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朱音ノ悪鬼調伏譚  作者: 蒼崎 れい
第参ノ巻~その者、天覇する異郷の民~
46/55

其ノ捌:無慈悲なる警告

 眠い。とにかく眠い。ものすんご~く眠い。

 朱音はあくびをかみ殺しながら、朝一の講義を受けていた。

 原因はもちろん、かれんのお手伝い…………ではない。

 十二時を過ぎて星怜大に向かって飛んでいると、浄化の仕方が中途半端で逆に邪気を集めてしまい、どうしようもなくなっていた中学生二人を助けていたからである。

 帰りは自然と徒歩になり、朱音とかれんは中学生二人に色々とレクチャーした。中学生二人は、危ないところを助けてくれた朱音とかれんの話を、うんうんと頭に刻みつけるように聞いていた。

 会話に夢中になっていたせいで気付かなかったが、徒歩のおかげで校門をくぐったのは一時過ぎ。

 その後、風呂に入って道具の手入れや補充、初等部の練習教材の確認、その他もろもろのお陰で就寝にありつけたのが午前四時前だったのであった。

 だが、いくら就寝時間が遅くとも、起床時間を遅らせる事はできない。

 寮生組である術者の生徒達は、朝夕の食事の時間が決まっているのだ。時間に間に合わなければ、食事にありつけないのである。

 携帯電話のアラームで七時半過ぎには目を覚ますと私服に着替え、荷物を持って学食へ。

 睡魔と戦いながら朝食を胃袋にかきこんだ朱音はそれら諸処の理由により、現在進行形でマジで落ちちゃう(間違っても恋ではない)五秒前なのであった。

「草壁さん、具合でも悪いのですか?」

 心配になった鈴子は、首をこくこくしている朱音にささやきかけた。

「ふわぁぁぁ……。ううん、ちょっと夜更かしし過ぎちゃってさぁ。眠いだけ」

 朱音はあくびをかみ殺しながら、鈴子に返事する。さすがに内容までは言えないが、鈴子はそれで納得してくれた。

 そして朱音は、先ほどの鈴子を真似るかのように隣を向く。

 そこにはぐったりと机によりかかる、沙織の姿があった。

「うぅぅぅ、のどがヒリヒリするよぉ~」

 高校の合唱部の流れで入ったクリスタルコール部であるが、部員不足との理由により入部してようやく一ヶ月の沙織まで文化部の発表会――皐月祭――に繰り出される事になってしまったのであった。

 明後日にはいよいよ本番というのもあって、ここ最近放課後は毎日部活に顔を出しているそうだ。

「これじゃあ、本番までに声枯れちゃうよぉ」

 特に各パートの重なる部分が難しく、沙織はよくそこで別パートに引っ張られて音を外してしまうらしい。

 歌詞の方はようやく暗記できたようだが、そちらにもまだ不安が残るそうだ。

 それならいっそ今回は止めればいいのにとも思うのだが、先輩方の熱意についつい頷いてしまったらしく、本人も一度した約束は反故にできないと絶賛奮闘中なのであった。

「私、沙織さんの歌楽しみにしていますから、頑張ってくださいね」

「そうよ。ふぁ~~、んん~。私も見に行くんだから。茅原さんのかっこいいところ」

「もぉ、そんな事言わないでよぉ。緊張しちゃうじゃない」

「君らなぁ、真面目に聞かんのなら外に行け外に」

 担当の先生は、呆れた様子で注意を促す。そして再び、自作のプリントを読み始めた。

 今受けている講義は、いわゆる民間伝承について、天原市周辺を中心に全国各地の伝承を比較・研究するといったものだ。

 面白いのは面白いのだが、先生のやる気がほとんどないのもあって、室内は半ば無法地帯となっているのである。

 それでも、起きて聞いているだけマシな方だ。涼子の話によれば、日本文学科ではクラスの半分以上が寝ている、もしくは内職という名の課題をしている講義があるらしい。ちなみに、涼子も七割方その講義では内職をしているとか何とか。

 朱音は眠たい目をこすりながら、目の前のプリントへと視線を落とした。

 四月の末から、講義では『鬼』というテーマを扱っている。

 陰陽師的には、鬼とは人に害を成す霊的存在全般を指すが、一般的には角を生やして虎柄の腰巻きと金棒を持っているイメージが強い。日本では、最もポピュラーな妖怪の一つである。

