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朱音ノ悪鬼調伏譚  作者: 蒼崎 れい
第弐ノ巻~うたかたの命、とこしえの想ひ~
23/55

其ノ参:講義開始

 一泊二日のオリエンテーションから、一週間が過ぎた。

 翌日の金曜日から高等部が入学式をやっているさなか、朱音や涼子達の在籍する大学では今年最初の講義が始まっていた。

 最初の方こそ新しい環境にわくわくしていた朱音であったが、三日も経てばそんなものはどこへやら。

 特に面白くもない講義では、しっかりと睡眠学習をするようになっている。

 今朝もしっかり朝食を抜いてきた朱音は、九時一〇分開始の日本文学の講義を半分以上寝て過ごした。

 というのも、今日の夜に備えて寝溜めしているのだ。

 今日は通常シフトで、初めて朱音が夜間巡回に出かける日なのである。

 それなので、今日は黒い長袖のプリントティーシャツにチェック柄のミニ丈スカート、そして白地に花吹雪の黒い柄が舞ったニットカーディガンというコーディネイトだ。

 動きやすさを最優先するために、カーディガンの丈は短め。

 足下は、ヒール・サンダルは厳禁で、運動靴・スニーカーと動きやすい靴限定だったりする。

 まあ、激しい運動を伴うのかもしれないのだから、当たり前といえば当たり前だ。

 もっとも、オシャレにあまり気を回せない朱音にしてみれば、ある程度限定されていた方が選びやすいのであるが、やっぱり女の子としてはオシャレをしたい気持ちもあったりするので、ちょっぴり残念。

