2.1 サイン会@とある本屋
第二章スタート、残り4話で完結です。
第二章
「おはよう、壮太」
甘くて優しい声が聴こえる。
それを僕は夢うつつの状態で聴いている。
聴いているだけでとろけそうな声はあたたかな毛布のように僕を包み込んでくれる。
「おはよう、壮太。朝ですヨ」
その声が少しずつ硬くなっていった。
「今日ノ天気ハ……クモリノチアメ、イチジユキデス」
声は無機質なものへ変貌し、やがて抑揚のほとんどない機械特有の声に落ちついた。瞼を開けると、信じられないくらい近い距離にロボットの顔があった。
「カサヲモッテデカケマショウ」
「はいはい、分かったよ」
僕は枕に頭をつけたままの状態でじっとロボットを見つめた。白くてつるりとしたボディに三頭身、くりっとした大きな目。三秒見つめるとその目の中央が青く光るのは毎朝のことだ。
「おはよう。スノウマン」
雪だるまのようなロボットにつけた愛称は見た目のとおりだ。おはようスノウマン。こう言うと喋るのをやめるように登録していて、するとロボットはきこきこと音を鳴らしながら短い脚でいつもの定位置、窓際の充電スタンドへと戻っていった。
ぴたりと壁に背を付けたロボットは、次に目を緑色に光らせた。
それとともに室内に爽やかなジャズが流れ始める。
「お、今日もいい選曲だな」
プレイリストに入れてある千ちかい曲の中からランダムに流れるそれは、ただのランダムな選択でしかないのだが、意外と毎朝の僕の気分に合っていて、まるでスノウマンが僕の表情を読んで選んでいるかのようだった。
キッチンではコーヒーメーカーが稼働している。それもいつもどおりだ。
そして僕はトーストを焼きにキッチンへと行く。焦がし気味のトーストに薄く塗るのはもちろんイチゴジャムだ。
何もかもがいつもどおりの朝だった。
僕は今も同じマンションで独りで暮らしていた。
朝食を終え、「じゃあ行ってくるよ」と、着替えをすませ腕時計をはめながらロボットを三秒見つめると、ロボットはにこりともしないで目を赤く光らせた。
「イッテラッシャイ」
防犯モード開始。この高層階の何もない部屋に侵入するようなチャレンジャーはいないと思うが、このセリフを聴きたいがためにセットしている僕は、やっぱり少し孤独なのかもしれない。
*
緊張に落ちつかない僕に、
「青池先生、そろそろ始まりますよ」
そう声を掛けてきたのはスーツの似合う、というかスーツ姿しか見たことがない立石さんだ。すらりとした長身に、体にフィットした黒のパンツスーツ。頭の下のほうで一つに結んだ髪に銀ふちの眼鏡。いかにも仕事ができそうな彼女は実際有能な編集者だ。対する僕は同じ黒のスーツなのに着馴れていないせいで就職活動中の学生のようだ。だから、
「やめてくださいよ。先生なんて言われるとこそばゆいです」
と言ったのは本心からだった。
「何言ってるんですか!」
立石さんが腰に手を当てて大きく胸を張った。
「今日は青池先生の記念すべき初のサイン会ですよ!」
「サイン会って」
僕は独りごちて頭をかいた。
「僕のサインをもらってうれしい人なんているんですかね」
「いますよ!」
そう言う立石さんの鼻息は荒い。
「さっき外を見てきましたけど、十二人も並んでましたよ!」
「十二人、も?」
「ええ。十二人も、です」
それを多いと取るか少ないととるかは人によりけりだろう。僕と立石さんにとっては……説明しなくても分かるはずだ。今日はこれから天候が悪化して雪になるかもしれないと言われているのだ、新米作家の僕にとっては十分すぎる人数だろう。
急に喉に渇きを覚えた。
「ああ、余計に緊張してきました」
今日という日に備えてサインを練習してきた右手は固まっている。その手を握ったり開いたりしていると、喉の渇きとは裏腹に手のひらには汗がふいてきた。水でも飲もうかとナップサックに手をかけたところで、ドアが開き書店の店員さんが現れた。
