「あら、わたくし安い駒になるつもりはありませんわ。殿方がどんなに建前を並べ立てようと、しょせん一家を支配するのは奥方であり母親ですもの。縦横無尽にルヴェリエという盤上を駆け回り、すべてをわたくしの手中に収めてみせましょう」
「……いや、別にそこまでしなくてもいいよ」
「と、言いましても、わたくしもそろそろ『行き遅れ』と陰口を叩かれる頃合。渡りに船とはこのことですわ。性格や頭の具合は存じませんけど、ルヴェリエの若君は見目麗しいと聞きました。わたくしを飾り立てるのに不足ないのであれば、良しとしましょう」
「ね、リゼリナはこう見えて、ダルクレアの家風を煮詰めたような子さ。心配いらないさ」
「褒め言葉として受け取らせていただきますわ」
謀と野心の権化と言われたも同然だが、リゼリナは朗らかに笑っただけだった。
この美貌と家柄で、これまで相手が見つからなかったのはそういうことか……と、レオドルトは密かに納得した。
「ところでリゼリナ、こんな場所まで何をしに来たんだい? 偶然ではないだろう?」
ここは宮殿の広大な敷地の一画で、素朴な野の花が見られる田園風景を模した庭園だ。奥まった場所にあるため、わざわざ花を愛でようという物好き以外は足を運ばない。あまり他人に聞かれたくない話をするのに、ふさわしい場所だった。
「もちろん兄様を探しにですわ。ルヴェリエ侯爵令嬢の評判を聞かせて差し上げようと思って、お友達から情報を集めてきましたの」
「いいよ。別に興味は――」
「花のように可憐で愛らしい方だそうよ。下々にもお優しい心映えの優れたご令嬢だとか。ルヴェリエ侯爵は本当に徹底していますわね。笑ってしまうくらい、兄さまのご趣味とは真逆ですもの」
含み笑いと共に向けられた視線を打ち払うように、幼少期から『花』や『愛らしい』などという賞賛とは無縁なレオドルトは、大きく咳払いをした。
「あらあら、お邪魔してごめんなさい。わたくしはもう戻りますから、安心なさって。……ふふっ、早くユーリスに手紙で教えてあげないと」
では御機嫌よう、とリゼリナは優雅に身を翻し、来た時と同じように侍女を引き連れて帰っていた。
リゼリナが去った後は、嵐の後のような静けさが残った。
「……どうもリゼリナと私は、胎の中で手に取る物を間違えて生まれて来たらしい。私ではなくあの子が男だったら、もっとうまくやったのだろうね」
「自分を卑下する必要はないだろう」
「だって私にはリゼリナほどの才気も、熱意も、ついでに女性とベッドを共にして機能するモノまでないときている」
最後のはリゼリナにもないだろうと思ったが、わざわざ口にするのもバカバカしいのでやめた。
「……それで、どうするんだ?」
「結婚はするよ。ルヴェリエの思惑はともかくとして、両家の諍いをここで手打ちにしたいという言葉には賛成だ。最近、北方諸国連合がきな臭い動きをしているという情報もある。内輪もめをしている場合でないのは事実だよ。我々が手を取る姿勢を見せれば、他の貴族も追従するだろう。国益になるなら、私には断る理由がない」
「いやだってお前……無理だろう。今度は後継問題で揉めることになるぞ」
夫婦に跡継ぎができなければ、ルヴェリエ家の画策通り、あちらの嫡子夫婦から養子を取るしかない。その子の母がリゼリナであろうと、それは事実上のルヴェリエによるダルクレアの乗っ取りだ。ゼラリオがそれでよくても、ダルクレア家には、彼の大叔父を始めとしたうるさ型の親戚が大勢いる。彼らが黙っているはずがない。和平どころか争いの種だ。
「確かに。だったら……そうだな」
ゼラリオはおもむろに立ち上がると、考え込むように顎に指を当て、うろうろと行ったり来たりしながら、独りごちる。
「……さすがに陛下の顔を潰すわけにはいかない。私がご令嬢と結婚する以外の選択肢はない……。それで結婚後十年くらいで……いや待てよ、その前に……」
しばらくブツブツとつぶやいた後、ゼラリオはピタリと足を止め、満面の笑みを向けた。
「うん、行ける気がしてきた。――レオ、君も協力してくれないか?」
精霊の祝福、とまで言われた、その無垢な笑みに、レオドルトはひどく嫌な予感がした。
※※※※※※※※※※
初夏の日差しにきらめく水面の奥に、池の畔で魚を眺めていたレオドルトは、奇妙な物を見つけた。水の中に手を差し入れつまみ上げると、それは親指ほどの大きさの陶器の欠片だった。緑の藻に覆われているが、白い陶磁には青い繊細な模様が入っている。四百年ほど前、この国が別の名前だった頃の物だろう。好古家だった祖父の邸宅で、似たような壺や皿を見たことがあった。
このダルクレア家の屋敷がある場所は、かつて神殿があったらしく当時の名残を残す物が、時々出土すると聞いたことがある。母の国なら商人や学者が興味を持ちそうだが、この国の人々はそういった物に無頓着で、たいていは放置されたままだ。
「レオドルト卿!」
子供らしい高い声に振り向くと、銀色の髪の少年が駆けて来るのが見えた。その少女のような愛らしい相貌は、初めて出会った頃のゼラリオを思い出す。
「ご無沙汰しております!」
「ユーリス、また背が伸びたな」
ゼラリオの弟ユーレリウスは十歳になっていた。成長期の子供は少し会わぬ間に、あっという間に大きくなってしまう。『最近、弟の剣術の相手をするのが辛い……』とゼラリオがぼやいていた。
「しばらく屋敷に滞在すると聞きました」
「ああ、世話になるよ」
久しぶりにまとまった休暇をもらったはいいが、特にやりたいことも行きたいところもなかったので、どうしようかと悩んでいると、社交の時期を終え自領に戻るゼラリオから、遊びに来ないかと誘われた。ちょうど彼には話したこともあったので、良い機会だと応じることにした。
ユーレリウスは腰に剣を佩き、稽古着姿だった。
「これから剣の稽古か?」
「はい。レオドルト卿、またお相手いただけますか?」
「もちろん。どのくらい腕を上げたか楽しみだ」
