《47》からす一家のお引っ越し
追いかけの費用を捻出する為にむくが詐欺師のようになったので
(このままにではエスカレートしそうで危険、何とかしなければ!)
とかもめは考えた。
利便性の良い都内の中心に住み、気軽に電車で何処へでも行け、その電車賃があまり掛からないことはむくにとって好都合、行動に拍車をかけていた。
またそれだけでなく、むくの頭は都会の雑音やネオンの光など、様々な刺激に影響を受け易く、その為にハイテンションになってしまい、変な行動を起こすのではないかとの疑いも、かもめは持ち始めていた。
だから一刻も早くそのマンションを出て元の自宅へ戻るか、都心から少しでも離れた場所へ賃貸し直さなければいけないという、焦燥感や強迫観念に駆られるようになった。
「ここにずっと住んでたら、どんどんむくが可笑しくなりそう。自宅に帰ったほうがいいよ」
かもめはむくに言った。
「駄目だよ、あんな所に帰ったら恥ずかしくて外も歩けないし、遠くて今の学校へも通えなくなる。それぐらいなら死んだほうがましだよ!」
「でもこのままだと、むくだけじゃなくて家族全員が可笑しくなるよ」
「とにかく駄目、絶対に駄目だよ!」
むくは全く聞く耳を持っていなかった。
本来なら真っ先に相談を持ちかけるべき夫のからすは、いつものことで頼りにはならなかった。
問題解決が苦手なからすは、家庭内の問題や面倒なことは聞きたくないのか或いは理解できないのか、「頭が痛くなってくる」、といって殆どいつも逃げ腰。
もし相談の返答があったとしても、こちらの問いかけとは無関係なことが多かった。
問題事はたいていかもめに押し付けて、そのうちに解決してくれるだろうと自分は高みの見物をするか、人の出した解決策に従うだけだった。
「家族なのに、子供や家庭の問題を全く相談できないような人と生活していても仕方がない。一緒にいる意味が無いよ!」
かもめは時にからすを責め立てた。しかしそうなれば切れて怒りだすだけなので無意味だった。
「最近の切れかたは酷すぎるよ。脳梗塞になって人格が変わったよ!」
からすは以前から切れやすかったが切れ具合が脳梗塞になってから更に酷くなったので、かもめは問題事に限らず次第にからすと会話をすることに嫌悪感を感じて、会話を避けるようになっていった。
そんなからすも前もって指示されたこと(あくまでも心理的問題ではない)は責任感を持ってやってくれた。また忍耐強く、ポジティブという長所も持ち合わていたので、それまで何とか結婚生活を送ってこられたのかもしれない。しかしそれも、脳梗塞になった時から難しくなってしまったのである。
そんなわけでかもめは引っ越しの件は、カウンセラーに相談するしかなかった。しかし、
「お嬢さんはどう考えているのですか?鬱病がまだ完全には治っていないので、引っ越すことはあまり勧めできません」
と、想像したとおりの答えが帰ってくるだけだった。
むくが掛かっているカウンセラーなので、立場上むくの気持ちを一番に考える。だからどうしても、他の家族の状況や経済状態など、全体的な事柄については二の次になってしまうのだ。
結局相談しても結論には至らず、引っ越しについてはやはりかもめが単独で考えて、最終的な結論を下さなければならなかった。
「やはりあのマンションからは引っ越そう!」
悩んだ末かもめは決断した。
実は賃貸し直すことを考えるずっと以前、からすが脳梗塞になって社会復帰してすぐの頃、自宅を売却して都心寄りに住み替えようと、真面目に考えた時期があった。
そうできればからすやむくの通勤通学に便利だし、もし月々の住宅ローンの支払額が若干増えたとしても、賃貸料を払う必要は無くなるのだ。とはいえ都内で住宅を購入すると、ローン自体はかなり増えそうだったのだが……。
「こんな便利な場所に住めたら、最高だよ!」
むくはすっかりその気になり購入する前から大興奮した。
からすもかもめもそれがベストな気がして、真面目に物件を探した。
しかし具体的にローンについて考え始めた時、ある大事な事を忘れていたことに気がついた。『団体信用生命保険』のことだ。
住宅をキャッシュで購入するなら無関係だが、ローンを利用する際にはこの保険に加入することが条件になっている。もしこれに加入できない場合は住宅ローンを組むことはできないのだ。
加入しておけば住宅ローンの契約者が万が一死亡したり、高度障害になったりした場合には,保険会社がローンの残債を支払ってくれるという、とても有り難い保険である。
普通の意味で健康ならたいていは加入できるのだが、からすのように成人病やがん等で入院したり通院している場合は加入できないかもしれないということを、かもめはすっかり忘れていた。
その事についてかもめは自分で調べたり、不動産会社を通して銀行に確認してもらった。(団信は各銀行ごとに多少の差違がある場合も)
