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朱音ノ悪鬼調伏譚  作者: 蒼崎 れい
第壱ノ巻~荒ぶるおぞき御魂~
11/55

其ノ捌:捜索開始

 朱音は息を切らさない程度にランニングする事十五分弱、集合場所である校門に到着した。

 携帯電話で時間を確認すると、二一時五〇分過ぎ。

 どうやら、少し早く部屋を出てきてしまったらしい。

 朱音は周囲を見回してみるが、涼子の姿は見当たらなかった。

 おおかた時間ギリギリに来て『すいません、深夜アニメの予約に手間取っちゃって』とか言うに違いない。

 そんな涼子の代わりに、数名の生徒の姿が視界に入る。

 学ラン・セーラー服とブレザーの中間のような制服を着ているのは、星怜学園大学附属の高等部生だろう。

 特に女子の方は装飾性が高く、私服と言っても十分通用しそうな代物である。

 もちろん、それら制服姿の者は少数で、大半が朱音と同様の私服だ。

 朱音を含め大学生は七人、高校生は三人。

 朱音と涼子同様、夜間巡回に合わせて出発するつもりなのだろう。

 夕食の時に色々話し合い、出発は美玲に合わせる事にしたのだ。

 まあ、リラックスのための雑談が目的なわけであるが。

 その旨のメールは既に送っているので、寮の前での点呼が終わればすぐにでもやってくるはずである。

 と、朱音がそんな風に今夜の事について色々考えていると、

「やっほ~い、あっかねさ~ん」

 昼間と同じ、夜にまぎれる黒いジャージの上下を着た涼子が、両手をぶんぶん振りながら駆けてきた。

 時刻は二二時三分前。まあ、約束していたのは二二時だったので、一応はセーフである。

「五分前集合なんて、常識中の常識でしょ。いったい何してたのよ?」

「すいません、同室の子に頼まれてた番組と時間が被ってしまいまして。大慌てで知り合いの男子に電話して録画を頼んでました」

 ただし、来て早々最初に口にした言葉は朱音の予想の斜め上を行く代物であったが。

 そうまでして見たいのか、その深夜アニメというのは。

「それって術者の?」

「いえ。普通に漫研繋がりの一般人の友人です」

「漫研って、涼子さん絵描ける?」

「いえ全然。あたしは読む方専門なんで。そもそも、漫研自体その深夜アニメ仲間に誘われて入っただけですし。いや~、案外いるもんですねぇ、話の合う人ってのは」

 まるで(せき)を切ったかのように、涼子のマシンガントークが始まる。

 いや~術者の生徒は見てる人いなくてですねあたしゃあ絶望してたんですよこんな素晴らしい日本が世界に誇れる文化を見ないなんてみんなどうかしてます! などと、頼んでもいないのに自分の趣味について延々と語ってくださった。

 朱音の知らない名前や単語が次々とでてきて、まったくちんぷんかんぷんなわけであるが、涼子の嗜好が限りなく男子に近いと言う事だけはわかったような気がする。

 少なくとも、朱音には全然共感できる点は見当たらなかった。

「にしても、けっこう集まってるでやんすね。たぶん、日が暮れた直後から出向いてる人もいるでしょうし、こりゃ案外早く見つかるかもしれませんよ」

「あ、演説終わったんだ」

 一応全部聞いていたが、朱音はあえて冷たい態度で答えた。

 ここで下手に先ほどの演説について質問してしまえば、そのまま調子に乗って継続してやりかねない。

「もぉぉ、少しはちゃんと聞いてくれたっていいじゃないですか。少年マンガに絶賛夢中な朱音さんになら、才能あると思って必死で開花させようとしてるのに」

「なんの?」

「アニオタに決まってるじゃないですか!」

「はいはい、聞いた私がバカだったわ」

 ほんと、よくしゃべる女の子である。

 個人で完結するならそれでもいいのであるが、涼子の場合は周辺の人間まで巻き込みかねないため、今は朱音がしっかり手綱を握っておかなければならないのだ。

「まあそれはそうと、誰がどんな系統の術者かわかる?」

「えぇ、半分くらいは。陰陽師って意味では、顔馴染みもいますし」

 と、涼子はまず高校生と思われる男女のペアを指さす。

「まず、あそこが天下の土御門(つちみかど)流の流れを汲む一門。土御門家の長姉(ちょうし)、土御門(うらら)と、取り巻きの一人で和泉(いずみ)遼亮(りょうすけ)。麗さん、性格は悪いけど実力はなかなかのものだよ。まあ、実際の戦闘経験はまだ少ないんだけど」