ユーレリウスはぱっと満面の笑みを浮かべた後、すぐに冷めたように言う。
「うちの指南役は僕が公爵家の息子だからって、余計な手心を加えようとするんです。張り合いがなくて退屈していました」
「ユーリス、その考えはよくない。指南役には敬意を持つべきだ。目上の者に対する、心の在り方を改めなければ、いくら鍛錬に時間を掛けようと何事も上達しないぞ」
冷笑を浮かべていたユーレリウスは、はっと表情を引き締めた。
「……おっしゃる通りです。奢った発言をお許しください」
ユーレリウスは父親を早くに亡くし、母や年の離れた兄に甘やかされて育てられた。そのせいか、感情の起伏が激しくわがままで気位が高い。同時に性根は真面目な子だ。ゼラリオのように寄宿学校へ行くなりして、外の世界で社会の仕組みや人間関係を学べば、攻撃的な性格も多少はましになるだろう。……少なくとも兄よりは健全に育ちそうだ。
「またせたね、レオ。――ああ、ユーリスもいたのか」
現れたゼラリオは、後ろに小柄な黒髪の貴婦人を伴っていた。重そうなドレスを引きずるように歩く姿がたどたどしい。小柄なだけでなく、実際に年齢が幼いのだ。彼女はルヴェリエ侯爵の一人娘ファナ。昨年ゼラリオに嫁ぎ、ダルクレア公爵夫人となった少女だ。
「ご、御機嫌よう、レオドルト卿」
「ご機嫌麗しく存じます、公爵夫人」
少しぎこちない様子で声をかけてきた小さな公爵夫人に、レオドルトは深々と礼を取る。
「何か不足はございませんか? どうぞ当家をご自分の家と思い、ごゆるりとお過ごしください」
「お心遣いに感謝いたします」
恥ずかしそうに、けど妻の務めとして懸命に夫の友人を相手しようとする姿に、レオドルトは思わず伏せた顔の下で微笑んだ。
(こちらも素直で良い子だな……)
それだけに、『汚い大人』の一人である自分としては心が痛む。
「……年寄りみたいなドレスだな」
吹き出すような嘲笑の後、小さな悪態が耳に入った。その言葉にファナが一瞬目を見開いた後、唇を固く結んで発言者をキッと睨む。元が可愛いらしいので……仔猫の威嚇程度の迫力しかなかったが。
ファナがまとっているのは、王宮でも人気の灰色がかった青色のドレスだった。夜遊びでくすんだ肌が、悪目立ちしないという理由らしい。決して年寄りみたいなどとは思わないが、内から光を発するような少女には、あと十年後でも二十年後でも、着るのは遅くはないと思えた。
「やれやれ、子供は物を知らないね。これは流行の最先端のドレスなんだけど。それにファナは何を着ても可愛いよ」
「僭越ながら、私もそう存じます」
夫と客人から褒められ、ファナは扇の影で恥じらうように視線を落とす。
「ファナ、お子様の相手などしなくていいから、そろそろ出かける準備をした方がいいんじゃないかな。今日はよそでお茶会に呼ばれているのだろう?」
「あっ」と小さく声をあげ、ファナが夫を仰ぎ見る。
「そうだった……。――あの、それではレオドルト卿、また晩餐の席で」
ファナが立ち去り、男だけが三人残されると、ゼラリオがおもむろにユーレリウスの頭をわしっと掴んだ。
「兄上!?」
「お前は物の言い方がなっていないね。『もっと明るい色の方が可愛い』と教えてあげればいいのに」
「べ、別に僕はそんなこと……」
顔を赤らめ口ごもるユーレリウスの様子に、レオドルトは小さく眉を上げる。
「まあ確かに、私もファナが無理に大人ぶったドレスを着る必要はないと思っていたよ。後でファナの侍女にそれとなく伝えよう。……そういえば談話室に置いてあった、ドレスの目録にしおりが挟んであったのだけど」
「……母上の物なのでは」
「そうかな、母上とは趣味が違うと思うけど。……ただ偶然にも、あのページの、白と水色で大きなリボンの付いたドレスはファナに似合いそうだ。うん、きっと本当に偶然なのだろうけど――」
「稽古がありますので、失礼します!」
大きな声で兄の発言を遮り、ユーレリウスは真っ赤な顔のまま立ち去って行く。
「……実にわかりやすい子だ」
レオドルトは思わず苦笑する。その不器用さゆえに、つい手を貸してやりたくなってしまう。ゼラリオがこれまで、散々弟を甘やかしてきた気持ちもわかる。
「うちの子たちは、どっちも可愛いだろう?」
その片方は彼の妻なのだが、ゼラリオは完全にそのことを忘れているのではと思うときがある。妻が幼いゆえの『白い結婚』で誤魔化せるのは、せいぜいあと五年が限界だ。彼はいったいどうするつもりなのか……。
「しかし、あまりユーリスに気を持たせては可哀想じゃないのか? ……年齢差を考えれば感心しないぞ」
自分も少年時代の初恋は、よく面倒を見てくれた親戚の女性だった。ユーレリウスの心情はわからなくもない。もしファナが成人女性であれば、何も言うことはないが、この家は妻と弟の方が夫よりも年齢が近いのだ。
「残念ながら、まだ淡い初恋とも言えない段階だよ。私としてはどんどん仲を深めて欲しいのだけどね」
「どういう意味だ?」
「ああ。いずれ私とファナは離婚して、今度はユーリスと結婚してもらおうかと思っているんだ」
「……は?」
一瞬、ゼラリオが何を言っているのか理解できなかった。
「十年くらいすれば、子供ができなかったからやむなく……という離婚事由になるだろう。ルヴェリエ侯爵だって、自分の娘が跡継ぎを産むのが最善だもの。いい顔はしないだろうけど、どうせ文句は言わないよ。その頃には王太子殿下の妃候補選びが始まるし、そちらの話題で我が家の騒動は多少は紛れるんじゃないかな。……どうかな、行けそうな気がしないかい?」
満面の笑みで自慢げに語るゼラリオを、レオドルトはあんぐりと口を開いて見つめる。ゼラリオがお人好しなだけではない、むしろ貴族として保守的な価値観の持ち主とはわかっていたが、さすがに今の発言は看過できなかった。
レオドルトは握った拳を怒りで震わせる。
「奥方は物じゃないんだぞ!」
「いいや、物だよ」
