第二章 運命は浅葱色の鱗粉とともに(5)
──同日夜、フィルル邸。
郊外の山裾に立つ、洋風の白亜の木造建築。
当地有数の豪族の邸宅だけあり、さながら小さな城といった外観。
フィルルは寝室で天蓋付きベッドの縁に腰かけ、テラスからの月明かりと、カンテラの灯で、本に目を通している。
本は昆虫図鑑。
邸内の書斎から持ってきたもの。
「ほぉ……。ハラビロカマキリモドキは、額の点々が四つ……。一口にカマキリと言っても、多種多様ですのねぇ……」
薄桃色の絹製のネグリジェに包まれた太腿の上で、重みのある昆虫図鑑を左右に開き、カマキリのページを凝視するフィルル。
そのページを、わきから中腰で覗きこむクラリス。
リアルに描かれた昆虫が並んでいるのを目にし、クラリスは背を戻した。
「……お嬢様ぁ? あの男はダメですよ! 絶対ダメ! どこからどう見ても、生活力ゼロですっ! 俗に言う甲斐性なしです!」
「それくらいは、わたくしも心得てます。ですが生活力など、わたくしのバックアップでどうとでもなります。彼は……それ以外のすべての条件を満たしているのですから、これはもう運命……。そう、運命! 必然の出会いっ! 彼の滞在中に婚約を決め、お父様へ紹介します!」
(ダメだ……。ベタ惚れモードに入ってる……。お嬢様は惚れられ慣れてるけれど、自分が惚れてしまうと、極端に一途……悪く言えば暴走状態になるのよね……)
「ミズカマキリは収斂進化でカマキリに似ているだけで、まったく異なる昆虫……ですの。ふむふむ……」
「……とにかく、そろそろ寝てください。寝不足はお肌に悪いですよ!」
「うるさいあなたが部屋から失せたら、休むとしますわ」
(まったく……。一晩置いて、熱が冷めるのを期待するしかないですね……)
クラリスは部屋のドアの前に立ち、フィルルへ向かって深々と一礼。
「おやすみなさいませ」と本日最後のあいさつをし、静かに退室。
ドアの外からクラリスの足音が聞こえなくなったところで、フィルルは図鑑を閉じ、枕元へと放る。
立ち上がり、テラスへの出入り口となる引き窓を開けて、夜風を部屋へ招いた。
「……待たせたわね。入ったら、窓は閉めてちょうだいな。虫が入りますから」
ヒップを放るようにして、ベッドの縁へと再び腰かけるフィルル。
ほぼ同時に、テラスへ小柄な人影が一つ降り立ち、後ろ手で窓を閉めながら入室。
フィルルより頭一つ背が低い、黒い短髪の少女。
ノースリーブとショートパンツの組み合わせの、ダークブラウンの厚手の生地。
瞳は丸く、眉は太く、顔つきはあどけない。
その少女の顔は、フィルルの記憶にはない。
「はじめまして……の顔ね。窓からの来客も、あなたが初めてよ」
「……わたしの気配、よく察したな。手ぶらで部屋へ招き入れて、よかったのか?」
「安い殺気でしたから、まあ大丈夫だろうと思いまして、フフッ。逮捕された暴漢連中の仲間……ではなさそうですけれど、どちらさまで?」
「……カイトに関わるな」
「は?」
「カイトのことは忘れろ。あれは近々、消える男だ」
「あなたもしかして、彼のストーカー的な? でしたらこの部屋から、お縄なしでは出られませんけれど?」
「……もう一度だけ言う。カイトに関わるな。あれは、おまえのような深窓の令嬢には手に負えぬ。この家屋敷、すべて喰われる……ぞ」
「なにを仰っているのやら、さっぱり……ですわ。やはり縛りあげて、詰問すべきのようです……ねっ!」
「おまえこそ、痛みをともなった警告が必要の……なにっ!?」
闖入者の女が、刃物を取り出そうと懐へ右手を入れた刹那。
分厚い昆虫図鑑が、女の顔面目がけて猛スピードで飛ぶ。
女は右腕で、とっさにそれをガード。
レンガブロックの塊をぶつけられたような衝撃が、腕に走る。
(あの糸目女……この重量の本を、この速さで……しかも片手で投げた!)
ゴキブリのページを開きながら、地に落ちる昆虫図鑑。
女の視界から昆虫図鑑が消えたとき、すでにベッド上にフィルルの姿はなかった。
(部屋の暗がりに忍んだかっ!? だが、わたしは夜目が利くぞっ!)
身構えつつ窓際から少し離れて、部屋の四隅へ目を配らせる女。
薄暗い部屋の中に、不意にキシッ……と、木造ベッドの一端がきしむ音が響く。
「しまっ──」
女に回避する隙を与えず、頭上からフィルルが落下。
曲げた両肘に体重とスピードを載せて、女の首の付け根へと背後から叩きこむ。
フィルルは図鑑を投げると同時に跳躍し、天蓋の上へと潜んでいた。
女は頸椎の左右に強打を受けたことで、意識が半分飛ぶ。
「──った……。おの……れ…………」
ふらふらと前傾姿勢になる女の首筋へ、フィルルはわきから手刀を振り下ろす。
長い五指が揃った斬れ味抜群の手刀が決まり、女の顔面が、図鑑のゴキブリのページへと叩き落とされた。
「新種のゴキブリを追加した改訂版……といったところですか。クスクスッ♪」