 土御門家はかの安倍晴明を祖先に持つとされる、陰陽師の中では最も知られた存在である。

 現在はどこの家が直系の子孫なのかで各地の土御門家が争っているわけであるが、それぞれの家の結びつきはかなり強い。

 完成度の高い術式を多く保有しており、実戦でも見事な戦績を上げている優秀な一門だ。

 土御門に源流を持つ流派も全国各地に存在しており、日本の中では間違いなく最大の魔術結社と言えよう。

 また政界とも深く結び付いており、一般社会でもかなりの影響力を持っているのである。

「で、次はあっちです」

 それから今度は、一番背の高い男性の方を見やった。

「あれは東洋精霊魔術師の一門で、名前は覚えてないけど風祭(かざまつり)先輩ね。風精霊(シルフ)の使い手だよ」

 精霊魔術とは、西洋の四大元素の思想を基礎に形作られた魔術体系である。

 そのため術者の大半は西洋圏の者になるわけだが、日本にも少ないながら存在するのだ。

 しかも他の術体系同様に長い歴史を有し、数が少ないのを補うかのように強い力を持った家系が多い。

 また実戦において高い汎用性と起動の早さから、世界各地で様々な流派に分かれて普及している。

 よくゲームに登場する魔法のモチーフになっている点からも、その事をうかがい知る事ができるだろう。

「あとは、あれかな」

 と、今度は彫りの深い顔にブロンドと言う、いかにも留学生な二人に視線を向けた。

「あの二人は本来、あたし達魔術師とは対局の存在って認識されてる聖十字教徒の術者です。悪魔払いを主とする祓魔師(エクソシスト)で、ローマからの留学生です。まあ、言っちゃえば星怜大の監視役みたいなもんですね。監視役を任されるくらいだから、なかなか強いですよ」

