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第9話:笑顔咲ク夜と、最後の罰ゲーム

足の裏から血を流し、息も絶え絶えになりながら、笠原智也かさはら ともやは最寄りの交番に飛び込んだ。

 白昼の交番。デスクで書類仕事に追われていた中年の警察官は、血走った目で部屋着のまま、しかも裸足で駆け込んできた青年の姿にぎょっと目を剥いた。

「おい、君! どうした、何かあったのか!?」

「た、助けて……助けてください! 殺される、あいつに、俺は殺される……っ!」

 智也は、カウンターにすがりつき、ボロボロと涙をこぼしながら絶叫した。

「ストーカーです! 元カノが、俺の部屋に勝手に入って……SNSを乗っ取って、鏡に文字を書いて……ドアの前に、赤い、赤い果実を……!」

 パニック状態で支離滅裂な言葉を繰り返す智也を、警察官は慌てて奥のパイプ椅子に座らせた。

「落ち着きなさい! ゆっくりでいい、何があったのか順を追って話してくれ。君の名前は?」

「笠原、智也です。近くの大学の……数日前に別れた、深海沙織ふかみ さおりって女に……ずっと、監視されてて……」

 智也は、ガタガタと震える手で顔を覆いながら、これまでの経緯を必死に説明した。

 別れを告げたこと。SNSのアカウントを乗っ取られ、「仲直りした」という嘘の投稿をされたこと。深夜にドアノブを回されたこと。そして今日、密室のはずの自室に侵入され、鏡に赤い口紅でメッセージを残されていたこと。

 最初は「恋人同士の痴話喧嘩」や「よくあるストーカーの被害妄想」かと半信半疑だった警察官の顔色も、智也のあまりにも常軌を逸した怯え方と、足の裏の生々しい傷を見て、徐々に険しいものへと変わっていった。

「わかった。すぐに応援を呼んで、君の部屋を確認に行く。鍵は持っているね?」

「はい……これ、です」

 智也が震える手で差し出した鍵を受け取り、警察官は無線で本署に応援を要請した。

 数十分後。

 智也のアパートの前に、パトカーが二台到着した。

 智也はパトカーの後部座席で毛布に包まりながら、警察官たちが自分の部屋へと向かうのを見ていた。もう、あの階段を上る気力は彼には残っていなかった。

 そして。現場を確認して戻ってきた警察官たちの表情は、一様に蒼白だった。

「笠原くん……君の言う通りだった。これは、非常に悪質だ。すぐに本署で被害届と、ストーカー規制法に基づく警告の手続きを取ろう」

 警察官の言葉に、智也はようやく、自分が狂っていたわけではなかったという安堵でその場に泣き崩れた。

 警察の現場検証により、部屋の惨状は智也の証言通りであることが確認された。

 洗面台の鏡に赤い口紅で書き殴られた『笑顔咲ク 君と抱き合ってたい』という狂気のメッセージ。智也の青い歯ブラシに寄り添うように置かれたピンク色の歯ブラシ。そして、ドアの前から階段にかけて点々とばらまかれた、大量の赤いさくらんぼと、『もし遠い未来を予想するのなら』というメッセージカード。

 さらに恐ろしい事実が判明した。

 智也のベッドの下から、小型のボイスレコーダーと、GPSの発信機が発見されたのだ。彼女は智也の部屋に侵入した際、これらの機器を仕掛け、智也の生活音や通話のすべてを盗聴し、位置情報を把握できる状態にしていたのである。

「すぐに対象者である深海沙織の行方を追います。アパートにも向かわせましたが、本人は不在のようです。携帯電話も電源が切られているか、着信を拒否している状態ですね」

 本署の取調室で、生活安全課の刑事が険しい顔で告げた。

「笠原くん、君はしばらく自分の部屋には戻らない方がいい。実家はどこだい?」

「実家は……九州です。すぐには帰れません。それに、スマホを壊してしまって、親の電話番号もわからなくて……」

 智也が項垂れると、刑事は「友人や知人で、君を匿ってくれそうな人はいるか?」と尋ねた。

 智也の脳裏に、たった一人、この事態を正確に把握してくれている人物の顔が浮かんだ。

「……日吉玲香ひよし れいか、という同級生がいます。彼女なら、信じられます」

 警察からの連絡を受け、夕方になって警察署に駆けつけてきた玲香は、ボロボロになった智也の姿を見るなり、言葉を失った。

「笠原くん……っ、なんてこと……」

「玲香ちゃん、ごめん……巻き込んで」

「謝らないで! 私がもっと早く、無理やりにでも警察に行かせてれば……。沙織、本当にそこまでやるなんて……」

 玲香は、警察から事件の概要を聞き、怒りと恐怖で唇を震わせていた。

「刑事さん、笠原くんは私が安全な場所に避難させます。私の知り合いが駅前のビジネスホテルで支配人をしていて、事情を話せば、偽名で部屋を取ってくれるはずです。絶対に沙織には見つからないようにしますから」

