1.4 約束@ホワイトクリスマス
シャンシャンシャン。
鈴の音が聞こえたと思ったら、それはスマートフォンのタイマーの音だった。きちんと聞けばピルピルピル、ごく普通の電子音だ。眠い目をこすりつつも音を止めると、時間はきっちり六時半だった。ミルク色のカーテンの向こう、空は明るさを帯びてきているが暗かった。休日だというのにアラームを解除するのを忘れていた。
起き上がりベッドから床に足を出すと、足元から這い上がるような冷気で完全に目が覚めた。今朝はやけに寒い。気密性の高いこのマンションでここまで冷える朝はめったにない。部屋の隅、白いボディのロボットがこの時ほど冷たく見えたことはない。
窓に近寄るとカーテンを開けた。
と、目の前に広がる白一色の世界に思わず高い声をあげていた。
「ああ、雪が降ってたのか」
しばらくして気がついた。
「そうか。ホワイトクリスマスか」
ホワイトクリスマス。そう気づいたとたん、僕はこのことを真っ先に彼女に伝えたくなった。まだ姿どころか名前も知らない彼女に。
キッチンからコーヒーメーカーががりがりと豆を刻む音が聴こえはじめた。毎朝この時間になるとタイマーどおりに几帳面に稼働するのだ。その音を聴きながら食パンをトースターにセットするのも習慣で、体は考えずとも動いた。少し焦がすくらいで取り出しイチゴジャムを薄く塗るのはもう定番だ。その頃にはコーヒーは淹れ終わっていて、今日もいい香りだった。いつもの白いマグカップにコーヒーをなみなみと淹れ、トーストを載せた皿とまとめてリビングへと戻った。
一口コーヒーを飲み、一口トーストをかじり。それから僕はパソコンを立ち上げた。そこまでの一連の行動を終えて、僕はようやく自分の心理状態に思い至った。実はけっこう興奮しているんだな、と。冷静を装って淡々と調理をし今に至るけれど、早く投稿サイトにアクセスしたくてたまらなくなっている。
昨夜はひどく大胆なことをした自覚はある。それに彼女はどんな返事をくれただろう。早く知りたくてたまらない。もちろん最悪の結果も想定されるし、夕べはクリスマスイブだったから彼女はプライベートに忙しくて返事をくれなかったかもしれない。ああそうだ、女性の過半数はきっと昨夜は誰かと共に過ごしているに決まっている。
自分の馬鹿さ加減に急に笑えてきた。本当ならば昨夜の時点であれこれ考えたり落ち込んだりするべきだったのに、なぜ今になって。
自分自身に素直にならなくちゃな、そう言い訳もとい理由付けをしつつブックマークから目的のサイトを開くと、僕の目は恒例のあの赤文字をすぐさま発見した。
『メッセージが一件届いています』
「よっしゃ!」
思わずとってしまったガッツポーズ、その拳をひらいて髪をわしわしと掻いてごまかした。まるで中学生のガキみたいだ。何が書いてあるかも分からないメッセージ一つに喜んでしまうなんて。同じ手でマグカップを取り、コーヒーを一口飲んだ。苦みがおいしいと思えることで自分の年齢を再確認する。
それでもマグカップを置いたその手ですぐにメッセージボックスを開いていた。
『アオさん、こんばんは』
やっぱり彼女は昨夜のうちに返事をくれていたんだ。そう思うと自然と顔がほころんだ。もう一口コーヒーを飲み、今度は苦みで顔を引き締める。コーヒーとはこれほど便利な飲み物だったのか、そんなふうに感心できた自分には余裕が戻っていると判断できた。よし、大丈夫。
心を落ち着け、続きを読んだ。
『スノードームを買ったんですか? いいですね。こちらは雪は降らないので、スノードームがあったらすごく素敵だろうなあ、と想像してしまいました』
雪が降らない場所……南の方、たとえば沖縄に住んでいるのだろうか。彼女のプライベートが想像できる情報が書き込まれたのは初めてだった。
『わたしもいつかアオさんに会いたいです。こういう小説を書かれるアオさんってどういう人なんでしょう』
どういう人?
