風衝都市の欠片
--午後2時12分--
大学1年生のカエデが自宅の玄関の扉を開けた。
彼女の容姿としては毛先の整った黒髪で若干膨らみがかった
ショートの髪型をしており、
前髪は額を覆うように7:3分けされている。
また、制服代わりに使っている服装はブレザーとスリットのないスカートを
組み合わせたもので、どちらも色は暗色で統一されている。
--午後6時40分--
カエデとその家族が住む「おとうふヒルズ」603号室にある彼女の部屋には
教科書や専門書が床に積まれたままになっている。
たまに思い出したように整理をしても、
すぐに、それらの本に並行して目を通す必要が出てくるため
再び床に積み上げてしまう。
そして今日もまた積まれていた本を本棚に戻し始めた。
アンケートを作成する作業に飽きてきた気分を紛らわすためだ。
大学一年生である彼女がサークル活動の一環として講師を担当した授業の中で、
アンケートを皆に回答してもらい、
その集計結果をまとめるという仕事があるため、
作業に追われていた。
凡そ15分前の25分頃に手を付け始めてからしばらくは画面に向かっていたが、
ふとディスプレイの時計に目をやるとハッとした様子てネットラジオを起動した。
大学サークルの番組に、彼女の友人であるリョクチャのバンドが出演することを
忘れていたのだ。
幸いまだ番組は始まっておらず、彼女は作業を再開した。
それから10分程すると質問用紙が完成したので、確認に入ることにした。
彼女は画面に映し出されたタイトルを音読する。
「異性もしくは同性のどんな所に性的感情を懐きますか」
口に出して自分の声を耳に入れると、情報が整理されるというが
無性に胸がかゆいような気持ちになった。
続けて※1質問欄の音読を始めた
注釈1 スペースの都合上省くが(3)から(7)はそれぞれ自由記述欄がついている。
問1 あなたの性別を教えてください 男 女 どちらでもない
問2 あなたの性的対象について教えてください 男 女 その他( )
問3 性的対象の見た目について好きな所を教えてください
問4 性的対象の発する音について好きな所を教えてください
問5 性的対象の発する臭いについて好きな所を教えてください
問6 性的対象の内面について好きな所を教えてください
問7 あなたが最も性的に興奮するシチュエーションはなんですか
音読を終えると、気恥ずかしそうに独りごちた。
「やっぱり、匿名で実施した方が良いよね。」
手元のライプナッツティーを一口飲んだあと、
マウスカーソルをのろのろと印刷ボタンの方へと持っていき、クリックした。
出力先のプリンタには、自室のものではなく、家族共用のものが選択されていた。
慌ててリビングへ走ると、弟のカシワが
プリンタの取り出し口へ印刷されてきたアンケート用紙の束を手に取っていた。
「姉ちゃん何してんの……」
彼は姉に対して若干引いた様子だった。
弟から姉へと用紙の束が手渡されるとカエデは顔を真っ赤に染めながら
弁解を始めた。
「このアンケートはね。性的なものに存在するかもしれない
価値基準を知ることが
出来るかも知れないものなのよ。
基準があって初めて計量が出来るようになるものなの。
だからとっても真面目な目的で、決してえっちなことじゃ……。」
逃げるように自室へ戻る姉の背中を見たカシワは思った。
(アンケートと同じぐらい今の姉ちゃんはえっちだった。)
自室へ戻ったカエデは、ディスプレイに18:55と表示されたパソコンのロックを
解除すると、冷めたライプナッツティーをグイと飲んだあと、
深くため息を付いた。
FM音源で鳴らされるジングルが番組の開始を告げる。
「どうも。MC イタヤ です。今日はこのサクラサト県でバンド活動をされている
学生の方々を紹介します。」
この番組の司会を務めるイタヤは、カエデと同じく10代の女性である。
また彼女はアーモンド大学に通う大学生でカエデたちとも親交がある。
「出演者していただく方々は、ラグランズ、ガウズ 、ライプニーズの3組です」
バンド紹介が終わると、それぞれのバンドが今回演奏する曲について
簡単な解説をしたあとにステージへ上がっていった。
リョクチャがリーダーを務めるライプニーズの番がやってきた。
イタヤが曲について聞くと彼女は答えた。
「この曲は、FとFsus4のコードだけで作りました。ベースを弾いていたら
自然とコード進行が浮かんできました。」
イタヤはさらに歌詞についても尋ねると、
リョクチャは若干照れた様子で語り始めた。
「歌詞はちょっと性的な感じなんですけど、
じゃあそれを没にするかっていうとそれはそれで、
本来育つべきだった表現の成長を閉ざしてしまう様な気がして、
歌うことに決めました。」
カエデはこの言葉を聞いて、
自分がやろうとしていることに自信を持つことが出来た。
--3日後の午前11時50分--
東コンソメ大学文学部第2講義室にて
「それではアンケートを配布いたします」
カエデと※2 TA がアンケート用紙を生徒の席に配り始めた。
注釈2 TA= Teaching Assistant 授業中に講師の補助を行う人。
