恋の始まりは更紗から
短編になります。
今日と言う日はなんて長い一日なんだろう。夕べはなかなか寝付けなくて、新聞配達のバイクの音とともにようやく眠りについたはずだ。出勤した後も全く時間が経たなくて、恒例の企画会議も上の空。
課長の「んもう、君たちい。そもそもその案は、以前にも似た物があったじゃない。いい加減、新しい風を吹かせて欲しいものだわね」 と、お決まりの言葉で締めくくられ、中身のない長い会議はやっとのことお開きとなった。
新しい風、新しい風とおっしゃいますが、何を言っても首を縦に振らないのは、課長、あなたでしょ? 競合相手の他社に出し抜かれようものなら、君たちがぼやぼやしてるからうちの社が遅れを取ってしまったじゃない、ホント使えない人たち、などと細い眉を吊り上げておっしゃるのも、もう聞きたくありませんけど。
未優奈はため息と共に立ち上がり、このチームの責任者として会議室の後始末に取り掛かった。
机を並べなおし、ブラインドを閉め、パソコンを抱えて会議室を後にする。課長のまとっていた香水臭が充満した部屋のドアをパタンと閉めた瞬間、またもや終業までの時間をどうやって過ごせばいいのだろうと悩みの種がむくむくと頭をもたげるのだ。
今日は三月十四日。バレンタインデーのお返しが、愛の言葉と共に大切な人に届けられる日だ。入社五年目にして、まさかこの日に思い悩むことになろうとは、誰が予想しただろう。
女子高から女子大に進学した未優奈にとって、バレンタインデーなど華々しい行事とはあまり関わりのない人生だったといえる。
高校時代、優しくてぽちゃっとしてて、笑顔のかわいい独身の先生に友だちと連名でチョコレートを贈ったのが最初で最後の経験。にもかかわらずその先生は、すぐに同じ学校の地味な家庭科教師と結婚してしまった。
ほんのちょっぴりだけど、先生のお嫁さんになれたらいいな、なんて思っていた自分が惨めだった。先生は、彼女と一緒にチョコレートを食べたのかもしれない……と思うと、それだけで胸が苦しくなった。
それからは義理チョコすら誰にも渡したことはない。大学時代に合コンで知り合った歴代の彼氏たちとも、なぜかバレンタインデーの直前に別れてしまい、渡すチャンスがないままこの歳になってしまった。
そして、先月の二月十四日。ついに人生二度目のチョコレート祭りへの参加に名を連ねてしまうことになる。
もんもんとしながら、白くて長い廊下を歩いて行く。未優奈の所属する部署は、この下の階になる。エレベーターを使うほどのこともない。廊下の突き当たりにある階段で降りようと一歩ふみ出したところで出会ってしまった。
「う、うわっ!」
下から上がってきたその人は、驚きのあまりのけぞる未優奈をギロリと睨んだあと、口元だけ含み笑いを浮かべ立ち去っていく。
こっちは急に出くわしたものだから、びっくりして階段を踏み外す一歩手前だったというのに、何? あの余裕綽々な態度は。
未優奈は自分の意志とは裏腹に、ドキドキとときめく心臓には出来る限り気付かないフリをして、再び階段を下りようとしたその時だった。
「……更紗で」
いつのまにか戻ってきていた彼が未優奈の耳元でそう言った。更紗で、と。耳に彼の息がかかり、次第に頬が上気してくるのがわかる。
「わかった……」
そう言って振り向いた時にはすでに彼はそこにいなくて、こつこつと歩く足音だけが白い廊下にこだましていた。
仕事が終わったのは八時ごろ。今日の企画会議の内容をまとめ、次回の案件を考えているとこの時刻になってしまった。本当はもっと早く出たかった。けれど課長の目が光っている間は身動きが取れない。
仕事をするでもなく、イライラとした様子でオフィス内を歩き回っていた課長も、ようやく帰り支度を始める。
更衣室で課長と一緒になるのだけは避けたかった。あら、今からどこに行くの? お食事? デート? ふふふ、あなたがデートなんてあるわけないわね。お一人様でお食事かしら? などと毎回絡まれるのが苦痛だった。
未優奈は化粧室に逃げ込み、髪とメークを整えた。たっぷり十五分は時間を稼げただろうか。あとは更衣室に荷物を取りに行くだけだ。
階段のところで彼が言った更紗とは、一度だけ彼と一緒に行った料理屋の名前だった。居酒屋でもなくカフェでもない。その中間のような静かな空間を提供してくれる店だった。
二月の初めにたまたま仕事の帰りに一緒になり、夕飯を食べて行こうと立ち寄った店だったのだ。