 なぜ講義のしょっぱなからそんな事に触れているのかと言えば、天原市とその周辺地域には、鬼にまつわる言い伝えや伝承・伝説が多いのだそうな。

 そしてプリントの最後の方に書かれていた一文に、朱音は思わず目を丸くした。

『また天原市の礼ヶ峰(れいがみね)町を中心とした地区では、天候を操って人々を苦しめたとされる、羽を持った鬼(●●●●●●)の伝説が残されている。』

 礼ヶ峰町とは、星怜大とその周辺の地域の町名だ。

 つまり、羽を持った鬼というのはつまり……

 ――これってきっと、かれんちゃん達の事なんだろうな。

 翼の民(フリューゲラ)と呼ばれる翼を持った人達は、こんな出所すらわからない資料にも記載されているほど昔からいたようだ。

 そんな風に朱音が感慨にふけっている間に、プリントは次に進む。

 それ以降、羽を持った鬼の言い伝えは、一文たりとも出てこなかった。天原市とその周辺地域の鬼にまつわる内容が終わると、まるでタイミングを見計らったかのようにチャイムが鳴った。




 本日の英語の講義は休講。

 担当の先生が出張らしく、来週の土曜に補講をするらしい。

 残念ながら、朱音は来週末に仕事が入っているので、欠席一が確定してしまったわけだ。

 いや、代わり身を使えばいけるかも……。

 というわけで、涼子を加えた四人は、普段なかなか来られない学食に来ていた。

「ほむほむ、さおりんもなかなか大変ですなぁ」

「そうなのよぉ。いくらなんでもムチャぶりすぎるでしょ、りょうちん」

 ここ最近の沙織の話を聞いた涼子は、ふか~く頷いていた。

「二人とも、いきなり馴染みすぎでしょ」

 そんな沙織と涼子を向かいで見ながら、朱音は微妙な視線を向ける。

 沙織と涼子がまともに話をするのは、これが初めてのはずである。あったとしても、朱音を介して一、二分話すぐらいしかした事がない、はずなのだが……。

 会話を始めて十分も経たない内に、二人は互いをさおりん、りょうちんと呼ぶ仲になっていた。

「草壁さん、そろそろあれを」

「あ、うん」

 隣の鈴子が、耳元でささやいてきた。朱音もそれに応じて、鈴子に頷き返す。

 確かに、タイミング的には今がよさそうだ。明日は前日の準備等で、時間がとれないかもしれない。

 朱音と鈴子は自分のかばんに手を突っ込み、事前に準備していた物を取り出した。

「沙織さん」

「ん、何? 鈴ぅ」

「実は、渡したい物があるんです」

 鈴子に目線で合図を送られて、まずは朱音から用意した物を沙織に差し出した。

「昨日、五十嵐さんから頑張ってる茅原さんを応援したいってメールもらってね」

「え、うそ。これぇ、私に?」

 そう言って渡されたタッパーの中には、クッキーが入っていた。

「すぉごい! ネネっち、お菓子とか作れるんだ!!」

「知り合いに、だいぶ手伝ってもらったんだけど、ね……」

 だいぶ、とううよりもほとんど、と言った方が正しいのだが。

 そう、昨日夕食の準備をするかれんに教えてもらいながら、朱音はクッキーを作っていたのである。

 残念ながら、朱音の料理スキルは餓死しない程度に自炊できるくらいで、とてもじゃないが誰かに食べていただけるようなレベルではない。

 かれんの助力がなければ、百パーセント完成していなかったはずである。どころか、まず作ろうともしなかったであろう。

 本当、翼にもふもふさせてもらったり、お菓子作り手伝ってもらったり、かれん様には頭の上がらない朱音であった。

「私からは、こちらの喉に良いらしいお茶を」

「うわぁぁ、このカン、すごぃ高そぅ」

 沙織の言うように、鈴子が持ってきたのは、いかにも高そうな缶に入った紅茶の茶葉だった。

 クッキーに紅茶とは、なかなか優雅なティータイムを過ごせそうな組み合わせだ。これが世に言う砲火後ティータイムか、とか涼子が言っているのはとりあえず無視の方向で。

「ありがとうね、鈴、ネネっち。私、皐月祭がんばる!」

「ぐぬぬ……。では、あたくしからは、こちらのポテチビッグサイズを……。ちょっと食べちゃってますけど」

「いいって、りょうちんは知らなかったんだし」

「しかし、これではあたしの気が収まらんのですよ、さおりん殿!」

「気持ちだけでも嬉しいから。だから、ポテトはみんなで食べよう? 私一人じゃ、絶対に食べきれないから」

「わかりました。今回は何もできませんでしたが、皐月祭にはさおりん殿の雄姿、是非見に行かせて頂きます!」

 あんまり強く発言する涼子に、沙織は少し苦笑気味である。