 それはともかく、春休み中に涼子に付いて行ったり、人数不足で駆り出されたりもあったのでこれが初めてというわけでもないのだが、何かと緊張はするものである。

 確か同伴は高等部の二年生で、見覚えのある名前だったような気がするが……。

 この眠気の中思い出すのも億劫なので、朱音は再び意識を微睡(まどろ)みの中に沈めていく。

 が、残念な事に朱音の思い通りにはいかなかった。

「草壁さん、早くノート写さないと、先生黒板消しちゃうよ?」

「はっ!?」

 隣から聞こえた声に、朱音は大慌てでノートにシャーペンを走らせる。

 オリエンテーションの日、朱音の隣にいた瀬野だ。本名を、瀬野宏康(ひろやす)というらしい。

 まだ男友達がいないらしく、講義中はよく朱音の隣にやってくるのである。

 朱音としても、女の子の話題にはまだまだ付いていけないので、その辺りを察して話題を選んでくれる瀬野は、ありがたい存在だ。

 まったく、一般人の偽装も大変である。

「ふぁ~っ……。ありがと」

「どういたしまして」

 眠気にあくびをかみ殺す朱音を見ながら、瀬野は自慢の爽やかスマイルを浮かべる。

 自分のだらしない顔を見られたのが恥ずかしくなって、朱音はぷいっと反対を向いた。

 それから朱音がちらりと横目に瀬野を見てみると、真剣に教科書を読んでいた。

 朱音が恥ずかしがっているのには、全く気付いていない様子である。

 涼子とは別の意味で、瀬野にも振り回されてばかりだ。

 涼子の場合はまだ術者(こっち)側なので気を使わなくても何ら問題ないのだが、瀬野は何も知らない一般人である。

 そのためか、涼子とは気疲れの方向性が根本から異なってくるのだ。

 なんだかむず痒いような気持ちに悶々しながら朱音がノートを取っていると、講義終了を知らせるチャイムが鳴る。

「では、今日の講義はここまで」

 朱音の奮闘も虚しく、ノートへの記入が七割近くになった所で、黒板の板書は綺麗さっぱり消されてしまった。




 朱音は足早に、次の教室へ移動していた。

 理由はもちろん、瀬野に借りたノートを写すためだ。

 普段ならそこまで急ぐ必要はないのだが、今日はそうも言っていられないのである。

 なぜなら、次の講義は英語。

 一般教養科目でありながら必修のこの科目は、朱音のよく知る――常時スーパーハイテンション状態にある――あの人物と同じ講義室になってしまったのだ。

 隣に座られてしまってはもう、ノートを写すなんて作業は到底できない。

 朱音はいつのも倍速で歩いて到着すると、一気に扉を開いた。

「あっかねさ~ん! こっちですよ~!」

 どうやら、少々手遅れだったらしい。

 学内でも大型の部類に入る講義室の中間辺りに、サイドテールとジャージがトレードマークの陰陽師が座っていた。

 大学生にもなって大声を出して手を振るとか、今時天然記念物並に珍しいだろう。

 他にも来ていた数名の学生が、何事かと一斉に振り返っている。

「おはよ、涼子さん」

 そんな人物と知り合いと思われるのは、本来なら恥ずかしいと思う所なのだろうが……。

 朱音は諦めにも似たため息をついた。

 それをいまさら涼子に言った所で、どうしようもない。

 機関銃並によくしゃべる涼子が隣にいては、最早ノートの書き写しは不可能となってしまった。

 無視すれば恐らくボディタッチも敢行してくるだろう事は、容易に想像できる。

 夜間巡回までに終わらせようと後ろ向きな決意を固めて、朱音は涼子の隣へと向かった。




 朱音は荷物を机の上に乱暴に置くと、涼子の隣にどっかりと腰を降ろした。

 とても十八歳(あと一ヶ月もすれば十九歳)には思えないような、重苦しい空気をまといながら。

「いやいや、やっと普通の講義で朱音さんと巡り会えましたね。これも天のお導きかなんかですかね? とにかく、あたしゃあ嬉しいですよ、ほんと」

「普通じゃない講義じゃ、毎日顔合わせてるでしょ。あれ、けっこう疲れるんだから、今から体力使わせないでよ」

「ふむ。それもそうですね」

 涼子にしては、珍しく納得したようだ。

 これならば、ノートの書き写しも、もしかしたらできるかも……、

「所で、朱音さん今夜巡回デビューでしたね。頑張ってくださいよ、色々面倒だとは思いますが」

