返されなかったもの
愛と恋は違う。たぶん、ぜったい。でもこれは、恋でもなかった。自分の中で、ぐるぐるとなにかが渦巻く。どす黒くて、べたべたしてて、ずっ、ずっ、と、地を這うように追いかけてくる。崩壊したそれは、この世の果てまでずっとずっと離してくれない。あなただけが、永遠に留まり続ける。
いつから日に焼けることを気にしだしたのだろう。日に焼けたって肌のトーンが少し暗くなるだけなのに、それが気になって気になって仕方なくて、今日もわたしは日焼け止めという薄い膜を張る。
いつの日か、日焼け止めを買って欲しいと母にねだったことがあった。日焼け止めだからさすがに買ってくれると思ったけど、返ってきた言葉は、意外にもわたしの予想と反対で。
「あんたにはまだ早いでしょ。黒くなったって、そんなの誰も見てないよ」
嘘だ。だってわたしは見てるんだもん。
そして、まだ早いという言葉。まるでわたしが羽化するのを拒んでいるように聞こえた。大人へと変わってゆくのを。
「ねぇごめん!日焼け止め貸してくんない!?」
焦っているときの声を出すのが、やけに上手だと思った。わたしが断れないのを知ってるから、体育の日は毎回ここに来るんでしょ。
ドラッグストアのバイトを必死にして、ようやく貯まってきたお金で三千円の日焼け止めを買った。どのレビューでも高評価で、どこをみても一位のものだった。
たった三千円なのかもしれないが、いつも千円以内の日焼け止めを使っているわたしからすれば、十分な高級品だった。
正真正銘の自分のお金でこれを買えた時、なんともいえぬ達成感と充実感で満たされた。
けれど、これを使い始めてから、玲奈の様子が変わった。いつもクラスの中心で、一見計算されてないように見える、無垢な言動をする明るい女の子。髪の毛は癖ひとつないボブカットで、ぱっちりと開いた目はいつもきらきらと光を反射していた。もちろん、そんな子とわたしの関わりなんて一切ない。何とか捻り出してみた唯一の関わりは、入学して間もない頃の、席が隣だった時だろうか。
きらきらとした純粋な目の奥に、ゾッとするような蔑みのような色が滲んでいて、本能的に、「あぁ、この子とは合わないな」と思った。きっと玲奈もそう思っているのだろう。
玲奈の狙いはわたしの日焼け止め。わたしのことなんて見てもいない。
「いいよー、……はい!」
「ありがと~!」
そう言って素早く日焼け止めを受け取って、遠慮の「え」の字も知らないとでも言うような量を使う。あぁ、と、心の底でため息をつく。もう、諦めるしかない。深く考えたって、どうしようもない。心はどんどん質量を増して、深いところまでゆっくり沈んでゆく。
ほどなくして、日焼け止めは返ってきたが、返され方が普段とは少し違っていた。いつもなら、はい、ありがとねー!と一言返されて終わりなのだが、今日は、
「ねぇ陽奈ちゃん、いつもごめんね。でもありがと、ちょー助かってる」
とあたたかい微笑みを向けられた。ごめんねって謝るくらいなら使わないで欲しい。ありがとうって言いさえすれば大丈夫だろうって思ってるよね。だって相手はわたしだから。
でも、どうしようもなく嬉しかった。
その日から、日常は変わった。劇的な変化があったという訳ではないのだけれど、わたしにとっては充分な変化だった。
「ねー陽奈ちゃーん!日焼け止めいいですか!」
「うん、いいよ」
「まじごめん、ありがとー!てかさ、これどこで買ったの?」
「あ、えっと、駅前のドラッグストア」
「え、まじ!?あたし前そこでバイトしてた!」
「あ、ほんと……!?」
「ほんとほんと!いつから始めた感じ?」
「えっと……三ヶ月前、くらい」
「うわぁー、どうだろ。ワンチャン時期、被ってたかもね!」
予想もしていなかった言葉に、喉の奥でヒュッと音がなる。三ヶ月前なんて、何もかもがいっぱいいっぱいで、あまり周りの人のことは覚えていなかった。学校でのわたしよりも何倍も暗かったから、もし被っていてもきっと覚えられてはいない。この様子だと玲奈もわたしのこと分かっていなさそうだから大丈夫だろう。