 日本ではあまり馴染みがないので朱音も詳しくはないが、西洋――特に欧州では今でも聖十字教徒と魔術師の仲が悪いらしい。

 完全なる存在を崇める聖十字教と、完全なる存在を目指す魔術師とでは、相容れないのだとか。

 それらの経緯から、聖十字教に所属する術者は自らを魔術師とは呼称せず、エクソシスト――つまりは祓魔師と呼称するのだ。

「まあ、あたしがわかるのはこれくらいかな」

 と、涼子は周囲をぐるりと回って朱音に視線を戻した。

 草壁や猫屋敷とはまた別流派の陰陽師に、日本製の精霊魔術師と、本番欧州から留学してきた祓魔師。

 これほど様々な術体系の術者が一同に会する場面など、めったにない。どころか、本来なら有り得ない事だろう。

 ましてや対立する事はあれ、同じ目的を持って行動するなど。

 まるで、術者のバーゲンセールである。

「それと、あそこの制服の先輩は密教僧の海堂先輩ですよ。私の二つ上なんで、四月から三年生です」

 と、自分達の背後から聞こえてきた可愛らしい声に、涼子と朱音は振り返った。

「よっ、美玲ちゃん」

「ごめんね。寝てる所にメール送っちゃって」

「メールに気付いたのは、私も起きてからなんで気にしなくても大丈夫ですよ」

 二人の後ろに立っていたのは、今晩が夜間巡回の当番となった美玲であった。

 こちらはまだ三月だからか、律儀に中等部の制服を着ている。

 高等部の制服と基本的には同じデザインだが、細部の意匠が異なっている。具体的に言えば、高等部の制服より愛らしさを強調したような感じだ。

 だが、もう来月にはおさらばする制服とあって、若干小さいようである。

「草壁、猫屋敷、土御門の陰陽師、日本の精霊魔術師、祓魔師、で密教僧……。ほんと、どんだけいるのよこの学校」

 指折りに数える朱音は、半ば呆れたような表情で周囲を見回していた。

 この普通では有り得ない空間のつめこまれた、星怜学園大学と言う場所に。

 友達作りの不安は解消されたが、まずこの場に慣れるまでになかなか時間がかかりそうである。

 知識としては知っていた環境ではあるが、実際にこうして肌で感じるのとでは随分と違う。

 様々な術者の放つ気配が混じり合って、わけがわからなくなりそうだ。

「それじゃ、行きましょうか」

 美玲の声をきっかけに、朱音と涼子も歩き始めた。




 美玲が校門を出発したのを皮切りに、巡回担当の生徒や捜索任務のために出張ってきた生徒達が一斉に動き出した。

 校門前で待機していたのはほんの一握りで、大半は学内のどこかに集合していたようである。

 巡回ルートに沿って進む者やその友人達、巡回ルートをあえてはずして捜索を開始する者、朱音達同様目立たぬように広域探索の術式を組み立てる者。

 そんな多くの術者達を横目で眺めながら、朱音と涼子も式神の製作にとりかかった。

「涼子さん、短刀とか持ってきてる?」

「いんや?」

「じゃあ、しゃあないか」

 歯でするのって痛いから嫌なんだけどなぁ、とかつぶやきつつ、朱音はまずキュロットパンツのポケットから十枚の護符を取り出した。

 護符は五芒星と円をベースに、漢文調の文字列を幾つも配置した魔法陣が描かれている。

 その十枚の護符をまるで扇子を開くようにずらすと、ガジッ、と反対の手の親指を噛んだ。

 鋭利な犬歯によってできた傷口からは、命の(しずく)が流れ出る。

「いったた……。()でよ、(ツバクラメ)

 朱音は広げた護符に弧を描くように滑らかな曲線を引くと、それらを空中へと解き放った。

 それらは最高点に達した瞬間、鳥の形へと変化する。

「おぉ、キレーっすなぁ」

「もう見えませんけどね」

 目をきらきらさせる涼子に、美玲が冷静な突っ込みを入れる。

「私、式神はちょっと苦手で、あんまり多くは一度に作れないのよね。起動にも時間がかかるし」

 そう言う合間に朱音はポケットからさらに十枚の護符を取り出し、同じ手順で式神を放った。

 接近戦に特化された術体系の朱音にとっては、これが同時に制御できる限界である。

「でもさ、なんで血がいるわけ?」

「前にも言ったけどさ、草壁流の術者は近接戦が主体だから、式神みたいな遠隔制御系のやつは苦手なの。しかも今回はけっこう長時間飛ばしてないといけないから、霊力の供給とかも必要でしょ? それが難しいから、あらかじめ長時間活動できる量の霊力を込めておくの」