それに即答できる人なんているだろうか。
文字だけで。しかも相手は気になる人で。
思索しながら飲んだコーヒーはすぐにぬるくなってしまった。それは考えるだけで相当な時間を使ったことの証のようだった。
ああ、もう。
自分を誤魔化すな。
気になるだなんて、そんな曖昧な表現で誤魔化すな。
確かに僕は彼女のことをほとんど知らない。姿かたちも本名も何も知らない。
だけどもうそんなことはどうだっていい。どうだっていいんだ。
意を決する。
震える指でキーボードに触れる。
《おはようございます》
そこからは思いきって書いていった。
《今日、こちらではめずらしく雪が降りました。朝起きて真っ白な街並みを見て驚きました。次に僕が考えたことは何だと思いますか? それはユウさんの笑顔です。ユウさんなら、この景色を眺めてきっと笑みを浮かべるんじゃないかと思ったんです。僕は……》
惑う指をごまかそうとマグカップに口をつけると、琥珀色の液体は半口も残っていなかった。さっきから一人で何をしているんだろう。傾きかけていたマグカップを机に戻すと、僕は姿勢を直して素直な気持ちをタイプしていった。
《自分がどういう人間なのか、一言で言い表せなくてさっきから困っています。コーヒーを一杯飲みきっても言葉が出てきませんでした。ユウさんは僕がどんな人だったら喜んでくれますか? 雪景色やスノードームのように、ユウさんを笑顔にできる存在だったら……そう、そんなふうに思っています》
ここまで書いて、僕はそのメッセージを送信した。
あとはいつもどおりだ。冷たくなったトーストをコーヒーなしで腹に収めたけれど、食べた量は変わらない。そしていつものごとく丸一日を執筆に費やしたのだった。
小説を書くことで心を解放する。その快感が今日は常にそばにあった。持続する強い感覚は、快いがゆえに拒めず、僕は無我夢中でディスプレイに向き合い続けた。身に余る快感によって心身ともにくたびれた僕はやっぱり中学生レベルだ。気づけばもう夕暮れ時で、今日は早めにパソコンを閉じるかと思ったところで、やはりもう一度あのサイトにアクセスしたくなった。それはもちろん、ノベルズヘブン。ああ、だめだ。僕はすっかり恋の虜になっている。そう、これは恋だ。恋にきまっている。恋しかない。
『アオさん、こんばんは』
彼女からのメッセージはきていた。
興奮の熱が再度高まっていく。創作で得る熱に似ている、けれど次元の異なる熱が僕の冷静さを奪っていく。
『アオさんの小説もメッセージも、いつもわたしの励みになっています。こんなふうに心躍ることがあるなんて、わたしは今まで知りませんでした。このサイトでアオさんに出会えて本当によかったです』
そして『実はわたしには夢がありました』とメッセージは続いていた。
『それは恋をすることです。素敵な恋を』
『それが叶いました。わたしはアオさんに恋をしています』
息をする暇も惜しく、最後まで一気に目を通していった。
『文字だけのつながりだけれど』
『アオさんのことが好きです』
この時の感激を僕は一生忘れないだろう――。
束の間天井を仰ぎ見た僕は、まさに放心状態だった。が、すぐに体を起こすと、激情のままに返事を書いていた。
《僕もユウさんのことが好きです》
まだ他人に対して、恋した人に対して一度も言ったことのない台詞。
それがためらいもなく紡がれていった。
《ユウさん、僕はあなたのことを深くは知りません。だけど恋に一目ぼれがあるというなら、文字だけの交流でも恋はできると、そう僕は信じています。実際、僕は今恋をしています。この強い想いの名前が恋でないというのならば何でしょう》
送信するころには、僕の目には涙が浮かんでいた。有り余る幸せを感じたとき、人は涙を流したくなるものなんだと知った。
彼女からもすぐに返事がきた。僕はそれを涙をぬぐいながらひらいた。
『アオさん、ありがとうございます。実はわたしにはもう一つ夢がありました。好きな人とキスをしてみたいとずっと前から思っていました。だからもしもいつか会うことができたら。そしたらわたしに優しいキスをください』
優しいキスをください――。
その言葉が歓喜に狂いそうな僕の心臓をわしづかみにした。
ディスプレイに浮かぶ彼女の文面。
文字の一つ一つが雪の結晶のように光り輝いてみえた。
純粋なきらめき。恋のひとひら。
単純なようで複雑な模様。清廉としているのに魅惑的。人工的には作り得ない奇跡。
だけど複雑なようで単純。
好きになってしまえばもう理由はいらない――。
液晶のディスプレイに手を伸ばす。白一色の雪景色の写真をはめ込んだ背景、そこに重ねられたインターネットブラウザ。白と水色のノベルズヘブン。彼女の紡いでくれた言葉。触れるか触れないかのところで動きを止める。まるで初めて口づける瞬間のように。心が震え、同期した指先が震えた。
やがて触れることなく下ろした指で、僕は静かにキーボードを打った。
《約束します。あなたに優しくキスすることを》
《あなたに会えたその日に。必ず》