「先生、そろそろお願いしまーす」
「はいっ!」
大きな声をあげたのは僕ではなく立石さんだった。そのまま緊張した面持ちでかくかくと歩き出した彼女を見ていたら、おかしくなってつい吹き出してしまった。
「先生?」
振り向いた立石さんはやっぱり顔を強張らせていて、僕はこれ以上は笑うまいと堪えながら彼女の後をついていった。
*
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「これからも頑張りますのでよろしくお願いします」
サインし手渡すものはとある新人賞で入賞してから三冊目の刊行本だ。一、二冊目は売れ行きはそこそこだった。だがそれではよろしくないとは立石さんの弁、三冊目はぐっと話題になる本を、と血走った目で訴えられ、僕は彼女の期待を背負って馬車馬のように働かされてきた。だから今日という日は僕にとって非常に感慨深いものだった。
「今回は推理ものだって聞いて楽しみにしてたんですよ」
僕のへたくそなサインを書いた本を胸に抱きしめ、四十代半ばの女性がにこっと笑った。
「先生の描く女性が好きなんです」
「それは嬉しいですね。ありがとうございます」
新刊を出すたびにメールや葉書で読者から感想をもらっている。だが直に言ってもらうとまた違う感慨深さがある。あのサイトに投稿していた時のような、少年じみた喜びが沸き上がってくる。
あのサイトにはあれから一度もアクセスしていない。すぐにブックマークもはずしたし、まだあるのかどうかも定かではない。
だがもしもまだあるのならば、かつての僕のような人が感想に一喜一憂して、そして恋に落ちたりしているのだろう。
「先生は恋愛ものは書かないんですか?」
「恋愛を描くには僕はまだ若造ですから」
「またそんなことを言って」
苦笑しながら女性は去っていった。
「はい、では次の方」
立石さんがきびきびと場を進行してくれているおかげで、開始して一時間ほどで最後の人の番が回ってきた。サイン中にも好奇心にかられた人たちが行列に加わっていき、結局三十人超にサインをしたことになる。
僕の前に立ったのは同年代くらいの男性だった。ライトグレーのセーターの中には白シャツ、それに黒のスラックス、硬めのファッションを崩すモスグリーンのスニーカーが視界の隅に入った。座る僕の視線の高さにはちょうどその男性のコートを持つ手があり、手首には高級そうな革のバンドの時計が巻かれていた。
思わず僕は自分の服装をチェックしてしまった。量販店で昔買ったスーツはそれほど悪い品ではないのだが高級とは言い難い。長年愛用している黒のGショックはだいぶ痛んでいるし。
「あれ? あなた最初から行列にいませんでした?」
立石さんが急にそんなことを言い出した。
「開始前に並んでいたのをお見掛けしていました。どうして最後になっちゃったんですか?」
立石さんの記憶力のすごさよりも、その男性がどう返事するかよりも。その返事を発する際の男性の表情をよく確認したくなり、僕は半分伏せていた顔を持ち上げた。斜め四十五度の角度で。
座っている僕を、その男性もまた同じ角度で見下ろしていた。しっかりと。すらりとした背に清潔感のある雰囲気は、同性の僕から見ても好感が持てるタイプだった。
「青池先生」
「はい」
僕はうなずいてみせた。今日は散々先生と呼ばれているから、もうすっかり自分の呼称として馴染んでしまっている。
男性が少し言いにくそうにきゅっと口をつぐんだ。
「先生はアオさん……ですよね?」
言われたことを飲み込めずにいる僕に、男性が早口で言った。
「ノベルズヘブンのユウのことについてお話があります」
一拍置いて喉がひゅっと鳴った。
ああ僕、すごく驚いているんだ。そのことに遅れて気がついた。