「私もこういう探索系の時には、血を使いますよ。草壁流の魔術的特異体質もあるので、傷口もすぐにふさがっちゃいますしね」

 朱音と美玲は互いの顔を見合わせると、にぃっと笑い合った。

 この辺は、同じ流派の流れを汲む術者にしかわからないだろう。

 現に涼子は、なにその反則的なスキルあたしにもわけてください、とか言っている。

「それはいいから、涼子さんも早く式神飛ばしたら? 私だけじゃ、見つかるもんも見つからないんだから」

「おっとっと、こりゃまた失敬しやした。んしょっと……」

 と、涼子は上のジャージに隠れていたポーチから、ごっそりと護符を抜き出した。

 朱音とは違い、薄手の本のようにゴツい。何十枚かあるだろう。

「あたしゃあ、あんなキレーにできやせんから、くれぐれも期待しないようにお願いしますぜ」

 そう言うと、涼子も朱音同様に扇子を開くように護符を広げた。

 ただし、分厚さが示すように枚数は段違いである。

「は~い、仕事の時間だよ~。行け、黒鴉(クロガラス)!」

 しかも、手順が朱音よりも随分と簡単だった。

 朱音が血を塗ったのに対して、涼子は熱を持った吐息を吹きかけただけ。

 にも関わらず、頭上に放り投げられた護符は鳥の形に変化し、同心円上に広がったのだ。

「すご……」

「これは、確かにすごいですね」

 朱音のそれが命の雫ならば、涼子のそれは命の息吹とでも呼べばいいだろう。

 本人の言うように、朱音のような精巧な形はしていない。

 左右で羽の大きさが違ったり、足が片方なかったり、くちばしがなかったりと、まるで幼稚園児の粘土細工のようである。

 だがそれを差し引いたとしても、涼子の技量は驚嘆に値すべきものだった。

「朱音さんと同じで自動索敵組み込んでるから、そんなに辛くはないですよー。あと、索敵範囲には朱音さんより広い自信ありますぜ」

「そりゃ、私はこっち専門外だし」

 と、涼子と朱音が式神について会話していると、美玲の首がぴくんとはねた。

「あ、濁った気を発見したんで、ちょっと浄化してきますね」

「行ってらっしゃい」

「らっしゃ~い」

 朱音と涼子は美玲を見送った所で、二人も別々の方向に向かって本格的な捜索を開始した。




「ふぅぅ…………。暇だ」

 美玲や朱音から別れて約十分、涼子の目にはすでにやる気の『や』の字すらなかった。

 人が一人でもいれば色々と会話ができるのであるが、一人だとそれもできず。

 きっと朱音が今の涼子を見れば、一二〇パーセントの確率で驚きそうであろう。

 捜索範囲がかぶっていても意味がないので、朱音とは正反対の方向に向かっているのである。

「感度上げすぎても切りがないし、ある程度下げちゃうかな」

 と、涼子は制御下にある式神に干渉し、気配察知の感度を下げた。

 合計三四の式神は涼子と半リンク状態にあり、嫌な気配を察知すると涼子にもわかるようになっている。

 簡単に言えば、監視カメラに不審者を確認した監視員が、警備員に報告するようなものだ。

 監視カメラと監視員が式神で、警備員が涼子に当たる。

 監視員から報告――つまりは異常を察知した式神は、すぐさま涼子にその事を伝えるようになっているのだ。

 その式神なのだが、さっきから異常を察知したとひっきりなしに知らせてくるのである。

 それら知らせのあった式神一つ一つと精神をリンクさせ、視覚と気配で周囲の状況を探るのだが、さっきから見つかるのはこごった気の集まっている場所だけだ。

 まだ餓鬼の影響があちこちに残っているらしく、これでは本命を見つける前に力尽きそうなので、小さな気配は見逃すように式神を調整しているのである。

「う~ん……、こんなもんかな」

 知らせが入った時に生じる、脳内に直接響く警報みたいなものはきれいさっぱりなくなった。

 涼子の立った今行った、遠隔地にある式神の機能を変更するのはなかなかに難しい技術である。

 こういった術を苦手とする草壁流の朱音と美玲では、なかなか真似する事ができないのだ。

 朱音を含めて、捜索に当たっている生徒達は今頃大変な目にあっているだろうと思いつつ、涼子は近くのコンビニへと目を付けた。

「腹が減ってはなんとやらとも言いますし、ちょっくら腹ごしらえとしゃれこみましょうかね」

 道路の向こう側にあるコンビニへ、車が通っていない瞬間を狙って駆け込もうとしたその時、予想だにしない事態が発生した。

「あれ……? 消えた?」

 式神の反応が三つ、何の前触れもなくいきなり消失したのである。

 式神が物理的ないし魔術的に破壊された場合は、返しの風と呼ばれるダメージが術者本人に返ってくるものなのだが、それもない。

 ――いや違う。壊されたって言うより、手応えが消えた感じ……。制御できる領域から外に出たのかな?

