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10月24日のモンブラン  作者: 遥可華絵
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心の器

『ゆったん元気?』


再びまゆから連絡がきたのは別れて一年半が過ぎた27歳の冬だった。

登録のないアドレスからだったが、“ゆったん”という独特の呼び方と“PRINCESSROSE”という薔薇の名の入ったメールアドレスから疑いようがなかった。


『まあまあかな。まゆは元気?』


『まあまあかな。今、東京に住んでるの』


『会えるかな?』


『いいよ』


仮病けびょうを使い会社を休んで会いに行った。

からっと晴れた空に真冬の寒さ凍える池袋、久しぶりに会ったまゆは明らかにやつれた印象で、表情も硬くとろんとした活力のない目で俺を見つめた。


「久しぶり。元気・・・ですか?」

少し他人行儀に挨拶をした。


「フフッ」


まゆは小さな声で笑った気がしたが、表情はピクリとも変わらなかった。しかし次の瞬間まゆの目に涙が溢れるのを見つけると、我慢できずに強く抱きしめた。コートを着ていて見た目では分かりづらかったが、元々小柄で胸の中にすっぽり収まる華奢きゃしゃな体はスレンダーを通り越してガリガリに痩せており、抱きしめると折れてしまうのではないかと思うほど細かった。


「今、何してるの?」


「働いてる」


聞けばデパートの化粧品売り場で働いているということだった。


「ちょっと痩せたんじゃない」


「いろいろあったからね。ゆったんは少し太ったかな」


ランチを食べようと近くのカフェに入ったが、まゆは頼んだものにほとんど手をつけなかった。


「どうしてた?」


「いろいろあってね」


おしゃべり好きだったはずのまゆは短い言葉で素っ気なく返事をし、沈黙が続いて間が持たなかった。


「俺、バンド、辞めたんだ」


「そっか」


わがままで厚かましいところもなくなり、心ここにあらずといった感じで話に合わせて冷たく返事をする。


「それで、これからどうする?」


「ゆったん、どうしたい?」


返す言葉に詰まった。

これまでまゆが質問に質問で返してくることはほとんどなく、正直これからどうしたいか分らなかった俺は、それをまゆにゆだねたかったのだ。

まゆを好きな気持ちはもちろん変わっていなかった。まゆから連絡を受けここへ来るまでは戻れるものなら以前の様な恋人関係に戻りたいという思いもあった。しかしまゆの様子を見て、それがお互いにとって正解なのか分らなくなっていた。いや、単純に以前の様にやっていく自信がなく、踏み出す勇気が持てなかったのかもしれない。


「とりあえず・・・」


「とりあえず?」


「とりあえず、少しずつ・・・今度、また、ご飯、行かない?」


「フフッ」


言葉を選びながら支離滅裂気味に話す俺に、まゆはまた表情を変えずに声だけで笑った。

結局、お互いに牽制けんせいし合うようなたどたどしい会話は何も決まらないまま時間だけが過ぎ「そろそろ行くね」とまゆの方から切り出された。


「じゃあ、また」


「うん」


まゆは短く答えた。


先に連絡したのは意外にもまゆの方からだった。

再会した翌日に『昨日はありがとう』とメールが来て、その三日後に『どうしてる?』と短く尋ねられた。そしてそれから一日一回のメッセージが届くようになった。まゆの様子に異変を感じた俺は心配になり、もう一度会うことにした。待ち合わせの場所にまゆの方が先に着いて待っているなんて初めてだった。そして俺を見つけると何も言わずに胸の中に飛び込んできた。


「まゆ、大丈夫か?」


「大丈夫じゃないかも」


いつもわがままを言って俺を振り回していたまゆはいなかった。


「ゆったん、私のこと、まだ好き?」


「好きだよ」


俺を掴むまゆの手に力が入り、嗚咽おえつが聞こえた。

声を上げて泣きじゃくるまゆを見たのもまた初めてだった。

その日は家につれて帰り、抱きしめたまま朝を迎えた。

それからまゆとは頻繁に会うようになり、直接的な言葉はなかったが自然と元の恋人の様な関係に戻っていた。しかしまゆの様子は明らかに以前とは異なり情緒不安定で、気付くと何もせずに一点を見つめ続けていたり、逆に驚くほどテンションが高い時もあった。 