そこで仕事の話から恋愛談義になり、バレンタインデーなんて私には関係ない、あげてもどうせフラれるだけだとすねてみたところ、彼が失礼にもほどがあるほど笑いころげ、俺がためしに受け取ってやるから将来の本命のために練習してみろと、想定外のことを提案してきたのだ。
そこでムキになって彼に噛み付いたところで自分がより一層哀れになるだけだと悟った未優奈は、その申し出、受けて立ってやろうじゃないのと、気合を入れてチョコレートを選び、彼に渡したのが先月の出来事だ。
何を隠そう未優奈は、入社して二年目くらいから、彼のことが好きになっていた。同期入社の彼は大学院を出ているので二つ年上だ。仕事の悩みを相談したこともある。アプリを使いたがらない彼とは文字のやりとりではなく、常に電話で話すことが多い。年上なだけあって、彼のアドバイスはいつも的確でぶれない。そんな彼との関係を壊したくなくて、好きだと言う気持ちをずっと封印してきた。
その彼が練習台になってくれるというのだ。願ってもないチャンスの到来に胸躍る日々だった。これくらい夢を見させてもらっても罪はないだろう。
そんな未優奈の思いを知ってか知らずか、彼は二週間後、喜んでチョコレートを受け取ってくれた。そして今日、三月十四日を迎えたというわけだ。
あれは練習だったのだから、今日は何も期待してはいけないと自分に言い聞かせるものの、やはり気になって仕方がない。
昨日まで、彼は何のリアクションも起こさなかった。つまり二月十四日ですべて完結したということだろう。
けれど義理深い彼のことだ。たとえチョコレートの一粒だけであってもお返しがあるかもしれない。そう思っているところに更紗で会おうとの誘いがあったのだ。
きっとこれで、バレンタインごっこも終わりだと彼に告げられるのだろう。またいつもどおり、同期として分をわきまえた付き合いが続いていくのだ。
未優奈は最後にもう一度髪を撫でつけ、化粧室から出た。更衣室に向かおうと歩みを進めると、曲がり角の向こうで声がする。
課長のわざとらしく甘い声ともうひとつはどこかで聞いたことのある低い声。そうだ。さっき未優奈の耳元でささやいたあの声だ。
「いえ、今日はこの後、約束がありまして……」
課長に誘われたのだろうか。彼のひどく恐縮した声が低く響く。
「そうなの? せっかくいいお店に連れて行ってあげようと思ってたのに、残念だわ。ねえ、庄之川君、いつになったら私と飲みに行ってくれるのかしら」
「乃木崎課長、申し訳ありません……」
「そんな、謝らないでよ。そうだ、その約束って、あなたの彼女に会うのかしら? だって、今日はホワイトデーよ」
「…………」
「あら、もしかして……。それって、私と飲むのを断る言い訳? 年上の私とじゃ、嫌なのかしら」
「そういうわけではありません。乃木崎課長、本当に約束があるんです。ですので、今夜は……」
「じゃあ、そのお相手の方も一緒に私の紹介する店に行くってのはどう? その方、あなたの彼女じゃないんでしょ? なら、別に一緒でもいいんじゃない?」
「そうですね、まだ彼女ではありません。でも今夜きちんと話をするつもりです。彼女に私を受け入れてもらえるよう、この気持ちを伝えるつもりです。彼女のことを……。愛しているんです」
「ぷっ……。あははは、なんてこと言うの? 愛してるだって? まあ、安っぽい言葉。わかったわ。あなたの思うとおりにすればいい。ああ、またフラれちゃった。じゃあね」
「課長、ちょっと待って下さい。あの、これ、バレンタインの……」
「ああ、お返しね。いらないわ。どうせ義理でしょ? 本命なら受け取るけど」
「…………」
「じゃあね。そのお相手の方と素敵な夜を」
立ち聞きするつもりはなかったのに。そのまま二人の横を何も知らないフリをして澄まして通り抜ければよかったのに……。
聞いてしまった。彼の気持ちをすべて聞いてしまったのだ。
今から会う相手とは自分のことだ。つまり彼が愛している相手というのは未優奈ということになる。
こちらに近寄ってくる課長の気配を感じ、未優奈は足音をしのばせて化粧室に舞い戻る。そして、完全に課長の靴音が遠のいたのを確認して、廊下に出た。
彼ももうそこにはいなかった。
さっきのことは本当なんだろうか。真実は更紗に行けばわかる。
誰もいない更衣室に入りバッグと上着を手にした未優奈は、じわっと溢れそうになる涙をこらえて、エレベーターホールに向かった。
庄之川視点も更新しました。3/27
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