その結果やはり普通の生命保険同様、病気で入院し、その後退院して通院治療を受けたりした場合、治療を受けなくなってから三年経過するまでは『団体信用生命保険』に加入することはできない、ということがハッキリした。
その為住宅の買い替えは不可能になり、むくの束の間の夢は呆気なく幕切れとなってしまった。
そんなわけでからす一家は当面、賃貸生活をするしかないのである。
再び新たなマンションを探しを始めたからすとかもめの二人は、前回と違って少し探しただけで運良く条件にマッチする物件に巡り会った。
その物件は駅からは徒歩10分ちょっとで、すぐ前には大型スーパーやTSUTAYAがあるという便利さに加えて、陽当たり良好、室内改装済みという好条件?のマンションだった。
ただ、築年数は25年以上経過していたので見かけはかなり古く、設備的にも旧式なものだった。欲をいえばきりがないが予算に限りがあるので妥協はやむを得ない。
かもめはその範囲内で見つけた物件としては上出来だと思い、からすも納得したようだった。
早速、からすが不動産会社と賃貸契約を進め、審査が通った段階で仲介手数料等、賃貸契約に必要な諸経費を支払った。
前年の賃貸契約の諸費用よりは若干安かったが、短期間で二度も高額な諸費用を払うのは正直痛かった。
「なんでまた賃貸をしなければいけないの?」
かもめは出費もそうだが、他に方法がないので仕方がないと思いながらも、再度賃貸することについては自分の中で、納得していなかった。
「賃貸に払ったお金で中古のワンルームマンションぐらい買えたよ!」
賃貸諸費用とそれまでに支払った家賃とを合わせたら、それこそ中古のワンルームマンションか高級車が一台は購入可能、或いは大学の費用にも十分足りそうな金額だった。
大学へ通うのに下宿するならまだしも、中学生へ通うための賃貸なのだからやはりいくら考えてもかもめは納得できなかった。
「自宅に帰っれば余計なお金を払わなくて済んだのに、自分のことしか考えないんだね」
かもめはつい、むくに言ってしまった。
「しょうがないじゃん、こっちも困ってるんだから」
かもめは釈然としないまま、再び引っ越しをするしかなかった。
「ここよりちょっと下った場所に別のマンションを契約したから、十二月に入ったら引っ越すよ。今の学校へは遠くなるけど、自宅に帰るよりはいいんでしょ?」
「嫌だよ、そんないなかは!ここじゃないんなら何処へ行っても同じ、もう終わりだよ!」
むくは突然のことに怒りだしたが、かもめは取り合わなかった。
十二月の第一週にはむくの学期末試験があるので、それが終わった次の週のの土曜日に引っ越す予定を立てた。
幸い引っ越しのシーズンより若干早かったので、すぐに低料金で引っ越しを請け負ってくれる業者が手配できた。
そのマンションに居住した期間は約一年二カ月と短期間だったが、引っ越すことになってかもめの脳裏には、そこでの生活が次々と蘇ってきた。それはまるで数年分にも匹敵敵するのではないかと思うぐらいの量だった。
きっと夢のような生活?になる、と思いながら始めた自宅との二重生活は、満喫する間もなくからすが脳梗塞を発症し、嚥下障害になったことで幕を閉じた。
その後約二カ月、からすは入院生活を強いられ、嚥下障害の為にベビーフードしか食べられない時期もあった。かもめはその間、懸命に闘病生活を支えた。
からすは退院後、以前の会社へ復帰できるのかどうかという重大な危機に直面し、必死の思いで何とか苦境を乗り越えて、立派に社会復帰を果たすことができた。しかし、発症当時の失語症の後遺症から、話すのが苦手だったからすは更に会話が難しくなり、切れ易くなった上、自分以外の事には無関心になるなどの変化も見られた。
一方むくはからすが退院してすぐに学校で『携帯電話事件』を起こし、危うく警察沙汰になりそうになったり、それがもとで不登校、鬱病へと展開していった。かもめはむくと病院、カウンセリング通いも経験した。
そしてかもめにとって思い出深いことは、むくの芸能事務所のオーディション受験に付き添ったり、むくが芸能人の追いかけに夢中になったことである。
これらはほんのひとつまみだが、短期間ではとうてい起こりえないような沢山のことが次々と起こり、それによって絶望したり、不安に怯え、時には怒りながら生活してきた。
しかし一方では東京の文化にも触れられる貴重な体験もし、短いながら都会での生活を満喫することもできたのである。非常に密度の濃い一年数ヶ月だった。
「ここでの生活は、多分一生忘れることはないだろう。この場所とさよならするのはとても悲しいけれど、いつかまた同じ場所へ戻って来よう!」
「この先も苦しい日々は続くかもしれないけど、一生懸命立ち向かっていたら、いつか必ず明るく笑って暮らせる日が来る。それまで新しい場所で頑張ろう!」
かもめは心に誓っていた。