主に大学院生が担当することが多い。
彼女は東コンソメ大学大学院社会学部の生徒1名をTAとしてつけてもらった。
アンケートを配り終えると、回答は任意であること等アンケートについての
説明を始めた。
回答時間として用意された40分が経過すると、
授業時間はあと7,8分しか残されておらず、
あと少しで終わりを迎えようとしていた。
カエデは締めの言葉を話した。
「初日に2時間、3日後の今日に1時間という
計3時間だけの授業だったのでかけ足でしたが、
無事授業を終えることが出来ました。
皆様にもお付き合い頂いてありがとうございました。
この授業が性について個個人の適切な考え方を
助けることになればとても嬉しいです。」
生徒がアンケートを回収箱に入れた後に退出していく。
最後の一人が退出するのを見届けると、彼女も講義室を後にした。
「お疲れ様」
声をかけてきたのは、彼女の友人であるレモンとリョクチャだった。
「一緒に帰ろう」
リョクチャがカエデの所へ歩み寄って声をかけた。
--午後1時37分--
パーラー「ライプナッツ」にて
「リョクチャちゃんのお陰で私、
アンケートを実施する最後の踏ん切りが付いたの。」
カエデは溌剌としてリョクチャへ告げた。
感謝の気持ちを告げられたリョクチャは、照れて笑った後に笑顔で返した。
「それはあなたの力で決断したことだから私は何もしてないけれど、
でも嬉しいよとっても。」
レモンはそれをみて少しだけ羨ましそうな眼差しを
カエデとリョクチャに向けながら話した。
「いい関係だなー。私もそんな経験をヒソクとしてみたいけれど……。」
カエデは先程までの若干溌剌とした感情の余韻を残すような口振りで
レモンに提案する。
「スポーツに誘えばいけるんじゃない?
安全な環境で互いの成長を確認出来るんだから
機会に恵まれるはずよ。」
「デートがてらに実行しちゃいましょう。」
リョクチャが大胆なことを口走ると、
レモンは赤面したまましどろもどろになってしまった。
--午後3時10分--
カエデはライプナッツティーを飲みながら
アンケートの集計結果を声に出して確認している。
「出席者は20名で回答者も20名だから無回答0名」
「問1と問2により、男性の異性愛者が8名で同性愛者は2名
またロボット性愛者が1名、
女性の異性愛者が5名で同性愛者が3名またペンギン性愛者が1名」
「問3より性的に魅力を感じる点については、顔が20名、尻が19名、胸が15名、
脚が……(以下延々と続く)」
しばらくして全ての回答についての確認を終えた彼女には、
過去の苦い記憶とも結びつくような大きな悩みが新たに生じていた。
「問4と問5と問7の内全てで、
オナラに関することを回答した人が8名もいる……。」
カエデが担当した授業には、
彼女がオナラをしている所をみられたことがある
リョクチャやレモンも出席していたし、彼ら以外の前でも
彼女は故意でなくオナラをしてしまっていたので、
その内の誰かが彼女のその行為に対して
性的な感情を抱いていた可能性は高いのだ。
「もしかして、リョクチャちゃんやレモンちゃんも
そういう趣味を持ってたのかな……。」
「いや、彼女たちにそういう目でみられても別に嫌ではないし……。」
彼女の脳内には、赤の他人から性的対象にされることに対する
嫌悪感が渦巻いていた。
クゥルルルゥ……ゴポォ
(嫌なこと想像して緊張したし、ライプナッツも飲んだし……。)
ブウォッ
ボブブゥー……
カエデは頬を染めながら、
強烈な情けなさと恥ずかしさそしてぼんやりとした気持ちに浸っていた。
(オナラ止まらないけど、誰もいないし別にいいかな……。)
部屋でぼんやりとする彼女の臀部辺りからは、
牛の鳴き声とか象の鳴き声のピッチを
極端に低くした様な音やおもちゃのラッパの様な音が何度も鳴り続けた。
すると突然カシワが扉を開けた。
「さっきはごめん……。」
彼は姉に対して引くような態度をとってしまったことに罪悪感を感じていた。
しかし、「※3 肉や乳製品のアンモニア臭さ」と「※4 野菜の硫黄臭」と
「※5 果物の青臭さ」が混ざった臭いが彼の鼻に入っていった。
注釈3 アンモニア 等を想定
注釈4 硫化メチル 等を想定
注釈5 アセトアルデヒド 等を想定
思いがけない事態に戸惑い、何度も鼻で深呼吸をして臭いを確認している彼には、
その臭いの正体は大方予想はついていたが
姉が自分の前でオナラをした(していた)という事象の希少性からくる高揚感が、
彼女への配慮よりも勝ってしまったのだ。
カシワの視線の先には、
顔を真赤にして今にも泣き出しそうな表情でみつめてくる姉の姿があった。
我に返り深呼吸をやめたときには遅かった。
目に涙を浮かべたかと思うと、それからすぐにカエデは泣き出してしまった。
「うぅ……ノックしてよ……。」
「ごめん姉ちゃん……。」
謝る弟に対して、嗚咽まじりに懇願した。
「友達とか、いや私の家族にも話さないでね。私達だけの秘密にしてね……。」
カシワはそれを聞いてなんだか胸にかばかりな後ろ暗い感情が湧いた自分に驚き、慌てて押し留めた。
彼が部屋を出てからしばらくすると、家族にはいつもの安寧が戻っていた。