それからも、日焼け止めを貸す度に少しだけ話すようになった。天気悪いね、とか、さっきの授業難しくなかった?とか、そんなことばかりだった。
でも、貸した日焼け止めは、いつの間にかすぐには戻ってこなくなっていた。
「陽奈ちゃんってさ、優しいよね」
そう言われた瞬間、心臓がどこにいるのか分からなくなるほど、かるくなって、どこかへふわりと飛んでいった。
と、思ったら、遅れた鼓動は慌てたみたいにすぐに戻ってきた。
「そう、かな」
「うん。たぶん、ぜったい!」
頭のてっぺんから足先まで熱いなにかが駆け巡り、ちゃんと立てているのかさえ、分からない。
それでも、言葉はしっかりと胸の奥に染みついていた。
それから、玲奈との距離は不健全に近くなった。はじめはわたしからだった。いつものように日焼け止めを貸してと言ってきた玲奈に、ごめん、バッグの中の白のポーチに入ってるから取っていいよ、と言ってしまった。それがいつの間にか、玲奈は迷いなくファスナーに指をかけるようになっていた。
玲奈は当たり前のような顔で、わたしのバッグの中に手をつっこむ。プライバシーなんて何もない。玲奈はごそごそと雑にかばんを漁る。日焼け止め以外はどうでもいい、というように。
それを真ん前で見ているわたしは、止めなきゃ、と強く思う。けど声はいつも喉の奥でつっかえて、置き去りにされている。この刺激を、悔しく、苦く、まるで宿命のように受け入れていた。
次の休み時間も、その次も、玲奈と話す時間は尾を引き続け、だらだらとしたまま続いていく。あまいあまい眩惑の中、惨めさは隠れきれず、滲み出ている。
いつまで、続くんだろうなぁ。
それからも、玲奈と話す時間は徐々に増えていった、はずだった。
いつものように日焼け止めを貸す。ほんの少し指先が触れた瞬間に、なんでか分からないけどさっと手をひいてしまった。しまった、と思ったけどもう遅い。
「ありがと」
微笑みながらそう言うが、目は全く笑っていない。笑顔は前と変わっていないから、気のせいだと思うけど。
ただ、名前を呼ばれなかったことだけが、わたしを生きた心地にしてくれなかった。
そのあとの会話も、よく覚えていない。
その日の放課後、たまたま同じ方向に帰ることになった。理由のはっきりしない気まずさが、薄く、わたしを包んでいる。
「ね、今日暑すぎない?」
天気への文句なのに、玲奈の声はピアノの鍵盤を跳ねているみたいに軽かった。そしてなにより、笑顔がいつもとおんなじだった。
ちゃんと目をみて、しっかり合わせてくれている。それだけで、昼間の違和感は彼方へ遠のいた。
コンビニの前で立ち止まり、二人でアイスを選んだ。
玲奈はわたしの選んだ味をみて、
「それ陽奈ちゃんっぽい」
と言った。どうしてそう言ったのかは分からないが、顔に熱が集まるのを感じた。玲奈が、わたしのことをちゃんと見てくれているみたいだった。
いつもと同じアイスだけど、今日はなんだか違う味に思えた。もっと、なんかこう、幸せがじわじわ広がっていく感じ。そう、だって隣には玲奈がいるから。この感情をなんと呼べばいいんだろうと思い、夢見心地でふわふわ歩いていると、急に手首をぱしっと掴まれ一気に現実へと引き戻された。
「信号、赤だよ」
心臓のとくとくが、いちばんはっきりわかる所に、小さくて、すらりと細い玲奈の指が触れている。どうにかしてこの鼓動がばれないようにしたいのに、なんとしてでもこの高なりが伝わって欲しかった。
無機質だけど何故かあたたかみのあるアイスの棒を、玲奈はぽいっとゴミ箱へ投げ入れた。
あー美味しかった、と充実感に満ち溢れた顔で玲奈は伸びをした。力を抜いた瞬間にちらりと見える汗ばんだ首筋は、なんだか見てはいけないものを見ているような気分にさせる。もう、ただのクラスメイトではない気がした。
少し前を歩く玲奈の背中を見ながら、胸の奥がじんわりと熱をもつのを感じた。この感情に名前を付けたくて、どうしても玲奈に伝わって欲しくて。無意識に締まる喉の奥を深呼吸でこじ開け、ほとんど独り言の声量で、心の底からの感情を零した。