 まあ、よく知らない人ならいざしらず、知り合いに聞かれると無性に恥ずかしくなるようなアレなのであろうが。

 それでも、沙織は喜んでくれたようで、朱音も鈴子もよかったと一安心。あとでかれんにもお礼を言わなければと思う、朱音なのであった。

「時にさおりん、クリスタルコール部って、何時くらいまで練習してんですか?」

「先週までは六時に終わりだったけど、今週は七時過ぎまでやっててさ、外けっこう暗いんだよねぇ」

「夜は気を付けてくださいね、沙織さん。前にニュースで『辻斬り通り魔事件』っていう通り魔事件が近くで起きていると報道してましたから」

 鈴子の口にした事件の名前に、朱音と涼子は敏感に反応した。

「ふぇ~、そんな事件が起きてたんだ。でも、辻斬りってなんか時代劇っぽいね」

「警察の方からは詳細について発表されていないのですが、現場の目撃者らしい人が、個人ブログで『傷は刀のような長い刃物で斬られたみたいだ』と証言していたのが、発端みたいですよ。本当か嘘かわかりませんけど」

「カタナって、普通に法律違反じゃん!」

 それを言えば、朱音や涼子に美玲なんかも銃刀法違反でお縄にならなければならないのだが、それはそれとして。

 その犯人を現在捜索中の朱音の脳裏に、嫌なイメージがよぎった。

 もし、夜遅くまで練習して、帰宅途中の沙織が襲われたら。あまりに鮮明すぎるイメージに、胃の奥がムカムカしてくる。

 ――させない、そんな事。絶対に。

 元から強い力を持っているのも災いして、朱音は血を見る機会も多い。

 星怜大で起きた二件ほどではないにしろ、危ない任務もいくつもこなしてきた。

 だが絶対に、血を見るのに慣れたいとは思わない。

 頼まれたからではなく、自らの意志で絶対に犯人を捕まえよう。

 決意を新たに気合いを入れ直したところで、朱音は周囲からの視線に気が付いた。

「ネネっち、今すんごい怖い顔してたけど、私変な事言ったかな?」

「もしかして、知り合いの方が……!? すいません、私ったら不謹慎な事を」

「違う違う、そんなんじゃないって! 単純に、許せないって思っただけだから!」

 自分では自覚がないのだが、そこまでハッキリと顔に出ていたのであろう。

 戦闘中に気を張っている時には弱みを見せないように気を付けているのだが、平時はそうもいかないようだ。これは、直した方がいいかもしれない。

「さすが、正義感の塊朱音さん。通り魔の犯人が許せなかったんですね。そこにシビれます! あこがれますよ! もういっそ抱いてください!」

「涼子さん、恥ずかしいからそれ以上言わないで」

 周囲の人からの視線が痛いので。

「はいはい。まぁ、それはそれとして、そろそろお昼にしませんか? 早めに行かないと、料理できるの遅くなっちゃいますよ?」

 涼子の機転で、二人の注意を逸らす事ができた。とてつもなく恥ずかしい思いはしたが。

 一般人と魔術師が互いを知り合っているのなら、もっと堂々と話す事もできるのに。でも、知れば知るだけ危険な目に遭う確率は増え、常に不安を抱いたままの生活を余儀なくされる。

 有史以来解決のしようがない二律背反に、朱音は思い悩むのであった。

 ちなみに、この後初めて涼子の大食いを目の当たりにして驚いた沙織と鈴子であるが、それはまた別の話である。




「っていう事になってね、涼子さんったら、食べかけのポテチをあげようとしたのよ。あげるならせめて、新品にでもすればいいのに」

「食べかけをプレゼントとか、すごく涼子先輩っぽいですね」

 空中を警戒中の朱音は、クッキー作りを手伝ってくれたかれんに、昼間の事を報告していた。

 今頃沙織は、自室でゆっくりしている事だろう。クッキーや紅茶で、練習の疲れが少しでも取れてくれれば。

「でもクッキー、手伝ってくれてありがと」

「いえいえ、あれくらいならお安いご用です」

 今日は気温がやや高いせいもあって、飛行中でも今までより寒くない。

 涼風――と呼ぶには荒っぽ過ぎるきらいはあるが、なかなかに心地いい。

「皐月祭でしたっけ、週末のイベントって」

「うん。文化系サークルの発表会みたいなのだってさ。文化祭とはまた違うんだって」

「高等部以下の文化系の部活ではそんな話聞いた事ありませんし、大学だけなんですね。文化祭は、中等部以上の合同なのに」

「ただでさえ過密日程だから、あんまりそっちに割く時間がないんじゃないの? 私、大学入る前まで学校って行ってなかったから、学校が忙しいのかどうかって聞かれたらわかんないけど」