感情のない乾いた声だった。じっとこちらを見つめ返す、木の洞のような無機質な眼差しにぞっとする。
「貴族に生まれた者は、国家という装置を動かすための歯車だ。ファナだけじゃない、私という不良品の代替である弟もそうだ。富と特権を享受するのと引き換えに、いざとなれば自我や命すら捨て、家のため国家のために義を尽くす。貴族ならばそれを矜持とすべきなんだ」
とうとうと語る姿に、首裏がぞわりとする。どんな剣豪相手にも怯んだことのないレオドルトだったが、いかにも優男なゼラリオに、この時はっきりと気圧されていた。
(薄々わかってはいたが、やはりこいつは俺とは違う生き物だ……)
いや、彼の言い分では物か。
彼の怖さの最たるものは、策略を練り出す頭ではなく、この狂気じみた思想なのではと思う時がある。
「とは言っても、私だって妻と呼んだ人を不幸にしたいわけじゃない。ファナが将来、地位や贅沢な暮らしを放棄する覚悟で『嫌だ』と主張するなら、私としてもどうにもできない。別の方法を模索するよ。でもそこまでの熱意がなく、今の生活が捨てがたいのなら、両家の架け橋としての義務をまっとうしてもらうつもりだよ」
「……もしかして、俺との関係を切らなかったのはそのためか?」
一年半前、結婚の話が出た時、てっきりゼラリオは自分とは別れるものだと思っていた。祖国でも、結婚後に子も成さないで男色にのめり込むのは、さすがに褒められたことではなかった。ましてゼラリオは花のように可憐で無垢な花嫁を迎えるのだ。義務を重視する彼が、結婚前に自分との関係を清算するのは当然のこと――そう考えていた。
『これで俺とお前もしまいだな』
一抹の寂しさと共に告げたレオドルトに、ゼラリオはきょとんとした顔で言った。
『どうして? 君には大事な役割があるのに』と。
それからというもの、ゼラリオの方から、なぜか人前でやたらと肩や腕に触れられる機会が増えた。それは仲のいい友人同士なら、『なくはない』という程度を踏み越えないものなので、苦言もしにくかった。
伴侶が幼すぎる場合、愛人がいても世間的にも目こぼしされる。どのみち後ほんの数年のこと、そう自分に言い訳し、ずるずると不毛な関係を断ち切れない浅ましさを自覚していたせいもあった。
そしてつい先日のこと、姉夫婦のところの姪が自分を訪ねて来た。
『叔父様にお教えしようか、迷ったのですが……』
そう言って差し出したのは、いかにも素人じみた装丁の薄い本だった。流し読むと、内容は男性同士の恋愛模様を描いていて、姪の話では良家の娘たちの間では、自作の小説を回し読むのが流行っているとのことだった。その中でもこの小説は特に人気なのだと言う。
『なぜ俺にこれを?』と姪に訪ねると、彼女は少し気まずそうに、もう一度よく目を通すように促した。そしてとんでもないことに気づく。恋人同士である二人は、美しき公爵と異国の風貌を持つ騎士だった。もちろん個人名や地名などは違っているが、見る者が見れば、それが現実の人間――すなわちゼラリオとレオドルトが原案であるとわかるだろう。
衝撃のあまり、『お母様には、私がこんな本を読んでいることは内緒よ。それから私、叔父様方のことを応援していますから!』と真っ赤な顔で去って行く姪に、弁解する余裕すらなかった。
まさに今回の滞在は、そのことをゼラリオに相談するためだったのだが、話を聞いた彼は腹を抱えて笑い始めた。
「笑い事じゃない! お前、こうなることがわかっていただろう! いったい何を考えているんだ!?」
「だから離婚した時のために、どちらに原因があるかやんわり匂わせておこうかと思って」
「だったら王宮の真ん中で自分の性癖を叫んで来い!」
「さすがにそこまでやると、色々な方面からお叱りを受けるよ。想像力豊かなお嬢さん方が、まことしやかに広めてくれる、という塩梅がいいんじゃないか。『ありそうでない、でもなさそうであるかも』という具合がね」
「ご令嬢たちにそれだけ広まっているということは、その身内である重鎮共の耳に入るのも時間の問題だぞ」
実際、姪が怪しげな恋愛小説を読んでいることなど、彼女の母はとうに知っている。『女の子にはよくあることよ』と見て見ぬ振りをしているだけだ。
「別にいいさ。噂はあくまで噂。それこそ私が堂々と告白するか、君と同衾している現場を踏み込まれでもしない限り、攻撃材料にすることはできないよ」
「……お前が言うと説得力があるよ」
まさに、奥方が浮気現場に踏み込む状況を作り、気に喰わない相手をやり込めた男だ。
「それとね、宮廷の重鎮どころか、国王陛下もすでに薄っすらお気づきだよ。この間の宴の席で、酔ったはずみの陛下が私の肩を叩かれたんだけど、すぐに真顔で『……すまん』って謝られたんだ。私は髭面の中年男性に、そういう興味はないんだけどなぁ」
その話に、宮廷勤めであるレオドルトは頭を抱えたくなった。だが何より嫌だったのは、髭は生やすまいと、一瞬でも自分が思ってしまったことだ。……仮にも恋人を利用することに、微塵も良心の呵責を感じていない男のために。
「今、法律にくわしい同級生に頼んで、夫婦の財産の取り決めに抜け道がないか、洗い直してもらっているところなんだ。ファナは賢くて良い子だし、再婚後も自分の意志で動かせる財産を持たせてあげたい。それはあの子にとって自信になるだろうし……誰かのように馬鹿な散財はしないだろう」
「だとしても、やはり夫人が可哀想だ。子供のうちに家族と引き離されて、今度は夫の勝手な都合で伴侶を変えられるなど……」
「毎日美しいドレスで身を飾り、辛い労働や責任とは無縁なのに?」
「だが自分で人生を選ぶ自由はない」
どんなに身を着飾ろうと、理不尽に逆らう意思や術を奪われた者が幸せとは、レオドルトには思えなかった。
「貴族の法では、妻は自分の持参金の使い道にすら口を出せないんだろう? すべてを夫に買い与えられるだけなら、かごの鳥も同然じゃないか」