「頼みます。我々も、深海沙織の行方を全力で追います。もし彼女から接触があれば、絶対に一人で対応せず、すぐに110番してください」

 玲香の手配により、智也はその日の夜、警察署から遠く離れた隣町のビジネスホテルの一室に身を隠すことになった。

 チェックインはすべて玲香が代行し、ホテルの従業員にも「ストーカー被害に遭っているため、絶対に外部に情報を漏らさないでほしい」と厳重に口止めをしてくれた。

「笠原くん、今日はゆっくり休んで。食事は私がコンビニで買ってきたから。……明日の朝、また様子を見に来るからね」

「ありがとう、玲香ちゃん……本当に、何から何まで」

「いいの。沙織の友達だった責任もあるし。……絶対にドアは開けちゃダメだよ。チェーンもかけて」

 玲香が部屋を出て行き、智也はようやく一人きりになった。

 オートロックのドアが閉まる音を確認し、さらにチェーンをかけ、U字ロックも閉める。

 狭いが清潔なビジネスホテルの部屋。そこには、沙織の気配は微塵もなかった。

 フローラルな香水の匂いもない。鏡に赤い文字も書かれていない。

「……助かった。やっと、逃げ切れたんだ」

 智也はベッドに倒れ込み、泥のような疲労感に包まれた。

 警察が動いた以上、沙織の足取りが掴まれるのは時間の問題だ。彼女が逮捕されれば、俺はこの呪いのような束縛から完全に解放される。

 長かった、本当に長かった。

 智也は、玲香が買ってきてくれたおにぎりを一つだけ胃に押し込み、そのままベッドで深い眠りに落ちた。

 夢も見ない、暗闇だけの眠り。数日ぶりに訪れた、完璧な安息だった。

 ――ピリリリリ。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 耳元で、鋭い電子音が鳴り響いた。

 智也は跳ね起き、真っ暗な部屋の中で息を殺した。

 ――ピリリリリ。

 音の正体は、ベッドサイドテーブルに置かれた、ホテルの内線電話だった。

 時計を見ると、深夜の二時を回っている。

 フロントからの連絡だろうか。それとも、玲香に何かあったのか。

 智也は、心臓の鼓動が急激に早くなるのを感じながら、震える手で受話器を取った。

「……はい」

 智也が掠れた声で応答すると、電話の向こうからは、ザァーというかすかなノイズ音だけが聞こえた。

「……もしもし? フロントですか?」

 返事はない。

 ただ、誰かの規則正しい呼吸音が、微かに、確実に聞こえてくる。

 智也の全身の血が、一瞬にして逆流した。

 ――ガチャ。

 不意に、部屋のドアの方から、異音がした。

 智也は受話器を握りしめたまま、ベッドの上で硬直した。

 オートロックのドアの鍵穴に、カードキーが差し込まれる音。

 ピピッ、と電子音が鳴り、ドアノブがゆっくりと押し下げられた。

「嘘だ……」

 智也の口から、絶望の呻きが漏れた。

 チェーンとU字ロックがかかっているため、ドアは数センチしか開かない。

 しかし、その数センチの暗い隙間から。

『……智也くん』

 甘く、優しく、そしてこの世のすべての恐怖を煮詰めたような、沙織の声が響いた。

 内線電話の受話器からも、全く同じ声が、同時に聞こえてくる。

『智也くん、見ぃつけた』

「いやああああっ!!」

 智也は受話器を投げ捨て、ベッドの隅に後ずさった。

 なぜだ。なぜ、ここがわかった。偽名で泊まっているはずだ。玲香以外、誰もこの場所を知らないはずなのに。

『智也くん、酷いよ。私を置いて、こんなところに逃げるなんて』

 ドアの隙間から、真っ黒な瞳が、ギョロリと室内を覗き込んでいるのが見えた。

 そして、その瞳の横には、あの不気味な「仮面の笑顔」が張り付いていた。

「帰れ! 警察を呼ぶぞ!!」

『ふふっ。警察なんて、呼んでも無駄だよ。だって……智也くんは、私と共同作業の途中だもん。罰ゲーム、まだ終わってないよ?』

 沙織は、ドアの隙間から、するりと細い腕を差し込んできた。

 その手には、銀色に光る、鋭利な刃物……カッターナイフが握られていた。

 彼女は、そのカッターナイフを使い、チェーンロックの隙間に腕をねじ込み、強引にチェーンを外そうとガチャガチャと暴れ始めた。

「やめろ! やめてくれえええっ!!」

 智也は半狂乱になりながら、ベッドの上のシーツを握りしめた。

『愛し合う二人、いつの時も!』

 ガチャガチャ、ガチャガチャ!

『隣どおし、あなたとあたし! さくらんぼ!!』

 沙織の腕が、チェーンに擦れて傷つき、血が流れているのも構わず、彼女は狂ったようにドアをこじ開けようとしている。

 そして、ついに。

 ガキンッ!!

 という金属音とともに、チェーンが千切れ、U字ロックが外れた。

「ひっ……!」

 智也は絶望に目を剥き、部屋の壁際まで追い詰められた。

 ゆっくりと、ホテルの部屋のドアが開け放たれる。

 廊下の薄暗い照明を背に受けて、そこに立っていたのは。

 腕から血を滴らせながら、真っ赤なワンピースを着た、深海沙織だった。

「智也くん」

 沙織は、右手でカッターナイフをぶら下げたまま、まるで恋人との待ち合わせに遅れたことを謝るように、小首を傾げて、この上なく無邪気な笑顔を見せた。

「一つでも欠けてたら、とんでもなく足りない、足りない、足りない!

 だから……私が、智也くんと、永遠に欠けないようにしてあげるね」

 笑顔咲ク、彼女の顔。

 それは、笠原智也という青年の人生の、完全なる終焉を告げる、死神の微笑みだった。

 逃げ場のない密室で。

 双子の果実は、ついに、その狂気の赤色で、智也のすべてを染め上げようとしていた。

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