「………たのしいね」
玲奈は一瞬立ち止まって、それからぱっと振り向き、
「そうだね」
とだけ返して、すぐに前を向いて歩き出した。
別に、後悔してる訳じゃない。けど、少し前に戻れるのならば、わたしは多分、口を開かない。
次の日の教室は、驚くほどなにも変わっていなかった。ただ、玲奈はこちらへ来なかった。わたしはついつい目で追ってしまう。玲奈はわたしの視線に気づいているのか否か、たまに振り返っていた。でも、全く気にしてないようにも見える。まるで今までの事は嘘だったのかと錯覚するほどだった。
心がどろどろと重くなる。この感覚は知っている。玲奈に日焼け止めを貸し始めた頃と同じ。そう、なにかを諦める感覚。
結局、わたしは玲奈のなんだったんだろう。玲奈の、なにになっていたんだろう。
せっかく張った薄い膜を破り、心は食い散らかされた。でも、そんなもの必要ないと思わせてくれるほどの幸せな時間をくれたのは確か。だが挙句の果てには、なにも残らなかった。
「玲奈ちゃん、昨日の帰りさ」
玲奈が振り向いた。
「……楽しかったよね」
少し考えるような間があって、玲奈は目を逸らしたまま言った。
「さあね」
わたしは結局、大人と子どもの真ん中から抜け出せなかった。大人と言うには、この気持ちは幼すぎるし、子どもと言うにはめんどくさい。いつの日か、母が、日焼け止めはまだ早いと言ってきた事があったな。あの時は早いわけなんかないと思っていたけど、わたしには、まだまだずっと早かったのかもしれない。
もう、玲奈と話すことは無いだろう。
始まりはドラッグストアだった。まだ長い髪を結んで、いつも通り品出しをしていると、先輩が見知らぬ人と話していたのが見えた。お客さんかなって思ったけど、あたしたちと同じエプロンを着ているから、どうやらお客さんじゃないらしい。艶のある黒い前髪は長くて、目が隠れるほどだった。歳は、あたしと同じくらいだと思う。それはそうとして、よくこんな暗い人を採用したな、店長。
「先輩、お疲れ様です!この子、新しくきた子ですか?」
「ん、そうそう。小川陽奈ちゃん。面倒見てあげてね、はじめてだから」
「わかりました!よろしくね、陽奈ちゃん!」
「あ、お願いします…」
語尾にかけてだんだん小さくなる声は、ソーダみたいで綺麗だった。顔もよく見たかったけど、前髪で隠れていて全然分かんなかった。唯一、なにかを諦めたような薄暗い表情をしていることだけが分かった。いや、勘違いかもしれないけど。それにしても、小川陽奈……どこかで聞いたことがあるような気がした。
「先輩、新しく入った陽奈ちゃんってどこ高校なんですか?」
「え、玲奈ちゃんと同じとこだよ?多分同じ学年。話したことない?………おーい、玲奈ちゃん?」
「……あっ、ありがとうございます…」
それから何度かシフトが被ったけれど、陽奈はあまり話さなかった。話しかければ、ちゃんと返してはくれる。ただ、視線はいつも一秒くらい遅れてついてくる。レジ越しに見える横顔も、バックヤードですれ違うときの背中も、どこか現実から半歩ずれているみたいだった。
それなのに、気づけば不思議と目で追っていた。何をしていても、ふとした拍子に思い出す。名前を呼ぶほどの関係でもないのに、もう知っている気がしてしまって、心がざわざわしていた。
あと何日かでクラス替えがある。何故か、彼女と同じクラスになることを心から望んでいた。
幸いにも願いは通じて、陽奈と同じクラスになれた。しかも、席はとなり。飛び上がりたくなるほど嬉しかったが、変に思われないように大人しくしていた。
長ったらしい先生の話が終わって、自己紹介の時間がとられた。心臓の主張を無視し、あたしはほんの少しの期待を抱いて陽奈に話しかけた。
「去年三組だった、石井玲奈です!趣味は、ん〜……コスメ集めかな!一年間よろしくお願いしまーす!」
「五組だった小川陽奈です。趣味、は……音楽を聞くことです。よろしくお願いします」