 と思ったのも一瞬の事、その半秒後には別の話題を振ってきた。

 しかも、一般人のいる前で術者(こちら)側の話題を。

 朱音はこれ以上涼子がいらん事を言っても困るので、右手で涼子の口を押さえこんだ。

 それも、ちょっとやそっとでは外れないよう、肉体強化を施して。

「むぐむむんむぐ!」

 もはや人語ですらない言語を発する涼子は方っておいて、朱音は残った左手で教科書と筆箱、そしてルーズリーフを取り出す。

 簡単な日常会話程度なら実家叩き込まれているので、辞書の類は必要ないだろう。

 それを思うと、幼い頃は苦痛でしかたなっか英語の勉強も、やっててよかったと思える。

 一応は買わされたのだが、一つでもそうとう重いので持ってきてはいない。

 肉体強化系の術者はよく間違われるのだが、彼等は別に元々の筋力が強いわけではない。

 術によって一時的に筋力を上げているだけなので、術を解けば普通の人と同じような重さを感じるのである。

 ただ、朱音や涼子のような近接戦が可能なレベルになると、筋力の上がり方も桁がおかしくなってくるので、そういう風に思われがちなのだ。

 それに、肉体強化を始めとした長時間連続使用する術は、霊力の流れる経絡系に強い負担がかかる。

 この負担が一定量を超えると、筋肉痛と似たような経絡痛が起きるので、肉体強化の使えるの術者は、普段から筋力を上げているわけではない。

 術を維持する方が精神的に疲れる上に、下手をすれば仕事にも影響が出てしまう。

 そんな危険を犯してまで、日常生活で術を使うようなバカはまずいないというわけだ。

「んん! んむむぐむぅううう!」

 と、あまりに騒がしいので、朱音は右手の伸びる先に目をやった。

 すると、なぜだか顔面を蒼白にして、必死に腕を引っ剥がそうとする涼子の姿が……。

「っえほっ!? あ゛ぁぁぁぁ、死ぬかと思ったぁ」

「っご、ごめん! ……大丈夫?」

 大きく深呼吸して空気を取り込む涼子に、朱音は心配そうに声をかける。

 涼子は掌を前に突き出して大丈夫のポーズを取るのだが、どっからどう見ても全然大丈夫そうではない。

「ちょっと鼻風邪引いちゃいまして。熱も出てないですし、のどもそんな痛くないんですが、鼻がつまっちゃって。息が」

 と、涼子はかばんの中からティシュ(箱のやつ)を取り出して、ちーんと鼻をかむ。

 口をふさがれていたせいで、息が出来なかったようだ。

 危うく涼子を窒息死させる所だった朱音は、割と真剣に冷や汗をかきながら、若干静まり返ったのをいい事に瀬野に借りたノートを写し始めた。

「それ、なんの講義ですか?」

「日本の純文学についての講義。私よりむしろ、涼子さんの日文科でやる事だと思うんだけど」

「まあ、先生が違うしやってる事も微妙に違うんでしょうから、そこは突っ込まない方向で」

 じゅるる~、と涼子は再び鼻をかむ。

 じゅるる~、ぽい。じゅるる~、ぽい。

 小さなエナメルバックの内ポケットが、どんどん使用済みティシュで埋め尽くされてゆく。

「病院行ってくれば?」

「お金あれば行ってますよ」

「実家から仕送りしてもらえばいいじゃない」

「それは親にバカにされそうなので嫌です」

 じゅるるるる~、と十枚ちょっとティシュを消費した所で、ようやっと鼻水が出尽くしたらしい。

 鼻をかみすぎたせいで、鼻先やら鼻孔付近が赤く腫れてしまっていた。

 まるで、赤鼻のトナカイのようだ。

「健康管理センターだっけ? そこ行ってくれば?」

「あぁ。そういえばあそこ。診察は無料でしたねぇ。先生も一般人ですけど、術者こっち側の知識がある人だし……」

「さっさと治さないと、仕事にも支障出るんだから。お金、ないんでしょ」

「ですねぇ。結局あーちゃん先輩には、料金払わされちゃいましたし。午後の講義は休んで、行ってみる事にしまさぁ」

 またまた箱からティッシュを一枚取り出すと、涼子はそれをこよって鼻につめた。

 それから力尽きたかのように、机の上にぐで~んと全身を投げ出す。

 それでは、と気を取り直してノートを写そうとしたところで、無情にも講義開始を知らせるチャイムと共に先生が現れた。




 英語の講義は、朱音の思っていた以上に簡単な内容だった。