「貴族の結婚は家のためだもの。私はファナを信頼しているけど、本来なら財産の細分は家門の弱体化に繋がるんだよ」
「大義のためなら、婦人や弱者を犠牲にしてもいいと?」
「完全に否定はできないかな。でもね、妻にみじめな思いをさせる甲斐性なしの夫など、世間から非難の的だよ。だから男たちはこぞって、婦人を飾り立てるんじゃないか。君たちからすればくだらなく思える、貴族の見栄ってのはそういうことのためにあるんだよ」
立て板に水のごとく言ってのけると、「だいたいね……」とゼラリオはどこか皮肉な笑みを浮かべる。
「行動の自由や、それを選べる知識があれば幸せなの? だったら駆け落ちした挙句、男に捨てられた女性は? 知識を糧に職を得たはいいけど、頭でっかちを理由に嫁ぎ先のない女性は? 貧民街で生まれ育った少女はどうなる? 物乞いになるか、娼婦になるか、犯罪に手を染めるかの選択肢があるだけ、自由と言えるかもしれないね。だから彼女たちには同情しないの?」
「そんな話はしてない! 極論をぬかすな!」
「貴婦人なら同情して平民なら当然? 貴婦人を守護することが君たち騎士の本分とは理解しているけど、まあまあ傲慢な考えだと思うよ。ままならないことは、誰にだってあるのだからね。そもそも人の一面をなぞったくらいで、簡単に『幸せだ』『不幸だ』と決めつけること自体がおこがましいんだよ」
「お前がどの口で傲慢さを語るんだ……いや、もういい」
諦観と共に、レオドルトはため息をついた。どうせ口では勝てないし、自分とゼラリオとではしょせん生きてきた世界が違うのだ。
レオドルトは騎士であった亡き父が、母の国に滞在中に作った子供だ。母は異国で妾になるよりも、裕福な実家で子供を育てることを選んだ。そうして母の国でレオドルトは暮らしていたが、父はどうしても自分の血を継ぐ息子を騎士にしたかったのだろう。『騎士を目指すなら最高の環境と教育を与える』との呼びかけに、騎士道という物に憧れていたレオドルトは、一も二もなく飛びついた。
家の跡継ぎは正妻の子である姉とその婿で、彼らは異国の血をひく弟を何かと気にかけてくれる。とりたて家のことで苦労した覚えはない。もし祖国に残ったとしても、きっと武人の道を歩んだだろう。実力と意思のみで生き様を選べたという意味では、きっと自分は恵まれている。
生まれついた家や身分に、誰よりも縛られているゼラリオの生き方を、理解できるはずがなかった。
「だがな、どんな屁理屈をこねようと、俺はお前の考えに賛同しないからな。人を人たらしめんとするのは心だ。自我を奪われた人間に『他の面で恵まれているから我慢しろ』とは、俺は絶対に言わん!」
「……それでいいよ。君のことは愛しているけど、すべての価値観を共有したいとは思わないもの」
その発言に、レオドルトは『突き放された』とは思わなかった。言ったゼラリオの方が、なぜか傷ついたような表情をしていたからだ。
ゼラリオは穏やかに語る。
「あのねレオ、幸せになるっていうのは、私が思うに一種の才能だよ。幸せになるか、幸せかどうか、決められるのは結局自分だけだ。貧民街で暮らそうと、『幸せだ』と笑える子もいるし、豪華なドレスと宝石で身を飾り、遊興の限りを尽くしても、『自分は世界一不幸だ』とのたまう婦人もいるんだよ。……私の産みの母のようにね」
ダルクレア家は家族仲がいいので忘れそうになるが、ゼラリオたち双子の母親は先代公爵の前妻だ。そういう意味で、ゼラリオと少し境遇は似ているが、自分は実母との関係も良好だ。
このゼラリオらの母親は、子供の頃からダルクレア家に嫁ぐことが決まっていたが、結婚式直前に使用人と駆け落ちしようとしたところを連れ戻され、泣く泣く先代公爵と結婚させられたらしい。
特に珍しい話でもなさそうだが、ゼラリオの母は夫や幼い子供たちの前でも、ずっとそのことを嘆き続けていたそうだ。『あなたたちの人生は、私の不幸の上にある』と。
それでも妻を愛していた先代公爵は、同情心と後ろめたさから、妻の望む物は何でも与え、妻の望むがままに過ごさせていたらしい。ほとんど自分の家によりつかなかった母親は、男女の違いが出るまで、たまに会う我が子たちの区別もつかなかったそうだ。
この母親はゼラリオが八歳の頃に亡くなった。旅行中火事に巻き込まれ、傍には若い男の遺体が一緒だったと聞いている。
『母の行動に物申すつもりはないよ。母は貴族女性の義務として、家のために嫁ぎ、跡継ぎを成したのだから。母親らしいことは何もしなかったけど、そもそも貴族の子なんて使用人に育てられるものだし。愛人のことだって、夫婦の問題で私が口出しする話ではないからね。……でも、そういう環境を享受しておきながら、『私は世界一不幸』だと言い張り、父の献身や母を恋しがる妹まで、否定したことは許せなかった』
そう打ち明けられたのは、自分たちが恋人になって間もない頃のことだ。本人は認めないだろうが、彼の牢固な価値観や、女性を恋愛の対象として見られない原因は母親にあるのではと、レオドルトは密かに思っていた。
(気づいてないだろうが、お前だって貴族社会の被害者だ……)
それを口にしたら、さすがの彼も怒るだろうか。だから代わりに聞いてみた。
「だったらお前はどうなんだ。自分が今、幸せだと胸を張って言えるのか?」
一瞬、目を丸くした後、ゼラリオは悠然と笑う。
「当然じゃないか。私は地獄の底でも、自分は幸せだと言い張ってみせるよ」
「何が地獄の底だ。苦労知らず、とまでは言わんが、お坊ちゃま育ちのクセによくぬかす」
「そういうことを、臆面もなく言えてしまうのが、私が幸せである証だと思わないかい? 実際、私は可愛い弟と妹のような存在まで手に入れて、本当に毎日が楽しいんだよ。しかも今度は甥か姪までできるんだ。……リゼリナも意気込んで嫁いだはいいけど、結局ルヴェリエの若君に骨抜きにされてしまうとはね。まあ、若君の方もリゼリナにベタ惚れらしいから、その辺は引き分けかな」
