第17話 山羊ブルーセ
私は頬を撫でるザラザラとした感覚に目を開けた。
目の前にぼんやりと浮かぶのは白い顔と、その顔に並ぶ二つの奇妙な目だった。
その目、縦に並んだ二つの楕円の中央には黒い直線が走る。
私はその目を見て、祖父の家にあった宝貝のコレクションを思い出していた。
あの頃はおじいちゃんがいて、おばあちゃんがいて、私はガラスケースに並べられた色とりどりの宝貝をずっと眺めていた。
ナオミ、南の島のひとはこれをお金代わりに使うんだぞ。
おじいちゃんはうんちくを語るときになんだか得意げだ。
おばあちゃんは低気圧が来ているので具合がわるい。
そんな光景を思い出していると、白い顔の下方についた口が開いた。
「めをさましたか」
桃色の口からはなんだか甘い匂いがした。
白い輪郭に黄色いアンモナイトみたいな物がくっついている。
それが見事な角だと気づいたとき、私の声は自然に出ていた。
「あ、山羊」
「おれはおおきいブッケンのブルーセだ」
山羊も喋るのか、と思ったには思ったが、驚きには届かない。
なにせこの世界は馬が喋るわけだし。
「やつをたおすのはこのブルーセだ。おまえたちはひっこんでいろ。こんどはケガではすまんぞ」
ブルーセと名乗る山羊はそれだけ言うと背を向けてカッポカッポと歩いていった。
私は起きあがろうとして脚や腕の痛みに気がついた。
どうやら岩か何かで切ってしまったらしい。
しかし、その傷口には何かニチャニチャした緑色の何かが塗りつけてあった。
ニチャニチャの匂いを嗅ぐとさっきのヤギの口からしたのと同じ甘い香りがする。
あの山羊が手当てしてくれたのだろうか、噛んだ薬草か何かで。
私はゆっくりと立ち上がり、痛みに歯を食いしばりながら、山羊の後を追った。
◇
私は遥か上に見える吊り橋をちらちらと見ながら、岩肌に残る山羊の足跡を追っていく。
山羊がものすごい絶壁をよじのぼる動画とかをぼけっと観るというマイブームに浸っていたことが一時期あったが、追体験したいと思ったことは一度もない。
岩肌を登り切って最初に私とユスフが橋を渡ってきた地点に近いところまで戻ってきた。
十数頭の山羊がブルーセと名乗った山羊を囲んでいる。
よれよれの年老いた山羊がブルーセに言う。
「われわれのいちぞくはせだいをへるたびにちいさくバカになりつつある。やっとうまれたせんしのおまえにもしものことがあってはこまる」
ブルーセは角を震わせる。
「たたかわずしてなにがせんしか!たにをわたれねば、くさばもやがてなくなる。いちぞくはますますへる。トロールをやっつけてはしをわたるのだ」
「このやまをすてて、あらたなくさばをさがすというみちもある」
「あしなえやこどもをつれてか。なにより、あとからきたのはトロールなのに、われわれがでていくなどみとめられん。ブッケンのほこりはどこへいった。われわれの二ほんのやりはなんのためにある。ふたつのおおきないしは。トロールをうたねば、いままでくわれたなかまのたましいはどこへいくんだ」
ブルーセは角を振り、大きな蹄で地面を蹴り付けた。
「おれはトロールにいどむ!かってもまけても、もうここにはもどらん」
長老らしき山羊は目をふせる。
年配の山羊達がブルーセをののしったり、ひきとめたりするが、ブルーセは角を振って威嚇しながら離れていく。
中ぐらいの山羊と小さい山羊の二匹が飛び出して、ブルーセの行手をふさぐ。この二匹は若い。
「あにうえ、ほんとうにゆかれるのですか」
「にいちゃん」
ブルーセは蹄をこつこつと鳴らす。
「おまえらにもせんしのちがながれている。きっと、おまえたちもおおきくつよくなれる。むらをたのんだぞ、おとうとたちよ」
ブルーセは二人の間をわって駆け出した。
◇
ブッケン族のブルーセは橋を渡っていく。
私は少し離れてその後をついていく。
向こう岸につこうかというときに、風の鳴るような音が聞こえた。
ブルーセは叫ぶ。
「おれだ!おおきいブッケンのブルーセだ!」
大きな茶色い手が伸びてくるが、ブルーセは角を振るってその手を弾き飛ばす。
風の唸るような恐ろしげな声とともに岩肌にへばりついた怪物が橋の上に飛び乗った。
それは5メートルはあろうかという巨体と長い腕をもつ怪生物だった。
でっぷりと脂肪に包まれた身体には短い毛が生え、カバやカピバラを連想させる長い顔のさきには嘴じみた口があり、だらしなく開いた口中には肉食獣の牙が並ぶ。
とろんとした目つきはナマケモノを思わせた。
これが、トロール。