 中学校の内容を延長したようなものなのだから、簡単な日常会話程度の英語を仕込まれている朱音には朝飯前である。

 テキストを読んでそれを日本語訳し、文法をノートに板書。最後に先生から配られた課題プリントの問題を解いて、提出すればそれで終了。

 提出すれば講義終了前に部屋を出てもかまわないのだが、朱音はあえてそうはしなかった。

 というのも、隣の涼子の調子が非常に悪そうだったからだ。

 五分に一回は鼻をかみ、板書を写すのも億劫そうな様子で顔を伏せる。

 いつものようなハイテンションだったのも最初だけで、講義が始まってからはだるそうに机に突っ伏していた。

 おかげで、担当の先生にはにらまれっぱなし。

 居心地の悪さは、A評価をつけてもいいレベルであった。

「涼子さん、本当に大丈夫?」

「……いや、ちょっとやばいかもしれないれす。ずずぅ」

 鼻をすすりながら猫背で歩く涼子の顔色は、お世辞にも良いとは言えない。

 と言うよりも、明らかに悪い。

 顔は全体的にほてっていて、うっすら汗ばんでいる。

「お昼食べる前に、診察してもらった方がいいんじゃない?」

「いえ、学食のおばちゃんに心配かけたくないんで。はっくしゅん!」

 そこは学食のおばちゃんより、自分の身体の方を大事にすべきだろう。

 術者の資本は健康な身体だ。

 万全の体調でなければ十分な成果を上げられないだけでなく、死にも直結するケースもある。

 携帯電話を始めとした連絡手段の高速化や、医療技術・治療術式の進歩などにより死亡率は格段に下がっているが、それとてゼロではない。

 エネルギーの摂取も大事ではあるが、医者に適切な処方をしてもらう方が、この場合正解だろう。

「学食のおばちゃんには、私が言っとくから」

「いえ、でもぉ」

「そんな状態で、またあの時の鬼みたいなのに襲われたら、たまんないでしょ。体調を整えるのも、私達の仕事なんだから」

「それは、そうかもしれませんがぁ……」

「おばちゃんにも、心配しないように伝えるし。だから行ってきなって」

 朱音の説得に涼子はしばらく悩んでいたが、決心がついたのか、ついにうんと頷いた。

「そうですか。わかりました。じゃあ、行ってきます。おばちゃんには、よろしく言っといてください」

 この学園に来てから初めて見た力ない涼子の後ろ姿を見送りながら、朱音は学食に向かった。




 学食でさっぱり醤油ラーメン(チャーハン付)を平らげた朱音は、午後の講義が行われる場所に向かっていた。

 最近はいつも涼子と一緒にいたせいか、朱音も顔を覚えられていたらしい。

 学食のおばちゃんが、『あれ、涼ちゃんいないけどなんかあったの?』なんて聞いてきたのだ。

 総勢数千人の生徒がいるにも関わらず名前を覚えられているとは、涼子は相当年季の入った常連さんなのだろう。

 その事実に驚きつつも、朱音は涼子が風邪気味なので健康管理センターに行っている旨を告げた。

 始めは心配そうにしていたおばちゃんであるが、明日には元気になってますよ、との朱音の一言に確かにそうだと納得してくれた。

 元気のない涼子の方が想像し辛いのは、朱音も同じである。

 ただ、じゃあ明日は涼ちゃんの全快祝いにおかずを一品オマケしちゃおうか、なんてつぶやいているのを聞いて、朱音はちょっと羨ましいと思ったのだが、それはそれとして。

「はぁぁ。今日も子供の面倒見なきゃなんないのかぁ……」

 朱音は午後の講義が行われる建物の前まで来て、深いため息をつく。

 以前、涼子や美玲からも聞いていたのだが、大学の一年生は高等部以下の生徒の指導が必修となっているのである。

 二年生以上になれば自由参加とはなっているが、任務のない限りはよほど暇なのかたいてい皆いる。

 いない場合は、他の科の部屋まで遊びに行っている。

 陰陽科は人数も多いので他学科に知り合いがいる学生も多く、室内でだべっている人間の半分くらいは、実は違う科の学生だったりするのだ。

 この数日で他系統の術者と仲が良いのには慣れたつもりだったのだが、まだまだ朱音の認識は甘かったらしく、神社に所属する者が在籍する神道科や、密教僧の在籍する密教科、憑き物筋の家系である憑依科辺りならまだわかる。

