2.2 待ち合わせ@カフェ
そして一時間後。
今にも雪が降りだしそうな重い曇天の空の下を歩き、僕は駅前のどこにでもあるカフェへと入ったのだった。
店内は八割ほどの客で埋まっていた。入った瞬間、暑いくらいによく効いた空調と潮騒のようなざわめきに、僕の強張っていた体はようやく弛緩した。寒かったのもそうだし、待ち人とのこれからを想像して緊張していたのもある。体の反応につられて心も少し軽くなったのは不思議なものだ。そう、僕はサイン会で会った男性とここで会う約束をしていた。
見回すと、あの男性は窓際の四人掛けのテーブルを一人で堂々と使っていた。さっきはかけていなかった黒ぶちの眼鏡で一瞬見過ごしそうになったが、服装で分かった。
ノートパソコンに真剣に向かう表情は気軽には声をかけにくい雰囲気に満ちていた。だから誰も相席をしようとはしないのだろう。近づくと、男性のテーブルにはテクニカル系の英文の雑誌が二冊置かれていた。ああ、これでは近づいた人の誰一人相席を願うことはしないだろう。それでも約束をしている僕は素直に声をかけるほかない。
「お待たせしました」
男性がすっと視線をあげた。僕と目が合うまで、男性は確かに自らが醸し出す雰囲気そのものの表情をしていた。だが僕がここにいることを認識するとその視線が揺らいだ。しかも表情を変えずに。動揺していることを悟られたくない、そんな感じだった。
注文しておいたコーヒーのマグカップを男性の向かいに置くと、男性は即座に机の上のものを脇に避けた。そして、僕が席に座った瞬間、疲れた顔も見せずに姿勢を正した。
「私はこういうものです」
いきなり差し出された名刺を僕はゆっくりと眺めた。結城大樹。ゆうきだいき。言いにくい名前だ。だがそんな感想は表には出さない。
「結城さんは有名な会社でシステムエンジニアをされているんですね」
名刺を渡された社会人が第一声として発する、もっとも適切な発言を僕は選んだ。世界有数のロボットメーカとして年々収益を上げている、まさに近未来型のパイオニアともいえる会社の名前が名刺には記されていた。しかも肩書は主席研究員ときた。日常生活では絶対に関わることのない人だ。
「あ、僕、結城さんの会社のロボット持ってますよ」
「そうなんですか?」
無難な会話の始まりに男性――結城さんがほっとした顔になった。ビジネスマンらしい叡智を感じさせる顔に親しみやすい笑みが浮かんだ。さっきまでノートパソコンの画面を睨んでいた表情とは全然違う。
「どのタイプを使っていらっしゃるんですか?」
「タイプ・スリーです。雪だるまみたいな形のあれです」
「ああ、《ヨウ》ですね」
僕が保有する雪だるまのようなロボットの製品名称は《ヨウ》という。「よっ」と気軽に声を掛けられるようなロボット、そういうコンセプトで作られたらしい。ちなみにタイプ・ワンは《ハロー》、タイプ・ツーは《ウィズ》という。普遍的で無難な名づけは三代目でおかしな方向へと向かってしまった。
「御社でこまめにバージョンアップしたソフトをアップロードしてくれていますので、購入して十年になりますけど元気に稼働していますよ。二度バッテリーを交換したくらいです」
「そう言っていただけると嬉しいです。私は《ヨウ》のソフト改良にずっと関わっていますので」
「へえ。そうなんですか。それはすごい」
素直に感嘆する僕に、照れたように結城さんが笑った。そうすると目じりにしわができて、より一層柔らかな雰囲気になった。
「今はもう御社のロボットもタイプ・シックスまで出ていますよね」
「よくご存じで」
「誰でも知ってますよ。シックスでの人型タイプの登場は相当話題になりましたから」
以前テレビの特集で見たことがあるが、そのロボットは外見もそうだが中身も能力も非常に人間に近いのだそうだ。人を癒すことを目的としたそのロボットは、男女二種類ずつあり名前もそれぞれ違うのだが、総称はたしか《ファミリー》と言う。一人暮らしの人や家族のいない人が増えてきた昨今、この高級ロボットを買い求める人はけっこういるらしい。
でも。
「僕はスノウマンにとても愛着をもっているので、これからもぜひシステムのメンテナンスを継続してください。よろしくお願いします」
「スノウマン?」
「あ、僕のロボットの名前です」
今度は僕が照れる番だ。頭をかきそうになり、その手をさりげなくマグカップへと移動した。熱いコーヒーから放たれる熱は、少し触れただけで冷えた指先にじんじんと染みわたっていった。サイン会の会場、本屋の入っているビルからこのカフェまで、外を十分も歩いていないのだが、今日はスノウマンいわく冬将軍がやってきているそうで、スーツにコートだけでは太刀打ちできなかったのだ。
すすったコーヒーは熱くて苦かった。
「それで。僕にどういう要件でしょうか」
え? と顔を上げた結城さんはまだ笑みを残していた。
僕も笑顔のままで、だけどはっきりと言った。
「ノベルズヘブンのユウのことについて。そうおっしゃっていましたけど一体どういうことでしょうか」
僕と結城さん、二人のテーブルから音が消えた。
同時に言葉が消えた。
次に周囲の音が消えた。半分以上の席が埋まっている店内は騒がしい声と音で満ちていたのに、それらすべての音がいずこかへと吸い込まれて消えた。
代わりに聴こえてきたものは雪の降る音だった。窓の外、厚い雲に天を塞がれ灰色一色だった世界には白いものがふわふわと舞っている。いつの間にか雪が降っていたようだ。ゆっくりと舞い降りてくる雪は羽毛のように軽そうだった。
厚いガラス窓の向こうの音など店内で聴こえるはずがない。聴こえたとしても車や通行人などのそれ以上の大音量で埋もれるはずだ。
なのに今、雪が降る音が僕には確かに聴こえた。
「なぜあなたはそのことを知っているんですか?」
僕の言葉は暑いくらいの店内で氷のように冷たく響いた。
「それはあなたがユウだからですか?」
また長い沈黙が続いた。
雪が降る。はらはらと。
雪の音が聴こえる。しんしんと。
どちらの答えを期待しているのか僕自身にも分からない。だから待った。その答えに自分がどう感じるのかも分からない。だから待つほかなかった。
「……私は」
言いにくいことを言おうとする彼の背後には雪が舞う様がずっと見えている。
「私は……ユウではありません」