大盛りで有名な中華屋に入ったけどイメージと違った話
裏通りにあるさびれた中華屋に入った。
ここは立地が決していいとはいえないが、妙に繁盛している。
値段のわりに大盛りというのが人気の秘密らしい。
私はここに今日初めて入った。
メニューを眺めれば、掲載されている写真はさほど大盛りという感じでもない。
チャーハンの値段が六百円となっているのだけれど、都心で六百円ならば、まあこのぐらいだろうなという範囲から大きくはみ出るものではない。
実際に運ばれてきた料理を見て、私は『まあ、こんなものだよな』と思う準備をしていた。
ハードルを上げすぎないような気遣いというのか、自分で自分をがっかりさせないための防衛規制が自動的に働くようになっていて、過剰な期待をしているなと思うと、それをいさめるような心の働きがおのずから起きるように、自分を調整しているのだ。
ところがそんなものは必要なかった。
目の前に『どすん』と置かれた皿は、メニューの写真にもある、よくある、プラスチックの軽そうなものだ。だというのに積載量がおかしい。米の過積載、チャーシューの違法建築がそこにあった。
通常、食べ物に使う表現ではないのを重々承知で、私はこれを『なんてごみごみしたチャーハンだ』と感じてしまった。
具の量もさることながら、この米の量が本当にやけくそなのだ。芸術性なんてものを料理に求めたことはないが、このジェンガもさながらのバランス感覚で盛られたチャーハンには、積み込み芸というのか、なにが料理人にここまでのバランス感覚実験をさせるのか、その執念の出所が気になって仕方ないというレベルの、比喩ではなく山のようなメガ盛りであった。
どこにレンゲを突き立てていいのかぜんぜんわからない。
この山を目の前に固まってしまっていたのだが、呆然としているところに、第二、第三の『どすん』という音が聞こえた。
己の失態に気付く。
そう、メニューの写真を見て『これなら単品じゃなくてもいいな』と感じた私は、あろうことかチャーハンの他にも餃子を頼んでいたのである。
餃子なんてごまかしようがない。写真に十個の餃子が写っていれば、実際の餃子も十個ぐらいで一人前だと思うのが当たり前だろう。
ところが餃子は二十個あった。
「すいません、注文を取り違えていませんか? 私が頼んだのは一人前なのですが」
思わず確認したところ、新人っぽい、大学生ぐらいの青年は、いったん厨房に戻ったあと、接客用のスマイルを浮かべて私に述べた。「間違えてませんよ。一人前です」
ジーザス。
間違えていたのは写真だった。
誰も悪くない。メニューに比べて餃子の数が減っていて文句を言われるなら仕方なかろう。サイズがあまりに小ぶりで不満に思うなら、それも店が悪かろう。
しかし写真の倍というのは……私はメニューの不備を訴えたかったけれど、『メニューに比べて餃子が多い』という文句を声高に訴える自分をうまく想像できず、拳の振り上げどころを失ってしまっていた。
そしてラーメンどんぶりが置かれていることに気付いた私は、さすがにラーメンまでは頼んでいない、と言いかけて、ある可能性に気づいて押し黙って、考え込んだ。
まさかな。
いや、まさかな。
そう思いながらどんぶりをのぞきこんだ私は、そのどんぶりの中に、汁とネギしか入っていないことに気付く。
……まさか、まさかと思ったけれど。
これはなんていうか……
チャーハンについてくる、ただのスープだ。
私はこの店の店主について思いを馳せずにはいられなかった。
きっと巨人なのだろう。餃子二十も十も誤差だと感じるような巨人。スープ碗がなくって面倒くさいからどんぶりで出しちゃえ、というようなおおざっぱさを持った巨人。
来る店を間違えたのかもしれない。
私は人間レベルの大盛りを欲していた。巨人サイズは求めていなかった。
軽い絶望感と、食べる前に胸がむかつくという興味深い体験をしつつ、実食に入る。
量は多いものの、思ったよりあっさりした味わいで、そうつらくなく完食できたことをいちおう記しておく。
しかしそれは意地の産物でもあった。
出された食べものを残してはならないという強い信仰、祖父母の代から我が家の家訓として根付いた教育により、私はどうにか意思力のすべてを振り絞って、あの『巨人の普通盛り』を食べ切ることができたのである。
ずいぶんと長かったような、しかし実際は短かった戦いを終えて、私は重い腹を抱えながら店を出た。
本音をいえばもう少し店でゆっくりしていきたかったのだけれど、ランチタイムに入ってしまい、客が増えたので、離席を余儀なくされたのだ。
電柱に背中をあずけて休みながら、遠くの大通りを見遣る。
別段街に用事はなかったが、私はある建物を探していた。
コンビニ、あるいは薬局。
ぱんぱんになるまで料理を食べた私は、今、胃腸薬を欲していたのだった……