謎の女――安倍聖菜
退治……? いや、退治するというのはわかる。それはむしろありがたい。
ただ、問題はそこじゃない。彼女にはなぜ悪魔が見えている? あれは俺にしか見えない。それはあいつ自身が言っていたことであり、事実今まで誰も悪魔を見てはいない。
「どうしてお前にはこいつが見える?」
「そんなのわからない……。見えるものは見える……」
「どうしてお前がこいつを退治する必要があるんだ?」
「それが……私の使命……」
「それじゃあ、お前はいったい何者なんだ……?」
俺は単純にして最大の謎を彼女にぶつける。
――刹那、俺の背筋が寒くなる。よくよく見ると彼女の雰囲気が変わっている。
先ほどまで、全く読めなかった表情が目に見えて冷たく変わり、気のせいか周りの温度まで下がっているような気がする。
声を出したいのに声が出ない。口からはひたすら空気だけが漏れ続ける。
それほどまでにこの場は冷たく、恐怖に支配されている。
「私……? 私は安倍聖菜。この世の悪魔全てを消すために生まれた」
最初の無機質な声とは違い、そこには確かな憎しみが込められていた。
まるで、昔悪魔と何かあったかのように――。彼女――安倍聖菜はそう言った。
俺は必死の思いで声を絞り出す。
「消すって……どういうことだ? お前は何かこいつに恨みでもあるのか?」
「これ以上は君に関係ない。私の使命はそいつを消すことただそれだけ。だからどいて」
安倍聖菜はそういうとこちらに歩み寄ってくる。
この悪魔をあの女に渡すのは簡単だろう。ただ、なんだろうこの違和感は。この女に悪魔を渡すのは何か違うと思う。
証拠もない。それでも俺の体中の細が逃げろと悲鳴を上げている。
「待て、お前がこいつを退治しようとしているのはわかった。けど、こいつを渡すつもりは毛頭ない」
彼女は足を止める。そして最初と同じ無機質な声で――。
「じゃあ、あなたも消される……? 今更一人や二人増えたって問題ない……」
「そうだな……じゃあ、俺はこうするわ」
――俺は悪魔を抱え、安倍聖菜に背を向け一気に走り出す。後ろは振り返らない。というよりも、後ろを振り返られるほどの余裕はない。
逃げる際、俺の背後から最後に聞こえたのは――。
「どうせ逃げたって変わらないのに……」
その一言だけだった。
もう五分は走ったと思う。小さな公園に着いた俺は、さすがにこれ以上追いかけてきてないだろうと思い、悪魔を下し遊具の上に倒れこむ。
もう手足がしばらくは動かなさそうだ。全く力が入らない。俺の体ちぎれてないかな……。
「がんばったね。あとは家に帰って夕食作りだよ!」
悪魔は俺の顔を覗き込みながら可愛く励ましてくる。
「お前この状況見てそれ言うか? お前は悪魔か何かか?」
「ワシは悪魔だって……」
「あ、そうだった」
もう疲れて何も考えられない。おまけに服もびちょびちょだ。でも今はこの地面のひんやりとした温度が心地よい。
しばらくはこうやって……ゆっくり……して――。
って、はっ。俺寝てた? さっきまでは夕日がきれいな黄昏時だったのに、今はすっかり日が暮れて月や星が煌めく夜になっている。
ふと、俺は自分にかかっているある重さに気付く。さっきまでは横にいたはずの悪魔が俺の上であぐらをかき、腕を組んで眠っている。
それはまるで誰かから俺を守っているかのような態勢だった。
「そうか、お前、俺を安倍聖菜から守っていてくれたんだな。すこしは悪魔の評価を上げてもいいかもしれないな」
俺は彼女の頭を優しくなでる。さらさらとした髪は触っていてとても気持ち良い。このまま一時間は触っていられそうだ。
彼女も口元を緩めなんだかうれしそうだ。
「それじゃあ帰るぞ」
俺は眠っている悪魔を起こさないように抱きかかえ、人込みあふれる夜の街を通り、自宅へと帰った。
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「ようやくついたか……。なんか自分の家がこんなにも遠く感じた日は初めてかも」
「早く夜ご飯を作って! ワシはもうお腹がすき過ぎて死んじゃう」