さらに仕事中だけでなく深夜にもメールが届く様になり、そこには思いつめたような言葉が並んでいた。

慌てて電話をすると呂律ろれつが回らない様子で「なかなかうまくいかないね」「いつまで我慢しなきゃならないのかな」などネガティブな言葉ばかりが飛び出した。


ある日、心配で我慢できなくなった俺はやや強い口調で問い詰めた


「俺が支えるから、何かあるならすべて吐き出してくれ」


しばらく沈黙が続いた後、まゆは溜息と共に口を開いた。


「心の病気なの」


鬱病うつびょうと診断されて精神科に通っているということだった。

親が大きな借金を抱えていることが分かって、まだ学生の弟と妹を支えるため自分も働かなければならなくなり、特に一番下の妹は中学に上がったばかりで絶対に苦労させたくないから自分が働くしかないと言葉を強めた。

さらに化粧品売り場では働いておらず風俗店で働いていることも告げられた。


「私のこと、嫌いにならないで」


まゆは涙を浮かべて言った。


一気にいろいろな事実を詰め込まれ、動揺と混乱の渦に飲み込まれていた。

一方であの時まゆが理由も言わずに学校も辞めて去ったわけはもつれた糸がほどける様に理解できた。

呂律ろれつが回らない話し方が精神安定剤の影響であることも、過去に同じ病気の知人がいたことから納得がいった。


「俺が支えるから、一緒に頑張ろう。」


支える自信があったわけではないが、何も知らない状態で中途半端に心配するよりは覚悟が決まった気がした。

そして気がつけば「痛い」といわれるほど強く抱きしめていた。


しかし現実はそう簡単ではなく、その後のまゆが壊れていく様子は本当に辛くて見ていられなかった。

どんな言葉をかけても悪い方に受け取られるし、何も言わなければそれもまた悪い方に受け取られた。

できるだけ一緒にいるように努力はしたが、それにも限界があったし、息抜きに遊びに出かけようと誘っても疲れていてそんな気力はないと断られ、逆に風俗の仕事の愚痴を延々と聞かされることも一度や二度ではなかった。


当時の俺は鬱病うつびょうに関する知識があまりなく、“がんばれ”が逆効果になりうることさえも分かっていなかった。

そのため弱気な発言を繰り返すまゆに『がんばれ。がんばれ』といい続けた。

そんな俺に対し『心配かけてごめんね。こんな病気にならなければよかったのに。でもこんな私でも愛してくれてありがとう』と切ないメッセージが届いたかと思えば、次の日には一生懸命考えた励ましのメッセージに『うざい』と一言だけ返ってくる。

支えたい、支えなきゃという使命感はあるもののどうしたらよいか分らず、昼夜問わず頻繁に飛んでくるメッセージに深夜であろうができるだけすぐに返信をし、時間を作っては一緒に過ごすようにした。

とにかく必死だった。


まゆの症状はどんどん悪化していき『なぜ人は生きなきゃならないの』とか『私が死んだらどうする』だとか、死を匂わせる過激な発言も飛び出すようになった。

そしてついに精神科の先生にうながされて病気のことを親に打ち明けることになった。

それからは一時的に長崎の実家で療養しては東京に戻って風俗店で働き、暫くすると再び実家で療養するということを繰り返すようになった。


ある日、風俗の仕事を辞める様に説得する俺にまゆは声を荒げた。


「私も働きたくて働いてるわけじゃないの。じゃあゆったんが借金全部払って家族の面倒も見てくれるの?」


返事をすることができずに黙り込んだ。

貯金がないわけではなかったし、その一部はまゆにプロポーズをしようと決めてから貯め始めたものだ。

借金を肩代わりしてやろうという考えは何度も浮かんだし、まゆの部屋を引き払って一緒に暮らすという選択肢も考えた。

しかしいざ直接的にそれを問われると、そこまでの覚悟を持てなかったというか、男として未熟だったというか、まゆを信じてやることができなかったというか、結局はその一歩が踏み出せないまままゆに無理をさせ続けることになった。

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