「そう言えば、朱音先輩星怜大来るまで、学校行ってなかったんでしたね。う~ん、確かに初等部も中等部も、忙しかったといえば忙しいかもしれませんけど、楽しかったイメージが強いですね。それまでは寮も四人部屋で、すっごくにぎやかでした」

「四人かぁ……。はぁぁ、私もルームメイト欲しい。部屋に来るの、主に涼子さんと、時々西行先輩が来るくらいだし」

「あぁぁ、なんか持ってきたアニメずっと見てそうです」

「まさに、その通りでございます」

 そのお陰で、朱音も最初のころに比べて随分と深夜アニメに詳しくなってしまった。

 例えば来期の夏アニメ情報とか、声優さんの名前とか、アニソンとその歌手とか。

 しかも最近、純粋に楽しみにしているアニメもあって、だんだんと毒されている感覚まである。

 良い事なのか悪い事なのかはさて置き。

「でも、けっこう面白いのもあるんですよねぇ」

「反面、ダメなのもあるけどね……。深夜だからって、アレはダメで……!?」

 と、その時、朱音の感覚が異質な気配を捉えた。

 今の位置からだとかなり距離があるが、かれんの速度なら。

「かれんちゃん、駅前に向かって!」

「見つけたんですか!?」

「怪しい気配。嫌な予感がする。急いで」

「わかりました!」

 途端に、かれんはぐんと速度を上げた。

 これまでの飛行がまるで子供だましに思えるほどの、圧倒的な速度。前面からまるで滝にでも打たれているかのように、風の壁が全身を叩きつけてきた。

 眼下に映る光点は長い尾を引き、市街地の明かりが目に飛び込んでくる。

 朱音が詳細な方向を指示し、かれんはそれに従って翼を大きくはばたかせた。




 朱音の感覚は、どうやら間違いではなかったようだ。

 いや、むしろ間違いであってくれた方が、どれだけよかったか。

 現場は、悲惨、という言葉がしっくり来るほどの惨状であった。

 かれんは空気を操作して光学迷彩で姿を隠すと、人だかりのすぐそばに着陸した。

 朱音はすぐさま人垣をかきわけ、中心へと向かう。かれんも翼をしまい、目と髪の色を元に戻して朱音に続く。

 数秒遅れで朱音の隣まで来たかれんは、初めて見た現場の風景に思わず口元を覆った。

 一人は肩から腰にかけて背中をばっさり、もう一人は腹部を押さえてうずくまっている。どちらとも傷口が深く、出血の収まる気配がない。

 朱音とかれんは人垣から中へと入り、倒れている二人へと駆け寄った。

「救急車は!」

「さ、さっき電話した。もうすぐ来てくれるはずだ!」

 朱音は周囲に怒鳴りながら、季節外れのフリースを脱いだ。そしてそれを、背中を斬られた男性の傷口に当て、ぐっと押さえる。

 同様にかれんもチュニックを脱ぎ、腹部を斬られた男性の傷口に当ててぐっと押さえつけた。

 人がこんなにいなければ、治療系の術で傷を癒やす事もできるのに。

 統一協会や日本魔術師連盟の定める規約のせいで、それもできない。

 魔術の存在そのものを、一般人に知られてはならない。

 それはそうだ。こんな力、普通の人からすれば目に見えない大量破壊兵器と同義。隠しておくに越した事はない。

 だがその規約のせいで、今ここで死に直面している命を、助けられる命を助けられないのも、また事実である。

 ――何のための、何のための力なのよ!

 歯がゆい。力があっても、使えなければ無いのと同じだ。

「しっかり、意識を持って! もうすぐ救急車来ますから!」

 強化された朱音の聴覚は、既に救急車のサイレンの音を捉えていた。

 あと一分もかからないだろう。

 これだけの都市だ。

 急患を受け入れてくれる病院も、すぐ近くにあるだろう。

 今の朱音やかれんに、止血以外にできることはない。

 と、その時、朱音の感覚が例の気配を捉えた。

 いる、この人混みの中に。

 もしかして、捜索がバレていたのだろうか。

 だからわざわざ、今まで活動範囲外だった人口密集地に足を踏み入れた?

