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高嶺のハナの二度目の恋は

作者: 上田 成

 

「あ……」(やばい……! 吊り革に手が届かない……!)


 朝の満員電車にギリギリで乗り込んだハナコは、扉の付近しか開いておらず吊り革に手が届かないことに冷や汗を掻いた。

 地元の大学を卒業し、社会人になって上京してきて2年。息がつまりそうな満員電車には慣れた(というか諦めた)が、どうやっても吊り革なしで立っていられることはできない。


(この揺れる車内で何故に東京人は吊り革無しでまともに立っていられるわけ? どんだけ体幹鍛えてんの? それとも靴に吸盤でもついてんの?)


 吊り革なしで前に立つおじさんや隣でスマホを見ている若い女性の安定感に感心しながら、ハナコは混雑する車内でなるべくスペースを取らないようにしつつ両足を踏ん張っていた。

 だが会社のある最寄り駅まであと少しの所で、努力虚しく前置きなしでガクンッと揺れた車両に態勢を崩してしまう。


「うおっ!」(ヤバい、転ぶ……!)


 思わず口から漏れ出た可愛くない悲鳴と共にぎゅっと身体を縮こめる。

 数秒後にやってくる羞恥と痛み、そしてお願いだから誰かを巻き込んでいませんようにと思いながら、転ぶ態勢に入ったハナコの身体がふわりと持ち上がった。


「大丈夫ですか?」


 頭上から聞こえた低い男性の声に、ハナコは反射的に閉じていた瞳を瞬かせる。が、すぐに自分が、スマホを見ていた女性の反対隣に立っていた男性に支えられている状況だということに気が付いて、慌てて姿勢を正した。


「す、すみません! ありがとうございます」


 恥ずかしさと申し訳なさで顔を真っ赤にしながら謝罪したハナコだったが、嫌がらせのように再度揺れた車両によろけてしまい、それを見た男性は苦笑いを浮かべると、自分が持っていた肩掛け鞄のベルトの部分を指さした。


「もしよければ、ココ掴まってていいですよ?」

「へ?」


 男性の顔と鞄のベルトを交互に見たハナコに、男性は眉尻を下げる。


「あ、嫌じゃなければですけど……」


 吊り革に手が届かない今のハナコにとって男性の申し出は渡りに船のように思えたが、見ず知らずの人にそこまで甘えてしまってもいいのだろうかと逡巡する。


「でも、ご迷惑では?」

「いいえ。それより目の前で転ばれる方が心配です」


「心配です」と言ってはくれているが、本音を言えば「迷惑です」と言いたいのだろうと察して、ハナコは男性の申し出を有難く受け取ることに決めた。


「……すみません。では、お言葉に甘えさせていただきます」


 ギュッと両手で鞄のベルトを掴むと心許なかった安定感がちょっとだけ増す。そのことに安堵して胸を撫でおろしたハナコは、ベルトのお陰で転ばずに目的の駅へ到着することができた。


「あ、あの、私、この駅で降りますので。ありがとうございました」

「いえ。お気になさらず……この駅ですか? 奇遇ですね、俺もです」

「そ、そうなんですね。では、本当にありがとうございました」


 同じ駅だったことに何だかちょっと気まずいと思いつつ一緒に駅のホームへ降り立ち、改めてお礼を述べるとハナコは足早に会社へ向かう。


「恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい……」


 念仏のように呟きながら会社に辿りついたハナコだったが、実は助けてくれた男性が同じ会社の先輩だったことを知ることになったのは、この日の昼食のことだった。


「あれ? 君は?」

「んぐっ!」


 社員食堂で同僚と昼食を摂っていたハナコは、声をかけてきた人物の顔を見て危うく唐揚げを喉に詰まらせ窒息死するところであった。

 何とかごくんっと飲み込んで引きつった笑みを浮かべたハナコに、男性は可笑しそうに笑いだす。


「同じ会社だったんだね。そういえば見かけたことがある顔だなとは思っていたんだ」

「今朝はどうも……」


 言葉を濁したハナコの袖を同僚が激しく揺する。恋愛脳である同僚のキラキラの瞳が「何? どういうこと!?」と語っておりハナコは仕方なく朝の顛末を語るはめになったのだった。