無邪気な笑う姿に、これまでとは違う恐怖がレオドルトの中に込み上げる。ゼラリオの家族や、恋人である自分に対する愛情を疑ったことはない。同時にいざとなれば、それらの人間を切り離してでも、己の義務と理念に従うのでは、という疑心もあった。
そしてどういうわけか、嫌な予感ほど的中するのだ。改めて実感するのはそれから十年後。ゼラリオの思惑通りファナとの離婚が成立し、彼女が改めてユーレリウスの花嫁にとなり、一年ほどが経過した頃のことだった。
※※※※※※※※※※
『以前、君に紹介してもらった老医師はまだご健在かな?』
ある日、脈絡もなくゼラリオがそんなことを聞いてきた。
老医師とは、以前ユーレリウスが、行き過ぎた悪戯の末ファナに怪我をさせ、それに怒ったゼラリオが弟の頬を引っ叩いたときに紹介してやった人物だ。奇妙なことに、この時に怪我をしたのは引っ叩いた兄の方だった。慣れないことをして手を捻ったと聞いて、どれだけ軟弱なんだ、とひどく呆れ返ったことを覚えている。
『また怪我でもしたのか?』と問うレオドルトに、ゼラリオは『今は何もないよ』と静かに笑うだけだった。理由がわかったのは、レオドルトが珍しく護衛の仕事ではなく、招待客として舞踏会に赴いた時のことだった。
以前から酒癖が良くないことで有名だった、隣国国王の叔父であるダンシェル公爵が一人の令嬢に目を付け、執拗に絡んでいた。最初はニヤニヤとまとわりつくだけだった公爵が、急に激高し侮蔑的な言葉で令嬢をののしりだした。
相手は他国の王族で、並の貴族ではおいそれと諫めることすらできない相手だ。その場に駆け付けたレオドルトは、グラスを床に叩きつけ従僕に当たり散らす公爵を横目に、泣きじゃくる令嬢に声をかけ、ひとまずその場から離れようとした。その姿見た公爵は、レオドルトに詰め寄り――次の瞬間、後ろから肩を叩いた相手に顔面を殴られ、吹っ飛ばされていた。
両の鼻から血を垂れ流し、茫然とへたり込む公爵を冷ややかな眼差しで見下ろしていたのは、真っ赤な拳を握るゼラリオだった。騒ぎを聞きつけ現れた国王は、その状況にゼラリオへ険しい表情を向けた。反射的に、レオドルトは間に割って入り、王の前に跪いていた。
その場を取りなそうと、口を開きかけたレオドルトを一喝したのは、ゼラリオ本人だった。
『控えよ、レオドルト卿! 一介の騎士ごときが出過ぎた真似をするな!』
叱責というていで、レオドルトが国王から不興を買うことを防ごうとしているのは明らかだった。そうなれば、もう言えることはなかった。
ゼラリオはレオドルトの隣で片膝を付き、頭を垂れると、騒ぎを起こしたことを国王に陳謝した。そしてこう続けた。
『この失態、爵位の返上をもってお詫びすることを、お許しいただきたく存じます』と。
そして事件から一週間が経った。あの後、ゼラリオは王宮の一室で謹慎を命じられ、会うことはおろか動向もわからなかった。焦燥感に駆られるだけの、虚しい日々が続く中、ある日突然、住居として間借りしている部屋の家主から連絡が来た。慌てて駆け付けると、部屋の中に勝手に上がり込んだゼラリオが、包帯を巻いた手を掲げ、呑気な笑顔で「やあ」と告げた。
「君との付き合いは長いけど、部屋を訪ねたのは初めてだったね」
物珍しそうに、部屋の中をウロウロするゼラリオを、ベッドの上に腰かけたレオドルトは無言のまま睨む。やがて気を利かせた、家主の老婦人がお茶を持って来てくれた。三十路を過ぎて、ますます妖しい魅力を身に着けたゼラリオが、蠱惑的な笑みで茶器の乗ったトレーを受け取ると、老婦人は少女のようにはにかんでいた。
「ここに来る前に、君に紹介してもらった医師のところに行って来たよ。今度は骨が折れてるって。まったく……王宮の侍医はおざなりにしか手当してくれないんだから。……まあ私は罪人みたいなものだから仕方ないか」
「その様子では自分の家に帰っていないな?」
城下にあるダルクレア家の別邸では、弟のユーレリウスたちがゼラリオの帰りを今か今かと待っているはずだ。
「さすがに、今は家族に顔を合わせづらいからね」
「……わざとだろう?」
その短い一言だけで意を解したゼラリオは、小さく口の端を上げた。
「お前は何を考えているんだ?」
「この国の未来」
レオドルトは深くため息をついた。
「……何でダンシェル公爵を殴ったんだ?」
「別に表向きの理由なんて何でもよかったんだ。ただどうせなら、常々気に入らないあの顔に、一発入れてやろうと思ってね。まあ、骨折した甲斐はあったかな。すっきりしたよ」
「お前はどうしてそう……」
やるせなさに、レオドルトはぐしゃりと頭を掻き乱す。
ふいにドアの向こうから、老婦人が誰かを制止する声が聞こえてきた。次の瞬間、ドアが弾かれるように開かれた。
「兄上! ここですか!?」
「こら、人の部屋に入る時はノックくらいしないか」
息せき切って現れたのは、ユーレリウスだった。今では兄よりも背が高く、子供の頃は少女のような風貌だったが、儚さやひ弱さは削がれ精悍な青年へと成長していた。
「ゼラリオ……!」
さらにユーレリウスの後ろから、一人の女性が顔を出す。こちらもすっかり優雅な貴婦人となったゼラリオの元妻にして、現在はユーレリウスの妻であるファナだった。見ていて心配になるほど、その顔が青ざめている。
「やれやれ、ファナまで一緒か」
「謹慎が解けたと聞いたのに、どうして家に帰って来ないの!?」
「君たちこそよくここがわかったね」
「ジョセ男爵夫人にここまで送っていただいたの。レオドルト卿のお住まいになら、あなたが来てるんじゃないかと思って」
ジョセ男爵夫人とはレオドルトの姪のことだ。奇妙な小説を愛読していた少女も、数年前に良縁に恵まれ貴族の奥方となっていた。先日の舞踏会では、夫が流行風邪にかかり行けなくなったからと、レオドルトが同伴を頼まれていたのだ。