「あっ!」

 自分の制御範囲内での式神の反応消失。

 その事象から導かれる答えは、一つしかない。

 涼子は飛行中の式神をその場で旋回させ、移動を停止させた。

 それから、それらが今自分を中心にしてどの辺りを飛んでいるのかを確認する。

 広範囲とは言っても、飛ばしているのは自分を中心にして半径百メートル圏内。

 広いようにも思えるが、式神一体あたりの捜索範囲はそうでもない。

「見つけた」

 そんな式神の反応であるが、本来円形になっているはずの反応の一部が無くなっているのである。

 その反応に、涼子は確信のようなものを覚えた。

「もしかして、ホントに位相空間結界!? まさか、こんなに早く見つかるなんて……。報酬は護符のストックに回すとして、大学始まる前から単位をいただけるとは、なかなか幸先よいですなぁ。とりあえず、緊急時に備えて呼ぶだけ呼んどきますか」

 涼子は下ジャージのポケットからスマートフォンを取り出すと、走りながら朱音に連絡を取った。




 涼子は式神を一旦自分の手元に戻すと、その内の一体を道案内に朱音へと向かわせた。

 自分の行き先を伝えているとはいえ、朱音はまだ天原市に来てから日が浅い。案内を付けておいた方が無難だろう。

 霊力を放出して居場所を知らせるのが一番手っ取り早いのであるが、相手を無駄に刺激するわけにもいかないので使えない。

 涼子は自分の式神の反応が消えた地点へと向かいながらも、携帯で聞いた朱音のいる場所に向かって式神を飛ばしていた。

 そのため涼子の脳内には視神経から送られる映像と、式神から送られる視界の映像の二つが流れている。

「でもあの欠け方からすると、結界の範囲もかな~り大きい物になるだろうし。もうけっこうみんなに気付かれちゃってるかもなぁ」

 まあ、それはそれで別に構わない。

 こういう告知型の任務では、よくある事だ。

 それに、先日の餓鬼討伐の報酬も入ったので懐に余裕があるのも理由の一つである。

 もっとも、あまり高額な報酬でもなかったわけであるが。

「お、朱音さんはっけ~ん」

 脳内で再生される式神から送られる映像に、朱音の姿が映った。

 涼子は式神を何周か旋回させると、自分の方に向かって飛行させる。

 涼子の式神に気付いた朱音も、それを追って追いかけ始めた。

 これでしばらくすれば、朱音と合流できるであろう。

 必要ないとは思うのだが、念には念を入れて。警戒はいくらしてもしすぎということはない。こっちは命賭けてやっているのだから。

 そうこうしている内に、例の式神の反応が消えた地点に近付いてきた。

 涼子は体外に漏れ出す霊力をほぼ完全に遮断しつつ、周囲の気配に神経を集中させる。

「ふいぃぃ……。そろそろ注意しなくちゃねぇ~。まあ、今回は戦闘が目的じゃないんだけど……っと」

 駆け足からゆっくりと歩く程度まで速度を落とし、涼子は足音も殺してついに反応の消えた空間に足を踏み入れた。

 これと言って、変わった感じはない。

 もっとも位相空間結界が展開されているのなら、起動した段階で現実の空間から切り離されているため、結界内部の状況を全くつかめなくなるわけであるが。

 涼子は建物の影に隠れながら、不審な人物ないし妖魔の類がいないか目を凝らす。

 今日は月明かりも強いので、相手の姿もきっちりと把握できそうだ。

 ――不審者どころか、人っ子一人いないじゃございませんか。どうなってんだこりゃ。

 スマートフォンで時刻を確認するが、時間は二三時を過ぎた所だ。

 確かに人が少ない時間帯ではあるが、都市部に通じる道があるこの場所なら、一人くらいいてもおかしくはない。

 だが、それ以前に少し違和感があるように感じるのである。

 完全なる静寂。

 風の音すらない無音の世界。

 自分の鼓動が聞こえるほどに、涼子の周囲は静まりかえっていた。

 嵐の前の静けさとは、この事を言うのだろうか。

 何も起きない事が、むしろ不安に繋がってしまう。

 涼子は慎重に一歩一歩、細心の注意を払いながら周囲の景色に目を凝らし、感覚を研ぎ澄ませる。