 だが、たった一人だけ祓魔科の学生もいるのだ。

 祓魔科とはつまり祓魔師(エクソシスト)――聖十字教徒――が籍を置く学科である。

 魔術全般――それどころか聖十字教以外の信仰を全て悪と見なしているはずの祓魔師(エクソシスト)が、陰陽師や巫女・神主に僧侶と仲良く談笑している風景。

 偉い人に知れれば破門でもされかねない背信行為なのだが、涼子の話によれば“布教活動”と言って上には誤魔化しているらしい。

 こういう所でいい加減なのは、役所も裏稼業も同じようだ。

 建物に入った朱音は足取り重く、四階の端にある講義室に向かう。

 朱音はまだ講義で使った事はないが、百人くらいなら余裕で入れる広い講義室である。

 陰陽科を始めとした人数の多い学科は、このように広い講義室が割り振られているのだ。

 がらがらと見た目だけは古そうな扉を開くと、

「あぁ、ネネっち、こんにちはぁ」

「……こんにちは」

 文佳を始めとした、駿河先輩こと恭祐と、浅間先輩こと光輝の三人組が、手作りっぽい弁当をつっついていた。

 卵焼きをほお張りながら挨拶する文佳に、朱音はしどろもどろといった様子で返す。

 念のために説明しておくが、順に魔装具工芸コース、神道科、神道科と、決して陰陽科ではない。

「いつも思うんですけど、先輩方は自分の学科とか行かないんですか?」

「行ってるよぉ!」

「週に一回くらいだろ」

「きょ、京ちゃん! それは言っちゃダメェ!!」

「事実を言ったまでだって」

「もぉぉ!」

 と、他学科の講義室でいつもの如く始まる、今年四回目となる西行・駿河大戦。

 戦績は両者共に、一勝一敗二分けである。

 そんな二人を苦笑いしながら見つめる光輝の隣を通り抜けると、朱音は適当な席に腰を下ろした。

 講義開始まで、もう少し時間がある。

 下級生たちがやってくるのは、もう少ししてからだ。

 食後のためか、眠気でまぶたも下がり始めてきている。

 ここいらで、一度睡眠を取っておく方がいいだろう。

 そう思って顔を伏せると、今度は視線の先に別の集団が入った。

「まったく、先日の任務ではヒドい目に逢いましたわ……」

「麗様、それ昨日も言ってましたね」

「お気持ちはわかりますが、相手が鬼だったのですから」

「命があっただけでも、運が良かったと思いますわ」

「本当に、ご無事でなによりでした」

「お怪我をなさったと聞いた時は、わたくし心臓が止まるかと思いましたわ」

 土御門麗。かの安倍晴明の直系と伝えられる、土御門家出身の少女である。

 優秀な人材を多数排出してきた土御門家の血をしっかりと受け継いでおり、彼女もまた高校二年生ながら承認ランクCを有する実力者だ。

 もっとも、土御門家自体はけっこうな数があるので、どこが直系なのかは不明であるが、現状では京都に居を構えている土御門財閥が最も力を持っている。

 財閥というだけあって、表側では多数の子会社を持っており、政財界にも強い発言力を持っているのは、術者の間では有名な話である。

 麗はその、土御門財閥の一族の出身なのだ。

 ――口では色々言ってるけど、元気そうね、あの子。

 少年少女を十数人も(はべ)らせている麗は、三週間ほど前のある任務について文句を垂れていた。

 正体不明の敵性勢力を調査せよ、ただし戦闘は避けるべし。

 朱音や涼子も参加した、調査任務である。

 しかしながら、結界内に取り込まれた涼子と、涼子を助けるため強引に侵入した朱音の二人は、正体不明の敵と戦う羽目になってしまったのだが。

 その相手というのが、神格と表される事もある鬼だったのである。

 戦闘特化の上、実力も経験も折り紙付きの二人だったからこそ退ける事に成功したが、あれだって確率的には五分五分もなかった。

 せいぜい、一割あったかどうか。そんなレベルの話である。

 向こうはほぼ不死身、こちらは一撃食らうだけでアウト。

 涼子はともかく、朱音は左腕骨折の重傷である。

 生まれ持った体質もあって、この二週間で骨もだいぶくっ付いてきたが、戦闘が終わって気の抜けた直後なんて痛いのなんの。

 普通なら全治三ヶ月以上の大怪我なのだが、朱音の場面は魔術的な体質の関係もあり、あと一週間もすればギプスは取れるらしい。

 しかも、日曜にレントゲンを撮った時にはほとんどくっついていたので、実際には様子見と言った所だ。

 あまり経験がないのでわからないが、重度の怪我に関しては普段以上の回復力が発揮されるようだ。

 それに比べれば、全身軽い打撲と擦り傷だけの麗は、涼子よりもずっと軽傷であった。

 まあ、霊力も生命力も限界近くまで吸い出されていたようなので、かなりの疲労感はあっただろうが。

 さて、いよいよ睡魔が全力で朱音の意識を刈り取りに来た。

 朱音はまぶたを閉じると、本格的に昼寝を始めた。




 どれほどの時間が経っただろうか。

 絶賛熟睡中の朱音であったが、平和そのものな時間は唐突に終わりを告げた。

「おきろぉおおおお! あかねぇええええ!」

「いだだだだっ!?」

 突然頭部に走った痛みにより、朱音の意識は現実世界へと引き戻される。

 より正確には頭の後ろ側、それも表皮の辺りが痛みの発生源だ。

 朱音は片手で後頭部一帯をさすりながら、素早い動作で声のした方を振り返った。

「いつまで寝てんだ? 授業はとっくに始まってるぜ!」

 ずびしっと朱音の方を指差しながら、説教っぽい台詞を吐いているのは、制服に着られている感満載の小さな男の子だ。

 成長を見越して大きめに作られた制服はぶかぶかで、丈も袖の長さもちぐはぐな感じである。

 この男の子が、三つ編みを引っ張り、熟睡中の朱音を強引に叩き起こした張本人だ。

「またお前かぁ……。起こすんなら、もうちょっと丁寧に起こしなさいよ。痛いじゃないの。それに髪は女の子にとって大切なもんなんだから、むやみやたらに引っ張ったりしない。わかった?」