舞踏会にユーレリウスたちは参加していなかった。ファナが体調不良と聞いていたので、彼女も流行の風邪だったのかもしれない。二人があの場にいなかったのは不幸中の幸いだろう。昔とは別人のように落ち着いたとはいえ、激情型のユーレリウスは何をしたかわからない。
子供の頃、ユーレリウスは遊学先で隣国の王子を殴っている。その話を聞いて頭を抱えていた兄が、まさか同じことをやるとは……。ユーレリウスたちは子供だったからまだ笑い話で済むが、今度ばかりはそうもいくまい。
「爵位の返上とはどういうことですか!?」
詰め寄る弟を、ゼラリオは両手で制しながら苦笑する。
「その件は心配しなくていい。陛下から、改めてお前に爵位を継がせることを認めていただいたから」
「……は? 僕が!? それなら兄上はどうなるのです!? だいたい、どうしてあんな真似をしたのですか!?」
「だから、今ちゃんと説明するよ。――ファナ、ボロで悪いがそこの椅子に座りなさい」
「え、ここ?」
他人の家の物にケチを付けるなと言いたかったが、レオドルトも話の続きが気になったので黙っておいた。そしてなぜか、寝台に座るレオドルトの隣に自然な動作で腰を下ろしたゼラリオは、改めて弟とその妻に向き直る。
「――今回の件の処分だけど、私は責任を取って公爵位を退き、その後は北方諸国へ駐在大使として赴くことになったよ」
その意味がわからぬ者はこの場にいなかった。室内が沈痛な空気で満ち、誰もが言葉を失う。
(事実上の国外追放じゃないか……!)
想像以上に重い処分に、何と言葉をかけたらいいのかわからなかった。
「なぜ兄上が、そこまで重い処分を受けなければならないのです!?」
最初に言葉を発したのは、激高したユーレリウスだった。
「あの公爵は自分の国でも鼻つまみ者で有名です! あちらの国王ですら、この件に『ざまあみろ!』と笑っていると、第四王子から早文をもらいました。そもそも恥知らずな真似をしたのはあちらなのだから、形ばかり頭を下げておけば十分じゃないですか!!」
「うん、実はこの件には裏があってね」
それまでヘラヘラと笑っていたゼラリオが、ふいに真面目な表情を作る。
「君たちも知っての通り、北方諸国連合が結託して、南方への侵攻を企んでいるとの噂があるだろう? あちらも一枚岩とは言えないし、本意を探りに行きたいんだ。……いざとなれば、強硬派を洗い出し瓦解させるためにね」
「兄上が自ら赴き、工作を図るということですか?」
「身軽に動くには、私の爵位は少し重すぎるんだよ。前々から陛下には進言していたのだけど、いい返事がもらえなくてね」
「それはそうだろう」
『性的嗜好』にはたじろいでいるものの、国王はゼラリオの本質を見抜いた上で、実は彼のことを気に入っている。
「だからこうなったら、陛下も承諾せざるを得ない状況を作ってしまおうと思ったんだ。それに、いかにもな切れ者を送り込んだら怪しまれるからね。やらかし貴族が厄介払いされた、という名目は悪くないだろう?」
話を聞いて安堵したのも束の間、ぬけぬけと笑うゼラリオに、だんだん怒りが込み上げて来る。これではこの数日間、彼を心配し続けたこちらが道化も同然だ。
無理です……と絞り出すような声を出したのは、ユーレリウスだった。まるで子供の頃に戻ってしまったかのように、不安そうな表情を兄へ向ける。
「僕に公爵など務まりません。兄上のように策を練る冷静さも、思慮深さも僕にはありません。家門を束ね、他家との交渉事を行う器量だって僕には――」
「それでいいんだよ、ユーリス」
「お前は確かに直情的だし冷静さに欠けるところがあるけれど、それは悪いことばかりじゃない。策を用いることができない人間だからこそ、得られる信頼もある。……どうも私は、見る者が見れば腹黒さが隠し切れていないらしい。今回の件、私を庇おうとしたのはこの隣にいる男だけだったけど、公爵を殴ったのがお前だったらどうだったろうね?」
その言葉に、レオドルトとほぼ同時にファナが、ユーレリウスをはっと見る。
ユーレリウスは子供の頃から、末っ子気質ゆえか意外と人懐こいところがある。ゼラリオの言う通り、いまだに感情的で危うい部分も見受けられるが、だからこそ『手を貸してやりたい』と思わせる性分だ。兄のように策を弄せずとも、自然体で人の懐に入り込んでしまう、これもまた一種の才能なのだろう。
もし今回の失態を犯したのがユーレリウスならば、『この馬鹿が!』と怒りつつも、彼を庇い共に頭を下げた知人や友人は、もっといたのではないだろうか。確かに考えようによっては、これはユーレリウスの強みだ。
「お前はお前のやり方で人望を集めればいい。侮られたっていいじゃないか。それでもお前に手を貸してくれる人はたくさんいると思うよ。それに領地のことなら、ファナにはこの十年、経営と経済を学ばせてきた。お前の背後はファナが守ってくれるよ」
「だったらせめて、ゼラリオも傍にいてよ。あなたがユーリスを助けてくれれば、それが一番じゃない!」
ファナの訴えにゼラリオは静かに首を振った。
「実はこの件に関しては、ルヴェリエ侯爵に先に話を通してあったんだ」
「お父様に?」
「私がいなくなった後は、彼が宮廷を統率し陛下をお支えしてくれる。……さすがファナの父君だ。彼も私とは違う形で、くだらない権力争いに終止符を打ち、宮廷が団結する方法を模索していたようだ」
「どうしてお父様がそんなことを……」
「今回の私の工作活動が功を成したところで、もう時代の波は変えられない。大国同士の腹の探り合いはずっと前から始まっているんだ。大きな戦争が始まれば、我が国のような小国はあっという間に引きずり込まれる。不毛な争いに終止符を打ち、挙国一致とならなければ、他国から簡単につけ入れられてしまうだろう」
「だったらどうして兄上が、先頭に立って指揮を取ろうとしないのですか!?」
「残念ながら、私のように適度に若く賢しく、素晴らしく見目のいい人間は、担ぎ上げて良からぬことの御旗にするのに、まさに打ってつけなんだ。私自身が望もうが、望むまいがね。……だからもう、私はこの国にはいらない」