 ハナコを助けてくれた男性は、会社のエリートが集まる経営企画室の中でも若きホープとして有名な黒川という人物だった。

 若干27才にして上役を唸らせる手腕を持つ黒川は、所謂イケメンと呼ばれる容姿まで兼ね備えているため当然社内の女子人気も高い。

 つき合った女性の数は星の数ほどなどという噂まである黒川だが、他部署の人間とはあまり関わりを持たないで有名だったため、経理部のハナコも今まで全く接点がなかった。

 今朝のことがなければ平凡なハナコなど、きっと一生接点がないままの人間だっただろう。


 そんな黒川だったが、社食で再会して以来何かとハナコに話しかけてくるようになった。

 最初の内は初対面での失態から勘弁してくれと思っていたハナコだったが、次第に黒川の気さくで真面目な人柄に惹かれていくようになる。


 イケメン過ぎて一見すると冷たそうな黒川だが、社内で会うと優しく声を掛け気遣ってくれるし、ハナコが残業だと聞くと無事に帰宅できたかメッセージを送ってくれたり、無茶な要求をしてきた他部署の上司の話をしたら、翌日には(どうやったのかは知らないが)円満解決してくれていたりと頼りにもなる。

 朝の通勤電車で鉢合わせすることも多くなり、吊り革が届く時でも鞄のベルトを持たせてもらったり、同僚も交えてだが昼食を一緒に摂ったりと交流が増えてゆく度に、ハナコの心を黒川が占めていった。


 いつしか黒川を目で追ってしまうようになり、いくら恋愛に疎いハナコも自分の恋心を自覚する。


 そんな頃、黒川からデートに誘われた。

 今まで通勤途中や社内での付き合いはあったが、休日に二人きりで会うのは初めてだった。

 嬉しいと思いつつもハナコの心は揺れる。

 それは辛い過去のトラウマのせいだった。



 中学高校と女子高に通っていたハナコは大学4年生の時、初めて異性から告白というものをされた。

 相手を好きかどうかはまだよく解らなかったが、同じサークルの一つ年下の彼のことを少し気になっていたのは事実だし、自分を選んで告白してくれたことが嬉しくて即決でOKの返事をした。

 そのことに彼は少し驚いていたようだったが、恋愛という熱に浮かされたハナコは気が付かなかった。

 初めてできた恋人に完全浮かれていたのだ。


 しかし何度かデートを重ね、ハナコも彼が好きだと自覚するようになった頃、彼の本音が発覚したのである。


 突然休講になった授業にハナコは足早に席を立った。

 今日は放課後デートをしようと彼と約束していたからだ。

 その彼はこの時間の授業をとっていないので、ハナコが終わるまで学内にあるベンチで待っていてくれている。

 休講になったため、それだけ彼と一緒にいられる時間が増えると頬を緩ませながら、いつも待ち合わせに使っているベンチへ向かったハナコは、校舎の角を曲がろうとした所で談笑する声に足を止めた。


「お前、まだハナコ様と付き合ってんの?」

「ああ」


 聞き覚えのある声に反応して校舎の角からそっと顔をだせば、待ち合わせのベンチには彼と複数の友人がたむろしていた。

 彼の周りにいる友人達の中には数名の女子もいて、楽しそうな様子にじわりとハナコの心が重くなり、声を掛けるのを躊躇って校舎の陰に隠れてしまう。

 そんなハナコには気が付かずに彼らは話を続けた。


「まさかハナコ様が告白OKするとは思わなかったもんな~」

「そうそう、あの高嶺のハナコ様がマジで嬉しそうに笑ってるとかお前も罪な男だよ」

「それな! お前には罪悪感とかないわけ? そろそろ真実を話してやれよ」


 彼らが言った自分を指す「高嶺のハナコ様」という言葉に足が竦む。

「高嶺の花」と「ハナコ」を掛けた、あまり社交性がないハナコに付けられた悪意のある呼び名であることは承知していた。

 一昔前の書類記入のサンプルみたいな名前であるが、両親がつけてくれた名前なので不満はない。

 しかし少し釣り目気味の瞳と、親しくなるまでに時間がかかる難儀な性格のせいで、ハナコを知らない人間からはそう呼ばれているらしい。


 仲良くなった友人らは「ハナちゃん、全然偉そうじゃないのにね~。むしろ抜けてるのに」と言ってくれるのであまり気にしていないが、今はその「ハナコ様」よりも、彼らが言った「罪悪感」や「真実」といった言葉の方に心臓が嫌な音を立てた。

 そしてその嫌な予感は、ハナコの予想通り的中してしまう。


「実はダーツで負けた罰ゲームの告白でしたなんて知ったら、泣いちゃうんじゃん?」

「どうすんの? いつ残酷な現実を突きつけんの? 下手したらトイレで絞殺されるんじゃね?」

「え~、殺されちゃうの~? ハナコ様、怖~」

「この際黙っておいたら? もうすぐ卒業なんだから、いい夢見させてあげればいいじゃん」


 トイレで絞殺も「トイレのハナコさん」に掛けた悪口であることは明白で、嘲笑うように揶揄いながら紡がれる彼らの心無い言葉に、ハナコは今すぐ飛び出して全員殴りつけたい衝動に駆られたが、先程から一言も言い返さない彼の後ろ姿を見て身体から力が抜けていくのを感じた。