それは北欧の某人気キャラクターを、悪意あるデザイナーが既存の動物をねじまげて再現したような、そんな不自然さを感じさせる生き物だった。
ブルーセは角を振るってトロールに飛びかかる。
トロールは角をつかんで押し返そうとするが、ブルーセの力が上回る。
ブルーセの角はトロールの首元に深々と突き刺さった。
ブルーセが角を引き抜くと、血が噴き出した。
トロールは橋の上から、首元を押さえながら、落下していった。
「え、山羊が一匹でやってしまった」
「ふん、うしろからこそこそとなんのつもりかしらんが、もうおわったぞ」
悠遊と橋を渡るブルーセについていくと、草場が広がっていた。
だが、その先にはいくつかの岩塊が並び、少し寒々しい印象だった。
その立ち並ぶ岩塊の先から今度は突風が吹き荒れるかのような音が聞こえた。
一面に広がる草場を踏み締めて、7、8メートルはあろうかという巨大なトロールが現れた。
ブルーセは言葉を交わすことなく一気に突撃していった。
トロールはブルーセの角をつかむと、がっぷり四つという形でお互いにゆずらない。
互角だ。
私はバスタードソードを抜くと、駆け抜け様に胴を放ち、トロールの横腹を斬りつけた。
トロールがうめいたその瞬間を見逃さず、ブルーセはトロールの腹を深々と抉った。
尻餅をついたトロールの頭を、蹄で容赦なく蹴りつける。
何度目かの攻撃で、ついにトロールは動かなくなった。
「まさか、二頭いたなんて」
「きさま、じゃまをするな。おれひとりでかてていた」
その時、今度は嵐のごとき鳴き声を上げて、十メートル越えの個体がおでましになった。
肌にうっすらと苔が生えているのか、全体が抹茶でもふったかのように緑っぽい。
私が反応するよりも先に、その緑の腕はブルーセをはたいた。
ゴリッという音と共にブルーセは吹っ飛ぶ。
苦痛の唸りをあげながらすぐにブルーセは立ち上がるが、その片方の角は根本近くから折れていた。
私はトロールに小手を放ったが、斬れない。
引いた剣に血がついていたので、わずかに傷を与えたかもしれないが、当のトロール自身はどんよりと濁った目をまたたきもしない。
ブルーセが蹄で蹴りつけるも、全くこたえていない。
トロールはまた腕で薙ぎ払う。
しかし、今度はブルーセもうまく受け身を取った。
「ブルーセ、あの目ならさすがに効くんじゃないかな」
見上げるような高さの位置に、濁った目が二つ。
「あのたかさではとどかん」
「乗せて」
「は?」
「あなたが私を乗せて、あそこまで跳んで」
私はブルーセにつかつかと歩み寄る。
ブルーセは少し迷ったように見えたが、首を下げてくれた。
私はブルーセの背に、跨るのではなく立った。
ブルーセはコツコツと蹄の音を立てると、一気に駆け出した。
トロールの爪のある手が振り下ろされるのを避けて、ブルーセは跳び上がる。
トロールの胸の高さまでブルーセは達する。
私はさらにそこからブルーセの背を左足で蹴って、剣道の踏み込みの要領で跳ぶ。
トロールの頭上を超えて、空中で剣を抜く。
目に狙いを定めて、突く。
刺さった!
上出来な角度だ。
私のバスタードソードは確実に目を通して、トロールの脳に達している。
その時、巨大な手が蚊でも潰すみたいに両側から私を挟んだ。
すごく嫌な音がして、私の身体の感覚がなくなった。
やられた。
なすすべもなく落下したが、脚から落ちたので首や頭は無事だ。
地上に落下した私の腕を咥えて、ブルーセが引きずっていく。
「やったと思ったのに」
「きっとにぶいのだろう」
不気味な樹嬾の腕が伸びて、ブルーセごと私をぶんなぐる。
また何本か骨がいってしまった。
ブルーセも脚が変な方向に曲がっている。
しかし、そのままトロールの腕は力を失い、巨大な土埃をあげてその場に倒れた。
「かったな」
投げ出されたブルーセは口から血の泡を吐きながら言った。
動ける状態にないのは明らかだ。
「たしかに、勝ったね」
でも、このまま、この美しい山で白骨になるのだろう。
うーん、負けて死ぬよりはバッドエンド感が薄いけど。
「神々の豊穣なる蜜よ、傷を清め、癒さん マドラ」
私の身体が光り、痛みが引いていく。
ユスフが私を見下ろしていた。
「ユスフ、無事だったのね」
「拙僧も一緒におちたが、短時間なら飛べるからな。なんとか不時着してよじのぼってきたのだが、まさかもう倒しているとは」
「飛べる???初耳なんだけど……あ、それよりあの山羊も回復してあげて」
「山羊を?」
私は傷ついたブルーセを見やった。
「友達なのよ」