その横顔はいつかの時、自分も家族も『物』だと言い切った時と同じ表情だった。
レオドルトは深々と溜息をつくと、思わず片手で表情を隠すように顔を覆った。かつて抱いた不安は結局現実になってしまった。
(やはりお前は、自分を切り捨てるんだな……)
怒りよりも、悲しさよりも、ただ虚しくやるせなかった。
自分を捨て駒にしてでも、愛する国が、愛する人々が未来へ進むことを望む。深い愛情と強固な理念、相反するものを抱いた彼が行き着く先など、最初からわかり切ったことだった。
ゼラリオとは生きる世界が違うことも、いざとなれば自らの理想に殉ずる人間であることも、最初から知っていた。手を取り合っている瞬間もですらも、彼はずっと自分とは別の世界を見ていた。そして今度は手を取ることすらできない、世界へと旅立とうとしている。
「だとしても……あなたがいなくなったら、やっぱり寂しい……」
「ファナ……」
ぼろぼろと少女のように涙を流す妻の肩を、ユーレリウスが抱き寄せる。その様子を、微笑ましそうに見つめながらゼラリオは言う。
「大丈夫だよ、ファナ。すぐに寂しさを感じる暇もないくらい、にぎやかになるよ。ユーリスとその子がいつだって君の傍にいてくれる」
その一言と、下腹に手を当てるファナの姿に、レオドルトは悟る。彼女が舞踏会に参加しなかった理由や、やたらと顔色の悪いのはそういうことだったのだ。ファナを椅子に座らせたのは、万が一、卒倒した時のことを考えてだったのだろう。
「……兄上はいつもそうです」
先ほどまで不安な表情をしていたはずのユーレリウスが、一転して射殺しそうな険しい眼差しで兄を見ていた。
「何の相談もせずに、勝手に決めて、勝手に押し付けて、勝手に汚れ役を買って……!」
「うん、私は独善的で身勝手な男らしいから」
開き直った言い草に、ユーレリウスが眉を吊り上げて立ち上がると、その裾にファナが取りすがる。
「ユーリス、だめ!!」
「……いいさ。自分でも殴られても仕方ないと思うよ」
仁王立ちで兄を見下ろしたユーレリウスは、冷ややかに兄を見下げる。
「殴りませんよ。もうとっくに剣術じゃ僕に適わない人なんか。だいたい何ですか、その手は? そんな軟弱な人が、よく北方諸国に行こうなんて思えますね」
あちらはレオドルトの祖国と同じくらい、武人肌で血気盛んな人間が多い国だ。いかにも貧弱そうなゼラリオが侮られる、程度で済めばいいが、最悪は身に危険が及ぶかもしれない。工作活動が露見すれば、当然命はないだろう。
「そこまで言うなら、どうぞご勝手に。当主の地位も爵位も遠慮なく僕がいただきます。生まれてくる赤子のことで、僕もファナも手一杯になると思うので、身勝手な中年のことなど気にかける余裕はありません」
毒づきながら、ユーレリウスはアメジスト色の瞳を潤ませていた。少年時代、彼が密かな好意を抱いていた少女に、素直になれなかったことを思い出す。今ではユーレリウスの妻となったファナも、この情熱と不器用さに絆されたのだろうなと、密かにレオドルトは思っていた。
「さすがにひどいよ……中年呼ばわりは」
ゼラリオもまた、覚悟を決めて前に進もうとする弟の成長がうれしかったのか、表情は優しかった。確かにこういう風に、人の心に訴えることなど、この兄にはできない真似だ。
「でも、それでいい。《奸計のダルクレア》は私の代で終わりだ。新しいダルクレアはお前が作れ、ユーリス」
ユーレリウスは無言で、ただ力強くうなずいた。
「それにね、私は別に一人で北方諸国に行くわけじゃないよ」
『やらかし貴族』だとしても、一国の大使だ、文官も武官も当然随従するはずだ。
「人選はもう決まっているのか?」
「もちろん君は確定だよ、レオ」
あっさり言われた言葉に、レオドルトは虚を突かれる。
「……いや待て。俺は聞いていない。何かの間違いじゃないのか」
「いいや。陛下から、餞別代わりに好きな人間を選出しろと言われているんだ。説得は自分でしろとも言われたけどね」
「それでお前は、どうして俺が当然のように承諾すると思ってるんだ?」
その瞬間、珍しくゼラリオから余裕の表情が剥がれた。
「……私と一緒に来てくれないのかい?」
「今の俺は国王陛下の近衛だぞ。どうしてその地位を捨てて、お前と辺境に行くと思うんだ?」
爵位もない家の、それも異国の血を持つ庶子としては、今がまさに出世の最高到達点だろう。
何を言われているかわからない、という風のゼラリオに、レオドルトは呆れ果ててしばらく言葉が紡げなかった。ゼラリオには、これまで『恋人』という理由だけで、散々都合よく利用され、無用に気を揉み続けてきた。
(とっくに俺が愛想を尽かしてる――そういう発想がないのか、こいつには……)
「だって君は、なんのかんので私のことを愛しているじゃないか」
レオドルトの複雑な心情を逆撫でするかのように、ゼラリオは満面の笑みで告げる。これには頭を抱えて、うつむくしかなかった。傲慢さもここまで至れば極まれりだ。
(さすがにもう無理だ……)
レオドルトは静かに立ち上がると、そのまま片膝を付いて頭を垂れる。――ユーレリウスとファナに向かって。
「……すまない、ユーリスが堪えたのに。お二人には先におわび申し上げる」
「どうぞ、ご遠慮なく。僕もかねがね、レオドルト卿はもっと怒るべきだと思っていました」
「そうね。これはもう仕方ないわ」
ユーレリウスは小さく鼻を鳴らし、ファナですら口元の笑みとは裏腹に、その眼差しは冷め切っていた。
「では、僕らはそろそろ失礼します。レオドルト卿、お騒がせいたしました」
「もう帰るのかい?」
「ええ。胎教に悪そうだもの」
「外で待たせてある馬車は兄上のですよね? これ以上ファナに負担を掛けさせたくないので、あれは僕らが乗って行きます。どうぞ兄上は徒歩で家までお帰りください」
「え、ええ……?」