「ああ、そうか。これが弄ばれたというやつか……」


 ポツリと呟けば彼らの悪趣味な罰ゲームよりも、何も知らずに浮かれていた己の情けなさと浅はかさに乾いた笑みが浮かんでくる。

 初めて好きになった人だというのに、この結末は笑えない。

 だがここまでコケにされて泣き寝入りはしたくないし、彼から真実を突き付けられるまで待ってやるほどお人好しでもない。

 ハナコは確かに社交的ではないが、理不尽をされて言い返せないほど内気なわけではなかった。


 校舎の陰を出て、ツカツカと彼らが談笑する席まで歩いてゆく。

 校舎に背を向けて座っているせいで彼はハナコが背後からやってきたことに気づいていなかったが、ハナコの姿を見た友人たちが黙ってしまったことで、怪訝そうに振り返った。


「え? ハナコ?」


 弾かれたようにハナコを見た彼が、動揺を隠せないのか上擦った声で名前を呼ぶ。

 昨日まで愛しいと感じていた声も、真実を知った今では空々しいもののように感じて、ハナコは冷たい瞳のままにっこりと笑ってみせた。


「私なんかと付き合ってくれてありがとう。いい夢見させてもらったわ」

「え? いや! それは……」

「本気じゃなかったんだね。すっかり騙されちゃった」

「ちが……!」

「ああ、心配しないで? 私はこんなこと位で人を絞殺したりはしないから。大体、トイレのハナコさんって絞殺よりも、引きずりこまれるのがポピュラーなんじゃなかった? ともかく屑みたいな人間を殺して罪になるなんて馬鹿らしいこと私はしないから」


 言い訳しようとしているのかアワアワと口を開く彼の言葉を悉く遮って、ハナコは口調だけは穏やかに話し続ける。

 今更どう言い繕おうが全て虚構だということは解っているのだから、彼の弁明を聞くつもりはなかった。


「さようなら、いい教訓になったわ」

「ハナコ!」

「でも悪趣味だと思う。あなた達って全員最低。もう二度と顔も見たくない」


 自分史上最高に冷たく言い放ち、唖然としている彼を残してハナコは踵を返す。

 本当は周囲の奴らにも、もっと罵ってやりたいことはあったが、怒りと悔しさでもう涙腺が限界だった。だがあんな下劣な奴らに意地でも泣き顔は見せたくなかったので、彼らが見えなくなる位置まで悠然と歩いてくると、そこから先は猛ダッシュで家に帰って泣いた。


 その後は卒業するまで徹底的に彼らを避けて過ごした。

 逃げるようで癪だったが、会いたくないものは会いたくないのだから仕方ない。スマホには彼から何度も電話やメッセージがきていたが、弁明や謝罪を聞いたって虚しくなるだけなので早々に番号を変更した。

 彼とは学年が違うことや、話を聞いたハナコの友人達の協力もあって、宣言通り二度と会わずに済んだのは幸いと言っていい。


 ただ心が深く傷つけられたことは確かで、あれからずっとハナコはなるべく異性とは関わらないように生きてきた。

 社会人になってから社内の人に何度か誘われたことはあったが、そんな過去のトラウマから、ハナコはどうしても好意を示してくる男性を警戒してしまい断ることしかできなかった。


 