 だとしたら、この状況はマズい。今もどこかから、自分達を狙っているのかもしれない。

 これだけ近くに気配があるのだ、かれんも気付いているはずである。

 どこからだ、どこから来るのか。

 全方位へと、朱音は神経を研ぎ澄ませる。

 しかし、朱音の予想とは正反対に気配は遠ざかってゆく。

 そう、まるで何もできない朱音達をあざ笑うかのように。追いかけられるものなら追いかけてみろ、とでも言うように。

 選択肢は、確かにあった。

 この場をかれんや別の人に任せて、犯人を追う選択肢も。

 だが、朱音にはできなかった。

 何もできずにうずくまっている、昔の自分を見ているようで。

 そしてもう一つ、犯人を捕まえる事より、今は目の前にいるこの人を助けたい。

 気配が完全に消えた頃になって、救急車が到着した。

 救急隊員は素早く二人をストレッチャーに乗せ、車内へと運び込む。

 そして通報した人を乗せ、病院へと向かって走り出した。

「かれんちゃん……」

「はぃ……」

「この血、どうしよっか」

 二人はただ、その場に立ち尽くす事しかできなかった。




 本当ならば、あのまま逃げた犯人を探すべきだった。

 気配は完全に断たれてしまったものの、近くにいるのは間違いないのだ。

 しかし、予想していた覚悟に反して、“人の血”というのはショックが大きかったらしい。

 その瞬間、二人は完全に戦意を喪失していたのだ。思っていたのはただ、襲われた二人の安否のみ。

 完全に気の抜けたかれんを介抱しながら、朱音はタクシーを拾って星怜大まで帰った。運転手には嫌な顔をされたが、万札を数枚払って黙らせた。

 校門をくぐると、朱音はかれんを背負って肉体強化で一気に寮を目指した。

 途中で誰にも会わないよう、気配を探りながら。そして誰にも会わないまま自室にたどり着くと、朱音はかれんを連れて部屋に入る。

 入寮して初めて、ルームメイトがいなくてよかったと思った。

 こんな血だらけの姿など誰にも見せられないし、かれんの事を考えれば、今は朱音が近くにいた方が落ち着けるだろう。

「お風呂、入ろっか」

「…………」

 かれんの服を脱がせ、先に湯船へと浸からせた。

 朱音はとりあえず手を洗ってから、かれんの分の着替えを用意する。下着類は用意できなかったので、下着なしで着てもらうしかない。

 諸々の準備が終わってから、朱音はようやく浴室へと足を踏み入れた。

 かれんは、朱音が出て行った時の姿勢のまま、一ミリたりとも動いていなかった。

 頭と身体を一通り洗ってから、朱音はかれんを後ろから抱くような姿勢で浴槽につかる。

 何も言わずに、朱音はかれんの手を洗った。

 こびりついた血糊が溶け出し、浴槽の色が薄赤色に染まっていく。

 それと同時に、わずかばかりの血の臭いも。

「朱音、先輩」

「何?」

「私の考え、すごく甘かったみたいです」

「うん。私も忘れてた。嫌なもん、思い出さされたわ」

 数度の経験しかないが、それでも朱音は現場で人の血というものを見た事がある。ここ一年の単独で活動していた時期にはなかったので、ほとんど忘れていたが。

 だが、活動間もない頃の出来事だけに、忘れられないほど強い印象も残っている。あの色を、あの臭気を。

「先輩は、経験あるんですか?」

「まあ、ちょっとだけだけどね。妖魔の類に襲われて、居合わせた術者が。まぁ、どんな相手でも油断すんなって教訓よ」

 それを聞いて、かれんは再び黙り込んだ。

 きっと心の中で、必死に整理しているのであろう。自分は今、人の生き死にを賭けた重大な任務を任されている、という事を。

 本来ならば、とうの昔に学園に申し出ていなければいけないのだ。

 絶対中立地帯のに指定されている天原市の星怜大に在籍する限り、外部の者は何があろうと生徒に干渉してはならない。

 だが実際は、完全にその通りにはできるはずもないのである。

 だから、かれんは悩んでいる。

 これ以上被害の出る前に学園に伝えて、高位術者によるい一斉捜査にかかるか、犯人に気取られないように内密に処理するか。

 今回は、二人でも気付かれてしまったのだ。それ以上の人数でかかれば、絶対に感づかれる。

 そうすれば、いったいどれだけの被害者がでるか。

 数字だけではない。生の経験をしてしまったかれんには、もう一人の犠牲者も出せるはずがない。

「朱音先輩」

「何?」

「絶対、次で捕まえましょう」

「えぇ。これ以上被害が増えるのは、絶対に避けないと」

 湯船の中で、二人は固く手を結ぶ。

 強者に対する不安で、生の生死を目の当たりにしてしまった恐怖で、かれんが押しつぶされてしまわないように。

 朱音はつい数日前に自分が涼子にしてもらったことを思い返しながら、かれんを抱きしめた。

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