「いっそ、死んでくれた方が楽なんだけどなー」
俺はそんな小言を言いながらドアのかぎを開け、ガチャッと軽い音を立てドアが開く。
「ただいまぁ~」
当然中からの反応はない。本当に俺の親は仕事熱心だなぁ。いつもいつも夜遅くに帰って来ては、朝早くに家を出る。
――そんな生活俺にはできそうにもない。そんな未来考えるだけで胃が痛くなる。
「それで、今日の夜ご飯はなに?」
「もう疲れたから適当に野菜炒めとかでいいか?」
「え~もっとちゃんとしたものがいい」
彼女は頬をふくらませ、不服そうに俺をポコポコ叩いて抗議してくる。
こういうところだけならば可愛い妹みたいなのに……。
「じゃあ、自分で作るか?」
「野菜炒めだーいすき!」
さっきまでの意思はどこに行ったのか手放しで喜ぶ彼女。
作れないなら始めから抗議しなければいいのに……。
俺は台所に立ち、材料を用意する。
材料はキャベツ、もやし、ニンジン、豚肉のみシンプルなもの。
俺はそれらを手際よく切り、炒めていく。部屋にはトントンと小気味よい音とたれが少し焦げた香ばしい香りが漂っていく。
「あっ、いい匂いがしてきた。もうちょっとで完成?」
「まあね、だから椅子に座って皿の準備をしておいて」
「わかった!」
「わかった……」
あれ? なんか声が二つで聞こえたような……。まあ、いいや。
夜ごはんが野菜炒めだけというのも少し物寂しく感じた俺は即席の汁も用意する。
とろろ昆布とお麩をお椀に入れ、醤油と白だしを少しかけた所にお湯を注ぐ。
――これで即席の汁ものが完成する。
少し質素な食事かもしれないかもしれないが、今日はこれで勘弁してほしい……。
「できたぞー! もう準備できた?」
「ばっちりだよ!」
椅子に腰かけている彼女は夜ご飯を今か今かと待っている。
「それじゃあ、食べるか。いただきまーす」
「いただきまーす」
「待って……。私の皿と箸がない……」
あれ? さっきこいつに準備したか聞いたときは、ちゃんとやったと言っていたような気がするんだが……。
「お前、ちゃんと準備したのか? 箸がないって言ってるやつがいるぞ」
「え!? でもワシはちゃんとお前とワシの分の皿と箸を……」
――おかしい。今ここには俺と悪魔しかいないはず。そして、机にはちゃんと皿や箸は二つ出ている。
椅子に座っているのは俺、悪魔、それと見たことのある黒髪の女。
――って女!?
「おい! お前どうしてここにいる!?」
「私は言った……逃げたって無駄なのに……って」
椅子に座っていたのは――安倍聖菜だった。
彼女は相変わらず無機質な声と表情でこちらを見てくる。
「た、確かにそうかもしれないけど、なんで俺の家に?」
「私は悪魔を消すのが使命……。対象の情報は知り尽くしてる……」
「ストーカか! 今すぐ出ていかないと警察を呼ぶぞ!」
「警察なんて、これでどうにかする……」
安倍聖菜はそういって机の下からジュラルミンケースを出す。
まさかお金!? 賄賂でどうにかするつもりなのか!?
ケースの中には――大量のお札……のような印刷用紙。
「……って、これただの偽札じゃないか!」
「違う……これは本物……。私が今朝刷ったから間違いない……」
「お前語るに落ちてるじゃないかぁぁぁ! 今朝刷ったって完全に自白だろ!」
「くっ、勘のいい奴……」
安倍聖菜は悔しそうにこぶしを机に叩きつける。
なんでそんなに悔しそうなんだよ……。お前が勝手に自供しただけだろうが……。
「それで、お前は出ていくか、警察のお世話になるか選べ」
「とっとと出ていけ!」
悪魔が俺に加勢する。まあ、あいつは安倍聖菜に一度消されそうになってたからな、無理もないよな。
「私は、ここに住む……」
「「はい?」」
俺と悪魔は彼女のあまりに突拍子もない答えに唖然とする。
こいつ今俺の家に住むって言った? いやいや、そんなわけない。いくら悪魔を消すのが使命だからって、そこまでのことはしないはず。
「ごめん、よく聞こえなかった。もう一度言ってもらってもいい?」
「私は、ここに住む……」
あ、どうやら聞き間違いではないようです……。