 黒川からはまだデートに誘われただけなので、付き合うなんて思い上がりも甚だしいかもしれないが、あんな惨めな思いは二度としたくない。

 でもこれまで黒川の人柄を見てきたからこそ、今度こそ信じたいと思う自分がいるのも打ち消せなくて、ハナコは戸惑う。

 それに大学の時にいきなり告白してきた彼と違って、黒川のことは徐々に親しくなっていくうちに彼の人柄を好きになったため、今は完全なるハナコの片思いなのだ。

 黒川の笑顔が思い浮かんでジワジワと胸が熱くなる。


「デート行きたい……」


 思わず零れた本音に、ハナコは自分で吃驚する。

 でも同時にそれが自分の本音なのだと実感した。


「彼と黒川さんは違う……よね? 今度こそ大丈夫だよね……」


 願望を言い聞かせるように呟いてハナコは自分を納得させるように頷くと、黒川へ了承の返事を送った。



 デートは老若男女が訪れることで有名なテーマパークだった。

 てっきり自分が知らない大人な場所に連れて行かれるのかと思ったハナコは、黒川が自分に合わせて無理しているのではと心配になり、横顔をチラ見する。

 アトラクションを待つ間や移動中も何度か確認したが、黒川は終始笑顔で楽しそうにしていたのでホッとした。


 やがて夜になり華やかなパレードを遠目に見ながらベンチへ腰を下ろすと、少し肌寒くなり身体を縮こませる。

 すると、ふわっと後ろから暖かい上着が掛けられた。

 それが黒川の上着だと気づいたハナコが慌てて脱ごうとするのを、ぎゅっと上から抑えられる。


「ごめん、寒そうだったから。嫌じゃなければ着てほしい」


 いつもと違いどこか不安そうな黒川に、ハナコは首を傾げた。


「嫌じゃないですけど、これでは黒川さんが寒いのでは?」

「いや、俺は平気だから」


 そう言った黒川だったが、何故か両手はハナコの肩へ置かれたままである。

 必然的に向き合う形となってしまい、ドキドキするハナコが視線を逸らそうとした時、黒川が真剣な眼差しで口を開いた。


「あのさ……嫌じゃなければ俺と付き合ってほしい」


 突然のことにハナコは呆然と黒川を見つめる。

 見つめ合ったまま数秒、漸く黒川の告白を理解したハナコの頬が真っ赤に染まった。


 本音を言えば飛び上がるほど嬉しい。

 でも大学の時のトラウマが引っかかって即答することができない。


 そんなハナコに黒川は困ったように微笑むと、返事は後日でいいと言ってくれて、肩に置いていた両手を離した。

 そのままパレードが近くで見れる位置まで移動する。

 掛けられた上着は暖かかったが、離れてしまった手は遠く感じて、家に帰ったハナコは、すぐに返事をしなかったことを後悔した。


 スマホでとも思ったが直接言いたい。

 少しでも会いたくて仕方がない。

 その位、黒川のことが好きになっていたことに気づいて、ハナコは再びの恋に浮足立つ。

 過去の失敗に懲りていたはずなのに、微かな不安はピンク色に染まった脳内の隅に追いやってしまっていた。


 だが、すぐに告白の返事をしようと思っていたハナコだったが、それから暫く仕事が立て込み、その機会を失ってしまう。

 なんとか仕事が終わった締切日、残業ですっかり遅くなってしまったハナコは溜息を吐きながら電車に揺られていた。


 金曜日の終電間近の電車は満員に近い。

 黒川は今日は部署の飲み会があると言っていたから、告白の返事はまた出来ない。

 ジリジリする気持ちを抑えつつ、今日は吊り革を死守できたことに安堵しながら、ハナコが電車に揺られていると、少し離れた所から少し大きめな話し声が聞こえた。


「高嶺のハナコ様でも黒川さんには落ちたか~」


 ギクリと身体を強張らせ、声をした方を伺うと、お酒が入って少し声高になっているのか数名のサラリーマンが談笑している姿が見える。

 ハナコはその顔に見覚えがあった。

 声の主は黒川と同じ経営企画室に在籍するハナコと同期の男だ。

 しかし新入社員研修以降、彼との接点はない。


 だが、彼と同世代でハナコと言う名は珍しいので、自分の話をしているのだと悟ったハナコは、自分の存在を知られないように顔を背けた。

 けれど、耳は彼らの声を無意識に拾ってしまう。


「え? 何の話?」

「ほら、誰が誘っても落ちないで有名な経理部のハナコ様ですよ」


 就職してから何度か飲みに誘われたり告白されたりしたこともあったが、元彼のせいで男性全てが自分を騙そうとしているのではないかとさえ疑ってしまい、結局全て断ってしまっていた。

