1.1 はじめまして@ノベルズヘブン
第一章
画面の向こう側、触れられないその人に。
僕はずっと恋をしていた。
*
小説家だなんて言うのはおこがましいけれど、趣味は小説を書くことだと胸を張ってもいいだろう。そう僕は思っている。じゃあ趣味の定義とはなにかと尋ねられたら、すごく好きなこと、余暇の多くの時間を割いても苦ではないこと、そう答えたい。模範解答だろう? 事実、僕は小説を書くことがすごく好きで、平日の夜や休日の大半を執筆のための作業に充てていた。
この趣味、執筆生活は大学三年のときにふいに始まったもので、理由やきっかけみたいなものはもう忘れてしまった。でもそれ以来、家族にも友人にも、一時期いた恋人にも、誰にもこの趣味について打ち明けたことはない。完成物は自分一人で繰り返し読んで楽しみ、最後に気晴らしに公募に応募して終了、そんな感じだ。ちなみに公募のほうは一次を通過したことすらない。現実とはそんなものだ。
それでも、そんな日々に僕はちゃんと充足感を覚えていた。何も生み出すことのない、この社会では名もない僕。そんな自分でも創造できる小さな世界たち。それらすべてに対して僕はかけがえのない愛着を感じていた。それで十分だった。
はずなのに。
僕はそこに恋まで見つけてしまった。
唯一無二の恋を――。
*
冬が好きだ。
春は桜が散る様が儚くて見ているのが辛い。すぐに散る桜をにこやかに楽しむことができなくなったのはいつからだろう。ああ、なんでもかんでも忘却するのは僕のまずい点だ。そして夏は暑いのが苦手だというその一点のみで却下したい。うんそう、僕は我がままでもあるんだ。それでも、こんな僕でも秋ならば少しは浮かれることができる。秋が終われば待望の冬がやってくるからだ。
冬が好きな理由、それは好きなものに囲まれた生活ができるからだ。エアコンでよく温められた部屋。シナモンの香るホットワイン。曇りガラスの向こうに感じる冷たく鋭利な空気は間接的だからこそ心地よい。長い夜。冴え冴えとした星の輝き。時折、雪。それに氷。冬の空気。すべてのものが放つ冬独特の芳香。
冬になると、まるで一昔前のからくりのように執筆に集中できる条件がかちりと揃う。するとディスプレイに意識が真っすぐに向くようになる。何者にも邪魔されず、ぶれることなく執筆ができるようになる。やがて文字は文字でなくなり、物語が内の方から湧き上がってくる。その言葉にし難いうねりを感じる時、僕は確かに興奮する。心を解放すること、それ以上の快感はなかった。
なのに。
そのとある冬、窓の外に吹雪く空気が氷を含んでいそうなほど冷気を帯びていた夜、エアコンのよく効いた暖かなリビングで、僕はなぜか急に孤独を感じたのだった。なぜ僕は小説を書いているのだろう、と。なぜ僕は五十億を超える人々の住むこの星で一人の世界に閉じこもっているのだろう、と。
うつろな僕の目が部屋の隅に置いてある家庭用ロボットを捉えた。身長50センチメートルの三頭身のボディは曇りのない白だ。それは部屋に籠りがちな僕を心配して、今年の誕生日に祖父が贈りつけてきたものだった。
祖父の手前、常に充電し電源を入れてはあるけれど、我が家ではただのオブジェ、飾り物と化している。ロボットがいないと耐えきれないほどの孤独を僕はちっとも感じていないからだ。……はずだった、つい先ほどまでは。だが孤独を痛感した結果、僕が視線をやったのはそのロボットだった。きっと縋るような目で見てしまっていたはずだ。
白くてつるりとしたボディに短い手足。まん丸の顔には世間一般でいうところの愛嬌があってかわいい瞳がついている。その丸く大きなロボットの瞳とじっと見つめ合い、ただただ静かな時間が僕とロボットの間に流れた。
ピピっと、目の中央が青く光った。
それは僕の虹彩を認証した証だった。
「オハヨウ」
「ソウタ」
硬く冷たい声が響いた。響き、余韻をわずかに残して掻き消えた。残ったものは沈黙だけだった。だがそれも一瞬で、すぐさま「オハヨウ」「ソウタ」と繰り返す声が響いた。
その瞬間、沸き起こったものは恐怖に等しい衝動だった。
気づけば僕は執筆中のテキストファイルを閉じ、インターネットブラウザを立ち上げ、小説投稿サイトを検索していた。そして目についたサイト、ノベルズヘブンに登録していた。その間、ロボットはオウムのように「オハヨウ」と「ソウタ」を繰り返していた。