 この時点では、まだ講義開始にも関わらず眠っていた事への罪悪感もあって、平静を保っていられた朱音であるが、

「うるせぇ、チビ」

 次の瞬間には、平静の『へ』の字も忘れるくらいぷっつんしてしまっていた。

「へぇぇ……」

 朱音の名誉のために言っておくが、まだ朱音の方が背は高い。

「良い度胸してんじゃない」

 朱音はゆらりと席から立ち上がると、数歩先にいる男の子へと狙いを定める。

 だがそこへ、まるでとどめとばかりに、朱音の精神が爆発させるような事態が起きた。

「スキありぃいいいい!」

 お尻の辺りを冷たい空気が撫でる。

 朱音は男の子の肩に伸ばしていた両手を高速で動かし、スカートの裾を押さえた。

「水玉だ!」

「水玉、水玉!」

 朱音がスカートに気を取られている内に、今まさに朱音に捕まりそうだった男の子もわきをすり抜けて逃げ出す。

 スカートめくり。

 朱音が遭遇したのは、今日(こんにち)の日本ではすっかり絶滅してしまったはずの、古典的なイタズラだ。 

 悲鳴すら出せず、恥ずかしさに首や額まで真っ赤にさせた朱音は、恐る恐る周囲に目をやる。

 大部分の学生や生徒は、見ていませんよといった風にそっぽを向く。

 その一方で、

「お姉ちゃんかわいい」

「水玉ならわたしも持ってるよ」

「水玉!」

 初等部の生徒――それも低学年の子は、男の子も女の子も大はしゃぎしていた。

 ――見られた、見らレた、見ラれた、みられた、みられた、みられタ、ミられタ、見ラレタ、ミラレタ、ミラレタ……。

 朱音の頭の中が、たった四文字の単語で埋め尽くされる。

 羞恥心が爆発して、今にも顔から火が出そうだ。

 下着を多数の人間に見られるというのは、本人が思っている以上に恥ずかしいものらしい。

 これなら上下三セット一〇五〇円の安物ではなく、もっと可愛いやつとかクールなやつにしてくればよかったと、朱音の思考も限界寸前である。

 と、今にも泣き出しそうな顔でうずくまっている朱音の肩に、ぽんっ、と誰かが手を置いた。

「大丈夫だよ、ネネっち」

「さ、西行……先輩?」

 文佳は朱音の頬を優しく撫でると、流麗なラインを描くあごに手をやりくいっと自分の方を向かせる。

 儚げな朱音の視線と、柔らかな文佳の視線が絡み合い、ねっとりと熱を持ち始めたその時、

「私が、忘れさせて、あげるから……」

 と、文佳は胸ポケットからあるものを取り出した。

 途端、朱音の視線から儚さが消え、代わりに冷たいものが漂い始める。

「何ですか、それ」

「簡単に言うとぉ、忘れ薬」

 この時点でも、すでに胡散臭さしかしない薬である。

 というか、本当に効き目はあるのだろうか。

 おかしな霊薬開発も趣味の一つらしく、涼子も色々と被害にあっているようであるが。

「…………で、それ飲むとどうなるんです?」

 念のため、朱音はその効力とやらを聞いてみた。

 絶対に良品では有り得ないのはわかっているが、とりあえず確認のために。

「えっとぉ、服用してから二四時間以内の記憶を、綺麗さっぱりデリートしちゃいまぁ~す」

「いりませんよ!」

 ある意味すごい薬であるが、全く試す気にはなれなかった。

 昨日のこの時間までの記憶を全て消去するとか、使い勝手が悪すぎだ。

 丸一日分の記憶が消えてしまえば、いったいどれだけの弊害が出ることやら。

「まあまぁ。試供品って事で、無料(タダ)でプレゼントしちゃいますからぁ」

「有料のプレゼントなんて聞いた事ないですよ!」

 全力で受け取り拒否する朱音であるが、問答無用に忘れ薬(試供品)を押し付けてくる文佳。

 結局朱音の手には、一見マニキュアにも見えるカラフルな容器が置かれる。

 例によって容器には、『わすれぐすり ぷろとたいぷ』と可愛らしい平仮名のラベルが貼られている。

「もし使う機会があったら、どれくらい効果があったか教えてね。治験中でぇ、まだまだデータが足りなくて困ってるの」

「大丈夫です。絶対に使ったりしませんから……」

 朱音は容器をポケットにしまいつつ、スカートめくりの現行犯+αを捕らえるべくその場を離れた。

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