 そもそも恋愛経験値も低すぎるハナコにとって、ナンパ紛いのお誘いや、話したこともない人からの告白など、受け入れられるはずもないのである。

 しかし、そんなハナコの事情を知る由もなく、社内でつけられた不本意な渾名がまたしても「高嶺のハナコ様」だった。


「ああ、あの綺麗だけどどこか壁がある子な」

「そう! それです! 全く誰も相手にされないから実験してみたんですよ。うちのエースでイケメンの黒川さんで口説いたら落ちるかどうかって」

「何が実験だ、勝手に人をモルモットにするな」


 ハナコの同期と数人の男性の声に交じり聞こえてきた声に、ハナコの心臓がドクンッと嫌な音を立てる。


「黒川さんをモルモットだなんて思ってないですよ~。実験してる側なんですから、むしろ教授? 博士?」

「それな! 教授とか博士とかってモテるもんな~、黒川って女とっかえひっかえしてて羨ましい~」

「昔の話を蒸し返すな。それに俺は別に頼んだわけじゃない。向こうが勝手に言い寄ってくるだけだ」

「うわ~、嫌な男。お前いつか刺されんぞ?」

「そんなヘマはしない」

「しかし高嶺のハナコ様も見事に落ちましたね~。あの子があんな可憐に笑ってるとこ初めて見ましたよ」

「あ~なるほど、最近物腰が柔らかくなったと思ったら黒川と付き合ってたのか」

「まだ付き合ってない」

「おっ! やっぱり高嶺のハナコ様は黒川でも難攻不落か?」

「いや、もう落ちる。お前ら邪魔するなよ?」

「あ~、俺、落ちないに賭けといたのに~! 絶対百合だと思ってたのに~」

「俺は勝たせてもらいました! 黒川さん、あざっす!」


 不機嫌そうな黒川の言葉と、それに軽口を叩く同僚達の言葉が、ハナコの心を抉る。

 実験や賭け、またしても弄ばれた事実に身体が震えるが、大学生の時のように彼らに割って入ることはできなかった。


 あの時とは好きの度合いが違う。

 初めて本気で好きになったのに……。


 ハナコの中でグルグルと悲しみと悔しさ、そして後悔が渦を巻く。

 一言でも口を開いたらすぐに涙が溢れてしまいそうで、その集団から逃げるように電車を降りた。

 その後はどうやって家に辿りついたのかわからない。


「私、バカだ……! 今度こそはって根拠もないのに信じて、また同じ目にあうなんて」


 気が付いたら自宅のベッドで突っ伏していたハナコは、泣きながら枕へ顔を埋めた。

 泣いて泣いて、一生分の涙を流したんじゃないかと思えるほど泣き濡れて、そのまま眠りについた。

 化粧を落とさないまま擦り付けた枕は翌日酷い有様になっており、ハナコは苦笑する。

 休日で良かったと安堵しながら、黒川への想いも流すように、綺麗に洗濯をした枕カバーを干しているとスマホが鳴った。


 着信相手は黒川だったが、ハナコは見ないふりを決め込む。


「もう関わらない。忘れる。うん、それが一番」


 自分に言い聞かせるように呟いて、スマホを放置する。

 その後何度か着信やメッセージがきたようだが全て無視して、ハナコは黒川に出会う前の休日のように一人で穏やかに過ごしたのだった。


 

 そして月曜。

 ハナコはいつもより早く家をでた。

 最近、朝の電車は黒川と一緒に乗るようになっていたが、時間も車両も違うものにして徹底的に避けた。

 朝と昼頃、黒川から心配するメッセージがきたが、気が付かないふりをした。

 もう二度と誰かに弄ばれるのはごめんだった。


 

 締日が過ぎて先週の激務が嘘のように落ち着いた仕事に、定時で上がったハナコは今日一日黒川と出会わなかったことに安堵しながら、帰宅の途についていた。

 黒川にしてみれば実験だったのだから、別にハナコと連絡が取れなくなっても支障はないだろう。

 それなのに、昼休憩を過ぎた頃から頻繁になるメッセージに、少しだけうんざりしていた。


 溜息を吐きながら駅に向かうハナコだったが、正面からやってきた人物が道を塞ぐように立っていることに気づいて進路を変える。

 しかしハナコが進路を変えると相手も同じ方向に動き、怪訝な表情で顔をあげたハナコは目の前に立つ人物に眉を顰めた。


「ハナコ? ハナコだよな? やっと見つけた……!」


 いきなり現れた元彼が、親し気に自分の名前を呼ぶのを、ハナコは怪訝な表情のまま見つめる。


「何でここに? もう二度と顔も見たくないって言ったはずだけど?」

「……やっぱ、まだあの時のこと怒ってるよな……」


 当たり前だろうと思うが、何故か彼の方が傷ついたような表情になると、深く頭を下げた。


「今更謝っても遅いけど、ごめん」

「もう済んだことなので。往来の邪魔になるので帰ってください」


 本当に今更である。

 大体こんな所で謝られたって迷惑でしかない。

 通行人の視線が気になり、ハナコは早々に切り上げようとするが、彼は縋るようにハナコの腕を掴んできた。


「ずっと謝りたかった。でも全然連絡取れなくて、ハナコの友人達にも邪魔されて就職先も教えてもらえなかったから、探すのに時間がかかってしまった」


 何を言ってるのかわからない。

 ハナコは本当にそう思った。

 しかしハナコの戸惑いなどお構いなしに、元彼は興奮気味に言い募る。


「今度こそ、ちゃんと告白して付き合いたいんだ!」

「は?」

「ずっと好きだった。きっかけは罰ゲームだったけど、告白するいいチャンスだと思ったから便乗した。いつかはちゃんと言おうと思ってたのに、軽蔑されたらって思うと怖くて言い出せなくて、結果、最悪な形で知られてしまった。最低だって言われて、どうしたらいいのかわからなくなったけど、ハナコと会えなくなって心底後悔した」

