恋愛感情
「桐原先生、これどこに置けば良いですか?」
「おや、葵さんですか。机の上にでも置いていただければ幸いです」
振り向いた桐原教論は、整えられた眉根を微かに曲げる。そして、白磁色の手首を覗かせ指差した。葵が指示された場所に行こうと足を動かす矢先。上履きが踏んだ床から滑り、前傾姿勢となってしまう。
重力に見放された身体。葵は、咄嗟に目を瞑ることもできず、ただ息を呑む。床の板模様が視界に入る。顔面が前方に倒れ、段ボールを掴んでいた指先から力が抜けた。
地面に打ち付ける寸前。落下方向とは反対に押し戻す力が、肩元と段ボールに加わった。
駆け寄った桐原教論の荒い息遣いが、葵の鼻筋を掠める。生暖かい感触。
「危ないですね。怪我は有りませんか?」
「は、はいっ。桐原先生のおかげで……すみません、ありがとうございます」
段ボールを握る手元に、桐原教論の分厚い手のひらが重なる。覆われた指。頼り甲斐のある太さと暖かさ。それでいて、葵よりも数倍の力。
不意に、桐原教論の顔に瞳を向けてしまう。キリッと細く凛々しい黒目。
全身の毛穴が鳥肌状に立ち上がるのを認識。すっと息を呑み、目尻が上下に動く。無重力に浮かされたかのような感情が、胸内に湧き立つ。同時に、珈琲の苦味を含んだ香りが胸部に走った。
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あれから一日が経った。放課後の廊下には、二人分の足音が鳴り響く。昨日とはまるでら対照的。葵と肩を並べる舞奈の髪の毛先が、すらりと歩く度に掠める。
「あのね、舞奈。一つ聞いても良い?」
「嫌だって言うはずないでしょ。どうしたの?」
「恋愛感情ってどんな感じなの? 好きってどういう気持ちなのかな」
小綺麗な桐原教論の顔が、脳裏に張り付いて離れない。忘れようと意識的に考えたとしても、無意識に思い浮かべている。
夕食を摂ろうとも入浴を済ませようとも、呪縛のように解けない。これは病気なのだろうか。
「また急な質問ね。葵、なにかあったの?」
「ううん、別に。恋愛ってなんだろうって」
舞奈が不自然げな視線を向けた。だが、葵は受け流して瞳を見つめ返す。真剣気に帯びた葵に驚いたのか、舞奈は咳払いを吐く。
「ふとした瞬間、その人のことを思い浮かべてしまうの。一緒にあんなことしたいな、とか」
葵は、上唇に舌を滑らせると軽く噛む。
「で、でも! 恋愛感情って認識できるものなの? 普通の好きとは違う?」
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