 不意に胸の奥からわき上がってきた悪寒を、懸命に押さえながら。




 土御門麗は、現在の自分が置かれた状況が信じられなかった。

 つい先ほどまで、自分達は普通の空間にいたはず。

 だが今は、通常とは異なる異空間に閉じこめられているのである。

 そして目の前には、まるで邪悪を押し固めた人型の塊。

 明確な殺意を持った圧倒的な存在感が、そこにはいた。

 肌を貫くような殺意に、麗は恐怖を感じずにはいられない。

「うらら、さま……。逃げ、て……、ください」

 しかも目の前にいるのは、あくまで人の形をしているだけであって、人ではない。

 教務課がホームページの掲示板に、相手は『位相空間結界を代表する隔離系の結界を使用している可能性あり』と書きこまれていた。

 結界術を使う――つまり相手は人間の術者であるはずだったのである。

 だが、実際は違った。

 心の準備が十分でなかったせいもあって、麗の恐怖心はより一層大きく膨れ上がった。

「こいつは、俺がっ……!」

 そんな麗の目の前にたたずむ恐怖の象徴が、まるでホコリでも払うかのように腕を振るう。

 たったそれだけの動作で、和泉遼亮の身体は十メートル近くも吹き飛ばされたのだ。

 麗が知る限り、遼亮は彼女の取り巻きの中で最も優秀な陰陽師である。

 そりゃあ、高等部には遼亮より優秀な術者はいくらかいるし、大学にもなればその数は大幅に増えるだろう。

 しかし、だからと言って遼亮の能力が低いと言うわけではない。

「何を言うのです! わたくしが誰かを置いて自分だけおめおめ逃げると、遼亮は本当に考えているのですか!」

「しか…し、このままで、はっ……。はぁ、はぁ、麗さままで」

 地面に仰向けに倒れている遼亮の制服は、ぼろぼろになっていた。

 ある程度の対魔力防御――術に対する耐性を持っている星怜学園大学附属の制服であるが、今は全くその役割を果たせていない。

 それはつまり、相手がそれだけの力を持っていると言う事を意味している。

 遼亮が四肢に力を込めて必死に立ち上がろうとする姿を見て、麗は制服のポケットに収められた護符を前方へと放った。

「汝、我に仇為す者を討て、黒鴉(クロガラス)!」

 麗が起動させたのは、涼子が捜索に使っていたのと同一の式神である。

 黒鴉(クロガラス)は霊力の消費が最も低く、一瞬で大量に起動しせる事ができる式神だ。

 まるで本物の鴉と見紛うばかりの精巧な姿形をした式神は、まっすぐと麗の目の前に立つ敵へと向かった。

 しかし、

「そん、なぁ……」

 麗の放った黒鴉(クロガラス)は、確かに目の前に立つ者へと命中した。

 命中したのだが、身体の表面をわずかに焦がしただけに過ぎない。

「ナニカシタノカ? コムスメ」

 まるで獣の声であるかのような、とても人の物とは思えない声。

 腹の底まで響く低獣音の声は、圧倒的なプレッシャーとなって麗を押しつぶそうとする。

 そんなプレッシャーを遮るように、ぼろぼろになった遼亮が立ち上がった。

「麗、さま……。早く…………、逃げ……」

「サワガシイゾ、ワッパ」

 遼亮の身体が、麗の目の前で真横に弾け飛んだ。

 麗と違い肉体強化の術式を有してはいるものの、ブロック塀にめり込んだ遼亮のダメージは計り知れない。

 現に遼亮は額から血を流し、ぐったりしている。

「遼亮、遼亮!」

 麗は悲痛な叫びを上げるものの、遼亮には全く反応がない。

 完全に気を失っているようだ。

「マッタクタアイノナイ。コノセンネンバカリノアイダニ、ズイブントゼイジャクトナッタモノダナ」

 邪悪の塊は邪魔者がいなくなった所で、その太い腕を麗へと伸ばした。

 その腕は細身の女性のウエストほどもあり、鉄筋すら容易に破壊できるように思える。

「いや、いやぁ、こないで……。いゃ、いやぁぁああああああぁぁぁぁ!」

 誰にも届く事がないと知りながら、麗は可能な限り叫んだ。

 暗黒の天蓋を掲げる結界内に、麗の声が虚しく反響した。

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