「ねぇ陽奈ちゃんかたいよ〜!はじめてじゃないし、もっとかるく話そ!だって……」
「……?」
「だって………友達でしょ?」
陽奈は同じ所でバイトしてたことに気づいていなかった。まぁバイトしてた時は伸ばしてた髪の毛も切っちゃったし、わかんないか。けれど、胸の奥はちくりと痛んだ。
新しいクラスにも慣れてきた、五月の体育の日。じりじりと照りつける日差しが初夏を告げた。あ、やば。日焼け止め忘れた。誰か貸してくれないかなって思って、周りを見渡す。そんな中、陽奈だけが強烈にあたしの目に入ってきた。まるで、この世界で陽奈だけが色を持っているみたいに、つよくつよく惹きつけられた。
陽奈ちゃん肌白いな。バイトの時こんな白くなかったと思うんだけど。と、なると多分……日焼け止めだろう。いい機会ができた。
「ごめん、ちょっと先いってて」
「ん、わかったー」
これで更衣室はあたしと陽奈だけになった。
「あ、やば、日焼け止め忘れた…」
あたしはぼそりと、ぎりぎり陽奈に届く声量で呟いた。ねぇおねがい。こっちに来て。
躊躇うような静寂が、一瞬で過ぎたようにも、とてつもなく長い時間のようにも感じられた。次の瞬間には、静寂は破られた。
陽奈によって。
「あの、これ使う?」
思わず口角があがらないように、焦ったような表情をつくった。
「え、いいの!?でも悪いよ、流石に申し訳ない」
「あ、いや全然大丈夫だよ」
「……ほんとに?」
上目遣いでそう訊くと、陽奈はぎこちない笑顔でこくりと頷いた。あたしは完璧な笑顔をつくって、嫌味のない声でありがとうと発した。
それから、体育の日はいつも陽奈のとこにいくようになった。最初の頃は文句ひとつなく穏やかな表情だったけど、最近は少し陰りが出てきた気がする。誰に対しても優しい陽奈が、あたしにだけ見せる心から嫌そうな表情を目の当たりにしちゃうと、とくりとくりと心臓がなって、背中から頭にかけてぞわぞわが駆け巡る。胸も目の奥も頭の中も、きゅんきゅんがとまらなくって、ちょっとだけ呼吸の仕方を忘れる。少し自分が怖かったけど、 それ以上に皆が知らない陽奈をあたしだけが知ってるってことに、たまらなく興奮していた。
その度に、もっともっともーっと陽奈の事が知りたいって気持ちが強くなっていった。
いつものように、日焼け止め貸して、と言いにいくと、
「バッグの中のポーチにはいってるから取っていいよ」
と言われた。あ、なか見ちゃっていいんだ、って少し驚きながらもファスナーに指をかける。そんな中、バッグの外側でゆらゆら揺れるパスケースが目に入った。
別に、見ようと思った訳じゃない。
けど、そこに書いてある機械的な文字が頭から離れなかった。
それ以来、あたしは陽奈のバッグを勝手に開けるようになった。陽奈には日焼け止めだけが目的って思ってるんだろうけど、全然そんなことない。逆に、日焼け止め以外の陽奈のもの全て。それが知りたかった。
バッグの中身は、有線イヤホンとか、バラの香りのハンドクリームとか、知ってもどうにもならないものばっかりだった。けど、ひとつずつ陽奈を解剖してるみたいで、知る前には戻りたくなかった。
薫風の吹く体育の日。陽奈のところにいくまでは、いつもとなんら変わらない。でも、指が触れた瞬間、陽奈の反応はほんの一拍だけ早かった。今までは遅れていたのに。
それがなぜか、胸の奥に引っかかってべたりと残る。
「ありがと」
笑顔は崩さなかったけど、名前を呼ぶのはやめた。呼んだらなにかが決定的に変わる気がして怖かった。
気のせいだ、と自分に言い聞かせる。
まだ、まだ終わってない。
でもこのままだと離れちゃうかもしれない。そんなの絶対いやだから、強行手段で帰り道が偶然一緒になるようにした。日焼け止めを塗りながら自然に話しかける。
「今日さ、あの大学前の駅まで行かないと行けないんだよね〜。あそこ結構遠いんだよなぁ」
「えっ?わたし、いつもその駅で乗ってるよ」
「え、ほんと?じゃあ一緒に帰ろーよ!」