「はぁ……」

「本当に悪かったと思ってる。だからもう一度やり直そう」

「え? 嫌だけど?」


 何を一人で盛り上がっているのかは知らないが、ハナコは彼のことをもう微塵も好きではない。

 だからそう突っぱねたのだが、彼は心底驚いたというような顔をすると、掴んでいたハナコの腕を強引に引き寄せた。


「な、何で? あんなことがなければ俺たちうまくいってたじゃないか! ハナコを悪く言っていた友人達とは縁を切ったよ。俺たちを邪魔する奴はもういないんだ。だから心配しないで」


 トラウマになるほどには傷ついたが、彼はハナコの中ではもう終わった人である。

 それに何を一人で盛り上がっているのか知らないが、周囲の迷惑も考えずにこんな場所で告白してくる態度にイライラが募る。何より掴まれた腕の力が強すぎて怖かった。


「今更迷惑だから離して!」

「離さない! やっと見つけたのに、また逃げられたら困る!」

「や、誰か……!」


 視線を彷徨わせるが、すれ違う通行人は痴話喧嘩だと思っているのか、面倒ごとに足を突っ込みたくないのか、見て見ぬふりで通りすぎてゆく。

 そうこうする間にもハナコの腕を掴む彼の力は益々強くなり、痛みと恐怖で顔を歪めた時、背後から冷ややかな声とともに、掴まれていた腕の拘束が解かれた。


「そいつ誰?」

「く、黒川さん」


 元彼の手首を捩じり上げハナコを解放した黒川は、冷たい眼差しのままハナコと元彼の間に割って入ると、氷点下の声音を響かせる。


「彼女、俺のだから。勝手に触れないでくれる?」


 顔は微笑を湛えているが、圧倒的な威圧感でこの場を制する黒川に、対峙した元彼はタジタジになりながらも反論した。


「俺のって、何だよ? ハナコは俺のだ!」

「そうなの? コイツのこと好きなの?」

「大嫌いです」


 ハナコの方を振り向いた黒川に、間髪を容れずに答える。

 そんなハナコに元彼が驚いたように目を瞠った。


「う、嘘だ!」

「嘘じゃない。大嫌い」


 あんなに酷いことをされたのに、まだ好きでいるとか有り得ない。

 こんなにバカだったのかと落胆し、こんなバカにトラウマになるほど傷つけられた自分にも嫌気がさして、再度はっきり告げると、隣にいた黒川が鼻で笑った。


「大嫌いだってさ。そういうわけだから、さっさと消えてくれる?」


 イケメンの凄むような冷たい口調に、まだ何か言いたげだった元彼が後退る。


「俺が優しく言ってるうちに退散した方がいいよ? 彼女に危害を加える奴は、脅しじゃなしに容赦しないから」


 掴んでいた手首を乱暴に離し絶対零度の眼差しを向けた黒川に、元彼が手首を摩りながら声にならない悲鳴をあげて、足早に立ち去ってゆく。


「あぁ、次はないからね。自分の命がかかってるんだから、その足りない頭でも覚えておいて?」


 逃げるように駆け出した元彼にダメ押しのように留めの科白を吐いた黒川は、まだ呆然とするハナコの手を引くと無言で歩き出した。

 助けてくれたお礼を言うべきなのだろうが、弄ばれた事実を思い出し、ハナコは言葉が出ない。

 二人して無言のまま電車に乗り、いつも黒川が乗ってくる駅で降りると、高級そうなマンションの一室へ連れ込まれた。

 ハナコもマンションの前まで来た際に流石に拒否したが、手を引く黒川の力が強く抵抗できなかったのだ。


 オートロックのエントランスを抜け、エレベーターで高層階まで上がる。

 途中何度か逃げ出そうとしたハナコの手を黒川は決して離さず、無言のまま部屋の扉を開けると、そのまま中へ押し込んだ。


「何で違う男に触らせてんの?」

「あれは……」

「ねぇ、何で朝、電車にいなかったの? 何で電話に出てくれないの? 何でいきなり距離をとったの? 何で他の男と一緒にいるの? 俺、好きだって言ったよね? その返事まだもらってないのに不誠実じゃないの?」