ロボットの応援もとい精神的攻撃を受けつつ、怒涛の勢いでサイト上に処女作を投稿したのも衝動のせいだ。そこに論理的思考など一切なかった。不慣れな作業だったから完遂するまでに実に多くの時間を要し、終えたところで一気に脱力したことを僕は今でも覚えている。少年がとなり町に足を延ばすことを大冒険と言うのならば、僕のそれも十分その名に値するはずだ。ただ、プラスの感情は塵ほどしか得られなかったが。その頃にはロボットは言葉を発するのをやめ、元のオブジェとしての姿に戻っていた。
今になってみれば分かる。僕のしたことはかなり無鉄砲だったってことが。
僕は十三万文字の作品を四つに分けて投稿していた。ひとまとめに一話として投稿できる上限が五万字だったから、そんな単純な理由で。文字数からいうと区分数は三でもよかったのだが、その作品は普通に起承転結を意識した四章仕立てだったので、素直に章毎に分割して投稿したのだった。
だが四万文字超の小話形式はインターネット上では非常に読みにくい。スクロールをいくらしてもいつまでも話は終わらないし、途中で読むのをやめたくてもしおり機能が使えないからだ。
とはいっても、当時の僕はそんな電脳世界での常識を知らなかった。それに僕は投稿したという事実のみに達成感を得ていた。それが先に述べた『塵ほど』の収穫である。そう、正直に言えば、読まれるかどうかなんて知ったことではなかったのだ。事実、その夜、僕は作業を終えるとパソコンを閉じ、シャワーを浴びてすぐにベッドに入った。もうロボットには見向きもしなかった。そしてその夜以来、そのサイトのことをすっかり忘れた。
投稿してから確か半月は放置していたと思う。
その日、僕はまたリビングでキーボードをかたかた鳴らしていた。目に疲労を感じて窓の方を見たら、そこには星も見えない深い闇色の夜空だけが見えた。その夜空の色を映した重たげな窓ガラスが、強い風に当てられ時折震えているのが目に見えて分かった。
今夜も外は寒そうだな、と思ったところで、僕は思い出したのだった。同じように凍えそうな夜にしでかした小さな冒険のことを。その流れで壁際のロボットを数秒見つめてしまい、気づいた瞬間あわてて視線をそらした。このロボット、虹彩を登録した持ち主が三秒見つめると起動するという厄介な設計がされていて、下手に見ると危険なのである。
あの夜の衝動の後始末をするために、僕はインターネットブラウザを立ち上げた。
「なんていうサイトだったっけかな」
思わずひとりごちたのは、本当に目的のサイト名を覚えていなかったからだ。それでも、『小説投稿サイト』で検索してヒットした複数の名前の一つには見覚えがあった。
「……あ、そうか。天国だ」
ノベルズヘブン。今でも思うが、よくこんなへんちくりんなサイトに触手を伸ばしたものだ。常であれば近寄りもしないのだが。
自分自身の愚かな行動を反省しつつ、僕はため息を飲み込んでキッチンへと行った。気分転換をする必要性を感じたからだ。つまりはホットワインをレンジで温めに。冬の夜、僕はホットワインを愛飲する。ドイツ人ではないしドイツ人の知り合いもいないしドイツに行ったこともないけれど、一度飲んでからすっかりはまってしまった。白いマグカップに入った赤い液体のシナモンの香りと甘い味わいにほっとしたところで、僕は尻拭いという名の作業を再開した。
サイト名をクリックすれば、開かれたページは白と水色を基調とした構成で、ここまで来ればさすがの僕にも遠くない過去のことがくっきりと思い出された。確かになんとなく天国を連想させるデザインだ。
よく使うユーザ名に、よく使うパスワード。不安全極まりない組み合わせだが、こういうときはひどく頼もしい。入力すると一発でユーザ専用のトップページへとたどり着けた。使うべき時に使えない鍵ほど腹立たしいものはない。
目的のもの、自分の小説を削除しようとしたところで――気がついた。
「なんだこれ?」
ユーザへのお知らせ機能の欄に、ただ一言、赤文字でこう書いてあった。
『メッセージが一件届いています』
クリックし――それが僕と彼女との出会いとなった。
のちに最愛の人となる彼女との初めましての瞬間だった。