急に冷たくなった弟夫婦に、一人状況がわかっていないゼラリオが焦ったような声を上げる。無駄に賢しいくせに、彼はこういう人の心の機微に実は疎い。
ぱたんと、部屋の扉が閉じると同時に、レオドルトは乱れた心を整えるようにふぅと息をついた。
「……お前は男とはいえ、一応は恋人と呼んでる人間だ。ついでに軟弱で、しかも今は怪我人ときている」
「いったい何の話だい?」
嫌な予感がするのだけど、と顔をひきつらせるゼラリオに構わず、レオドルトはぐっと拳を握り言葉を続ける。
「だから後にも先にも一度だけだ。一度だけはケジメを付けないと、俺も気が収まらん」
「待て待て、レオ。いったん落ち着け!」
レオドルトは逃げ腰になるゼラリオを、引き寄せるようにその襟元を片手でつかんだ。
「……歯、喰いしばれ」
声を上げかけたその顔に、レオドルトは拳を振り下ろした。
すっかりふてくされたゼラリオが、川沿いの欄干にもたれ掛かかる。
「ひどいなあ……」
その左頬はまだ少し赤い。夕焼けに照らされた金色の水面を、ゼラリオの隣で眺めていたレオドルトは小さく舌打ちした。
「自業自得だ、アホウ。言っておくが、相当手加減したからな」
「知ってる。君が本気なら、私は固形食を食べられない口になっていただろうからね」
「……もう少し強めに殴っておけばよかったな」
「そちらの趣味はないけれど、君の怒りが収まらないのなら付き合うよ。……私はそれだけのことをしてきたようだし」
ゼラリオはそう言っているが、実際この問題の本質をどこまで彼が理解しているのかは怪しいところだと思った。とはいえ、理解し合えないことは最初からわかっていた。そしてそれを、虚しいとはもう思わなかった。
「……もういい。この先一度切りと約束したからな」
「へえ、この先ね」
「人間相手になら臆するつもりはないが、南国育ちの身としては、北方の寒さは考えるだけで憂鬱だ」
「いざとなれば、私が暖めてあげるよ」
「……蹴らない、とは約束してなかったな」
そっと距離を取るゼラリオに、少し溜飲を下げたレオドルトは、再び水面に視線を移す。
「それで、実際のところ作戦の見込みはどうなんだ? ユーリスたちに語ったほど、気軽な話ではないはずだ」
「もちろん厳しいさ。少しでも打つ手を間違えたら、私はすぐさま氷海の底に沈められるだろうね。きっと毎日が綱渡りのような生活さ。……でもやるよ。この国には、私が愛するものがたくさんあるのだから。それを守るためなら、この身が汚泥に塗れようと、業火に焼かれようが私は退かない」
だからお坊ちゃん育ちのくせにどの口で、と笑い飛ばそうとしてやめた。実際この男は、地位も身分も、愛する者との安寧な生活をも捨てて、死地も同然の場所へ旅立とうとしているのだ。そしてもし、異国に骨を埋めることになっても、それが理念に従った結果ならば、ゼラリオは後悔はしないのだろう。
「一応聞いておくけど、君こそ本当にいいのかい?」
「宮廷騎士になった時点で、親父殿への義理は果たしている。それに俺には責任を負うべき家族もいない」
とはいえ、祖国を捨ててでもなりたかった宮廷騎士だ。この傲慢で独善的で、まっとうな人間にほど遠い男のために、それらを捨てようとしている辺り、自分も彼と大差ない異様な人間なのだろう。
「俺が自分で決めたことだ。もし後ろめたさを感じるなら、せいぜい長生きできるよう努力しろ」
「約束するよ。後ろめたさは別に感じていないけど」
「本当に懲りないなお前は」
生き様が違っていても、もうそれでいいと思えた。別の世界を見つめていても、背中を預けることはできるし、その視点の違いが彼を守ることもあるだろう。
(……だから、こいつとは一生わかり合わん)
レオドルトは密かに心に誓い、小さく笑った。
茜色に染め上げられた髪をなびかせる、相変わらず小憎らしいほど整った顔を見つめながら、ふと思いついたことを尋ねてみる。
「……ゼラリオ、お前は幸せになれそうか?」
「当然じゃないか。私はどんな場所だろうと、自分は幸せだと言い張ってみせるよ。それが私という人間だからね」
見惚れるほど堂々たる笑みで、ゼラリオは告げた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
少しでも気に入っていただけた方は、下部☆☆☆☆☆のタップをどうぞお願いいたします。ブックマークや感想もいただけると、大変励みになります。
前作を書き終え、いろいろご意見をいただいた『ゼラリオ』というキャラクターについて、漠然と頭の中にあった設定を見つめ直すところから、このお話が生まれました。そして『この男は本当に悪党なのだろうか?』という疑問の元、自分の中で冷静に考察した結果、『紛うことなきクソ野郎である』と結論に至りました。早い話、私が書いていて楽しいタイプであり、これは書き切れると思い一本のお話になりました。
前作について、『勧善懲悪』はテーマではないと書きましたが、こちらに関しては、ここまで他人を巻き込んで好き勝手したのだから、彼も始末もつけるべきでは? という思いがあります。ある意味ラスボスと、その顛末の話なのかもしれません。今後の彼は波乱の人生を送りますし、生きて祖国に帰れたか……ちょっと怪しいかもしれません。それでも彼の中ではきっとハッピーエンドです。巻き込まれたあの人も、文句言いつつ結構楽しんでいると思います
主人公達とは全然違う世界を見ていたというキャラクターなので、まったくテイストが違う話になってしまいました。前作と同じような雰囲気を望んでいた方に申し訳ない限りです。恋愛物としてはちょっと薄めですが、ワチャワチャしたやり取りは十代の頃とかに済ませている二人だと思うので、これはこれでと思っています。
結局いつものごとく、やりたいように書いた作品となりましたが、ここまで目を通していただきありがとうございました。また別作品でもお付き合いいただければ幸いです。