 玄関へ入り扉を閉めるなり靴も脱がずに問い質してくる黒川に、ハナコは面食らったが、やがて身勝手な言い分に怒りが湧いてくる。


「……どっちが不誠実よ! ……男の人なんてみんな一緒、みんな最低!」


 実験と称して自分が落ちるか賭けていたくせに。

 元彼から助けてくれたのは感謝しているが、弄ばれていた事実がハナコの胸を深く抉る。


 それでも、まだ黒川を好きな気持ちは無くならなくて。

 本当は暴れて泣き叫べば、きっと振り切れたはずなのに、こんな所まで付いてきてしまったのもハナコの弱い意志のせいで。

 なんでこんな最低な人ばかり好きになってしまうの! と自分を責めても、恋心も怒りも消えてくれずに途方に暮れる。


「……なんで……なんで、こんな、もうわかんない……もう、やだ……」


 感情がうまく制御できずに泣き出してしまったハナコだったが、その涙を見て動揺したのは黒川の方であった。


「え? あ……ご、ごめん。あんな男に言い寄られて怖かったよな? ハナコと連絡取れなくて、心配してた所であんな場面に出くわしたから焦っちゃって」


 眉尻を下げ謝罪する黒川は、相変わらず優しい。

 けれどハナコは大きく深呼吸して冷静さを取り戻すと、冷たい視線で黒川を見据えた。


「焦った? それは私を落とすことが出来ないと思ったからですか?」

「え?」

「もう少しで実験が成功するところでしたもんね。高嶺のハナコ様が無様に落ちる様を見るのは楽しかったですか?」

「な、何で……」


 目に見えて狼狽える黒川に、ハナコの心が凍り付く。

 やっぱりと納得する気持ちと、また裏切られた落胆、それらが突き刺さる胸の痛みで心が悲鳴をあげる。

 それでもなけなしのプライドで平静さを装い、淡々と言い放つ。


「何で知ってるのかって? いくらお酒が入っているからって声量には注意した方がいいですよ? たまたま同じ電車に乗り合わせたので全部聞こえてしまいましたから。間が悪くて、残念でしたね」

「違う、あれは……!」

「何も違わないです。私はまんまと貴方に落とされて黒川さん達の実験は無事に成功。実験が終了したのだから私は不要でしょう。良かったですね、別れを切り出す手間が省けて。あぁ、まだ付き合っていませんでしたね。じゃあ、さようなら」


 言いたいことを言い切って、ハナコは扉に手をかけた。

 その手を黒川が慌てたように上から押さえつけ、扉とハナコの間に割って入る。


「違う! 誤解だ!」

「離してください」

「嫌だ! 今離したらハナコは二度と俺の手に入らない!」


 普段のスマートな物言いとは違い、余裕がなさそうな黒川が必死の形相で言い募るが、ハナコは呆れたように睨みつけた。


「そんなに実験が成功したとマウントをとりたいんですか? バカみたい」

「だから、そうじゃない!」

「とにかく離してください! もう私に構わないで! 二度と話しかけてこないでください!」


 冷たく言い放てば、黒川がヒュッと息を吸い込む音がする。

 そのまま無表情になった黒川の瞳に光がなくなった。


「今から誤解を解くから。ちょっとだけ付き合って」


 抑揚はないが有無を言わさぬ声音の黒川が、玄関のドアの前に立ったままスマホを取り出す。

 ハナコが不審そうに見守る中、5回コールの後に出た相手に対し、一方的に話し始めた。


「俺、黒川。高嶺のハナコ様を落とせるかって実験だけど、あれ失敗した。俺の方が彼女に落ちた。ってゆーか、そもそも、あの実験ってお前らが勝手に言い出したことで、俺は元々本気でハナコ狙いだったから。俺さ、ハナコが乗る通勤電車とか調べるの苦労したし、さりげなく周囲を牽制したりとか結構頑張っててさぁ、漸く手に入りそうになったところだったわけ。それなのにお前らが余計なこと言うから、台無しじゃねぇか! 好きな女に誤解されて二度と話しかけるな、なんて言われて俺はかつてないほど怒り狂ってるから、今後一切お前らと関わることはねぇし、ましてや仕事のフォローなんか絶対してやらねぇからな!」


 黒川は言うだけ言うと、相手が何か話している最中にさっさと通話を切り、唖然とするハナコに向かって首を傾げる。


「信じた? まだダメ? じゃ、次の奴……」


 呆気に取られるハナコを置き去りに、黒川は次々と電話を架けてゆき、最初に電話をした人と同じような事を言い放つと、電話の向こうで慌てる相手はお構いなしに通話を終了する、を繰り返す。

