プロローグ 「未来を臨む」
後ろを振り返る。あの黒い怪物が、来た。
人間のような姿。でも、全身が真っ黒で、のっぺりとしたマネキンのようだった。
何かに操られているように、ぎくしゃくと四肢を動かして、リンがいる路地に入る。
怪物の顔は、からだと同じように起伏に乏しかった。目がない。鼻がない。耳がない。
しかし、口だけがあった。リンを見つけたうれしさなのか、にやりと口角が上がる。
「ひっ!」
もつれる脚を必死にほどき、前を向いて、再び走る。
(もっと早く! もっと遠くに!)
息を切らしながら、脚を前に出す。
怪物への恐怖とあわさって、うまく呼吸ができない。心臓の鼓動が激しくなる。
やがて交差点にさしかかった。どちらに行くか。ふと迷う。
そのとき、路地の石畳に足を取られた。前のめりになってこける。
擦り傷の熱感。打ち身の痛みが、からだの芯まで届く。
声をがまんして、その場でうずくまった。
たしっ、たしっ
足音が近づく。痛みや疲労を無視して、からだを持ち上げ、再び走り出す。
無心で走る。暗くて先が見えない。それでもかまわずに走る。怪物から逃げるために。
しかし、たどり着いたのは、行き止まりだった。
驚き、茫然として、目の前にそびえたつ壁を見上げる。
三方を、煉瓦の壁に囲まれていた。壁は空に届きそうなくらいに高い。
空は、真っ黒な雲に覆われている。昼間なのに、夜のように暗かった。
すぐ後ろで、怪物の足音がした。そっと振り返る。
闇を凝らすように、黒い怪物が近づいてくる。
うぞうぞ、ぎちぎち
腕や首がうごめく。聞いたことのないおぞましい異音。
怪物が、口だけの顔で、リンを見下ろした。
光沢のある黒い肌は、何も映していない液晶テレビのように、リンの顔を反射する。自分が思うよりも、恐怖におびえた表情だった。
足がすくみ、石畳の上にへたり込む。下から見上げると、怪物がさらに大きく見えた。
(もう、だめだ)
そう思った。何をやっても無駄。先がない。この怪物を倒せるわけがない。
きしむような音とともに、怪物の顔が近づく。
口に当たる部分が周囲の肌に比べて、黒が濃かった。あの口に食べられてしまうのだろうか。
目を閉じる。弛緩するからだ。思考停止するこころ。自分という存在を消し、今の状況をひたすらに受け容れようと努力する。
ぎぎゅぅううううう!
怪物の声だろうか。どこか、うれしさを表すような鳴き声。
(これで終わり……)
「待て!」
突然、清らかで凛々しい声が響く。
とっ、こつっ
高所から着地する靴音。
ふっと匂う柑橘系の香り。
閉じたまぶたをすかす、朝日のように、さわやかでまぶしい光。
目をそっと開けた。目の前に、背を向けた女性が立っていた。
おとぎ話の騎士のような赤い鎧。右手には長剣。そして、全身が朝焼け色に輝いている。
彼女が振り向き、リンに声をかけた。
「伏せていて」
黒い怪物と向きあい、長剣を構える。彼女が、さらに輝く。光る粒子が噴き出した。
彼女の腰まで届く、つやつやのプラチナブロンドの髪がふわっと左右に散らばる。
まるで、翼をひらいた天使。神々しくて、頼もしい存在。
(そうか。彼女は、世界の平和を守る『アイドル』だ)
黒い怪物が、ひるみ、ゆっくりと後ずさる。
彼女が、間合いを詰めようとした、そのとき。
怪物が動いた。逃げるのではなく、彼女に襲い掛かる。大きなからだを機敏に動かし、腕を鞭のようにて、振り下ろした!
彼女は、その攻撃を当然のように避ける。
流れるような動作で、優美な意匠がほどこされた長剣を振りかぶり、ひと息に振り下ろした。
しゅんっ、というかすかな音。気づいたときには、もう怪物が一刀両断されていた。
腕を振り下ろした姿勢のまま、真っ二つになっている。その断面から、ぐずぐずと黒いかたまりが崩れ、地面に落ちる前にさらさらと細かい粒子となって消滅した。
彼女が残心を解き、剣を鞘に納め、リンの方に振り返った。
整った顔立ち。広い肩幅としっかりした体幹。長い脚。重そうな騎士甲冑を着こなし、背筋をぴんと伸ばしている。とてもまじめそうなお姉さん。
「大丈夫?」短い言葉とともに、手を差し出される。
彼女の手をつかむ。悪夢から救い上げてくれるように、強い力で引っ張り上げられた。
自分の足で石畳の上に立つ。彼女に、服の乱れを整えてもらった。
お姉さんは、心配そうな瞳で、じっとリンの目を見つめた。
リンは、恥ずかしさを覚えながら、こくんとうなずく。
すると、彼女の顔がほころんだように笑顔になる。
「よかった」
お姉さんの優しい声。大きく頼もしい右手が、リンの頭をなでる。
彼女の笑顔と手の温かさが、こころに染み込む。お姉さんの左手をぎゅっとにぎりしめた。
「えぐっ、ふぇえ、うぁあああん!」
堰を切ったように嗚咽と涙があふれ出てくる。ようやく緊張と恐怖から解放された。
「リン! どこっ! どこにいるの! 答えてっ!」
遠くからリンを呼ぶ声がする。母親だった。彼女の手を離し、周囲を見回す。
「お母さんっ! わたし、ここだよ!」
お姉さんが立ち上がる。
「もう、大丈夫だね。わたし、次のところへ行かないと」
「あっ……」彼女が離れていくことが心細かった。でも、がまんしてうなずく。
彼女はにこりと笑ったあと、リンに向かって手を振った。さみしさをこらえ、手を振り返すと、彼女は、後ろを向いて走り出した。跳躍して屋根に飛び移り、どこかへ駆けていった。
お姉さんが視界から消えてしまったあと、入れ替わるように、母親がやってきた。
お姉さんに向けて振っていた手をぎゅっと握る。
(わたしも……アイドルになりたい!)