「あ、うん。お願いします……」
帰り道、陽奈がいつもに増して無口だった。こちらも居心地が悪いので、難しいことは何も考えてないような明るい声で適当なことを喋り、陽奈を騙す。少し不安げな顔をしている陽奈の目をしっかり見て、じっと見つめて。あぁ、やっぱかわいい。そんな感情を隠すように、いつもの笑顔を作った。
コンビニでアイスを買ってから、陽奈の周りの空気が柔らかくなった。とろとろふわふわしていて、赤ちゃんのように笑っていた。そんなにアイス好きなんだなぁ。でもそのせいで、信号が赤って認識できるほどの気が回っていないらしい。そのまま渡ろうとする陽奈の手を咄嗟にひいた。
「信号、赤だよ」
びくんと陽奈の身体がはねて、すぐにくるっと振り向いた。
──ねぇ、なんでそんな表情するの。
白い頬がほんのり赤く染まって、眉尻は少し下がっていた。真っ昼間なのに瞳孔は開いてるみたいで、触れた手首から陽奈の心臓の鼓動が伝わっている気がした。
そう、まるで、恋してるみたいだった。
面白くない。それは、あたしに向けるべき顔じゃない。
もっと、どうでもいい誰かと、もっと、どうでもいい出来事にふさわしい。
たまたま一緒に帰って、たまたまアイスを食べて、たまたま手を引かれただけで、そんなふうに期待するのは、なんか違うじゃん。
なのに、胸の奥がひりっとした。
この気持ちを察したように、信号が青に変わってくれた。一回、その顔を頭から離したい。だから陽奈の少し前を歩いた。
早く陽奈から離れたかったけど、今日は家の近くまで行くつもりだったから、どこで別れるかなんて決めてない。気持ちが心に追いつかず、頭がパンクしそうだった。
というか、さっきから視線を感じる。もうなんなの。今は何も話しかけないで欲しいんだけど。とにかく、陽奈のことを考えないように前だけみて足を動かした。あたし、本当はこういう沈黙は嫌いじゃない。
──嫌いじゃない、はずだった。
背後で、息を吸う気配がした。それがやけに大きく聞こえて、嫌な予感がした。
「……たのしいね」
あたしの足はなにかに操られたみたいにピタッと止まった。絶対に見たくない、何があったって見たくないのに、気づけば振り向いていた。
───あぁ、やっぱり。
そこには、さっきと同じ顔をしている陽奈がいた。ちがう、ちがう。ちがうってば。
そんなのが見たいんじゃない。もっと黒くて、べたべたしてて、地を這うようにあたしを追いかけてくる、そんな表情。この世の果てまでずっとずっとあたしを離してくれなさそうな表情。それだけが、欲しかった。
あーあ、間違っちゃった。
冷えきった心は声にも反映する。そうだね、と一言返して、さっきと同じペースで歩いた。
次の日の教室はいままでと何も変わっていない。変わるわけない、あたしと陽奈の関係ごときで。
あたしが教室に入った十三分後、陽奈も教室に入ってくる。絶対に視線が合わないようにしたいのに、陽奈の視線が、チラ見とかじゃないレベルで突き刺さる。不可抗力でたまに振り返ってしまうけど、全く気にしてないフリした。そんな無駄なことを繰り返してるうちに、陽奈が立ち上がる気配がした。フローリングにゴム底が擦れて、キュッキュと苦しそうな上履きの音が段々近くなる。
来ないで、来ないでよ、来ないでってば。
───ねぇ、なんで。
「玲奈ちゃん」
ねぇってば。
「昨日の帰りさ」
うるさい、黙って……。
「……楽しかったよね」
……楽しかったはず、ある訳、ないじゃん。
でも心はひっかかってるの。あたしもよく分かんないのに、あんたに分かるわけないでしょ。
「さあね」
陽奈は去っていった。
楽しいって陽奈が言った時、その直視できない表情は置いておいて、言葉は別に嫌じゃなかった気がする。今までのどの感情とも違って、よくわからないとこがあたたかくなるような。
なんで楽しいって言ったのか、陽奈から聞いてみたかった。
でももう、なにもかもが遅いなぁ。
そう思ったことだけが、あたしの中に留まり続ける。それが、後悔だと分かっていても。