 結局それはあの電車にいた同僚の人達全てにしたようで、最後の一人との通話を終えると不安げにハナコの顔を覗き込んだ。


「俺が本気で好きだって信じてくれた?」

「はあ」


 何が何やらわからずハナコが気のない返事をすれば、押さえこんでいた手を両手で握りしめ悲痛な顔で訴えた。


「これから信頼を勝ち取れるよう努力するから、俺から離れていかないで」


 こんなに余裕がない黒川を見るのは初めてで、先程の電話の内容といい、必死な様子といい、自分を見つめる黒川の言葉に嘘はないように思える。

 だから今度こそ信じてみてもいいのかもしれない。


 我ながらチョロいとは思うが、彼を疑う気持ちより、信じる気持ちを持ちたいと考えている自分がいて、ハナコは心の中でため息を吐いた。

 結局、ハナコは黒川のことが好きなのだ。


 だからこそ弄ばれたと知った時は本当に辛かったし、泣きに泣いた。

 彼を避けたのだって、声を聞けば、顔を見れば、きっと揺らいでしまうから、そうせざるを得なかっただけ。

 そのくらい黒川のことが好きになっていた。


 そんな黒川が、自分のことでいっぱいいっぱいになっているのは吃驚しつつも正直嬉しい。

 けれどすぐに頷くのも面白くない気がして、ハナコは少し意地悪を言いたくなった。


「離れていかないだけでいいんですか?」


 拗ねたように訊ねれば、黒川がぐっと言葉を詰まらせながらも握っていた両手に力を込める。


「ハナコが俺のことを許せないなら仕方ない。でもいつかは落としてみせるから話しかけることだけは許してほしい」


 懇願するように自分を見つめる黒川の瞳を見つめ返して、ハナコはふわりと微笑んだ。


「もう落ちてます」

「え?」

「私、自分を弄んだのが黒川さんだったから悲しかったんです。何とも思っていない人にならあんなに怒ったりしません」


 一瞬目を見開いた黒川がハナコをぎゅっと抱きしめる。


「もう逃がしてあげないよ?」


 ストーカーみたいな黒川の言葉だったが、それさえも好きな人からならば嬉しくてハナコが苦笑する。


「逃がす気あります?」

「絶対ないな」


 断言した黒川の顔が近づいてきて、ハナコが目を閉じる。

 唇に触れそうになったその時、黒川のスマホが鳴り響いた。

 その音にパチリと瞼を開けたハナコの目の前には、黒川がこれ以上ないほどの渋面を作っている。


「電話、鳴ってますよ?」


 ハナコが言えば、益々眉間の皺を寄せ深々と溜息を吐いた。


「ハナコとの時間を邪魔されたくない」

「でも急ぎの仕事かもしれないし」


 心配そうにハナコに言われた黒川は渋々といった体で電話に出たが、やがてうんざりするような顔つきになり、相手が何かを話している最中に通話を終了してしまう。

 電話は先程、一方的に断絶宣言をした同僚からの謝罪だったらしく、そうとは知らずキョトンとするハナコの頭を撫でると、首筋へ手を差し込み再び顔を近づける。

 が、その後も平謝りの電話は続き、結局仕方なしに黒川が許すと言うまでひっきりなしに着信音は鳴り続け、キスは次のデートまでお預けとなったのだった。


 さて、その後ハナコだが、経営企画室の錚々たる面々から土下座に近い謝罪を受け、目を白黒させたのは言うまでもない。

 社内で会うたびに最敬礼をしてゆく彼らに「もう止めさせて!」と泣きついたハナコを抱きしめて、黒川は満足そうに笑ったのだった。


久しぶりの現実世界ジャンルですが、ご高覧くださりありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
なんだこのヒーロー、全然応援したくならない…と思って感想欄見に来たらバッシングの嵐でニッコリ。 不誠実さとか同性内の内輪ノリとか、ある意味人間臭くてそういうヒーローがいてもいいと思うのですが、ヒロイン…
[気になる点] 黒川氏、「誤解されたのお前らのせいだから!余計な事しやがってもうお前らのフォローしねえから!(意訳)」ってハナコさんに聞かせるように電話しまくってたけど、そもそもその軽率かつゲスな会話…
[一言] 元カレと黒川は同類じゃない?周りが話してた時に否定しないことは肯定と同意。バレたときにいまさら…頑張って否定しても… 男運がないんだなぁとしか…
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