第8話:笑顔咲ク部屋と、未来への予測
壁に叩きつけられ、無惨にひび割れたスマートフォンの液晶画面が、床の上で事切れたように沈黙していた。
笠原智也は、カーテンを閉め切った暗い部屋の中で、膝を抱えたままどれくらいの時間を過ごしただろうか。
窓の外から聞こえていた車の走行音やカラスの鳴き声から推測するに、おそらく夜が明けて、すでに昼を過ぎているはずだ。
喉がカラカラに渇いていたが、立ち上がってキッチンへ向かう気力すら湧かない。ドアの向こう側に、まだ彼女が立っているのではないかという恐怖が、智也の体を金縛りのように縫い付けていた。
「……連絡、しなきゃ」
ひび割れた唇から、掠れた声が漏れた。
スマホは完全に壊れてしまったが、部屋には大学のレポート用に使っているノートパソコンがある。Wi-Fiさえ繋がっていれば、パソコンからLINEやSNSにログインして、日吉玲香やゼミの友人たちに助けを求めることができる。警察にも、今度こそこの異常事態をネット経由で通報しなければならない。
智也は這うようにしてローテーブルに近づき、ノートパソコンを開いた。
電源を入れ、震える手でパスワードを打ち込む。青白いディスプレイの光が、何日もまともに眠っていない智也の落ち窪んだ目を照らし出した。
ブラウザを開き、PC版のLINEにログインしようとした智也は、画面に表示された文字を見て息を呑んだ。
『現在、他の端末でこのアカウントが使用されているため、ログインできませんでした』
「……は?」
智也は目をこすり、もう一度パスワードを入力した。結果は同じだった。
背筋に冷たい汗が流れる。嫌な予感がして、智也は急いで自分のSNSアカウント(TwitterやInstagram)の画面を開いた。パスワードを記憶させていたため、そちらはすぐにログインできた。
タイムラインの一番上。
そこに表示されていたのは、たった数時間前に『智也自身のアカウント』から発信された、信じられない投稿だった。
『いろいろすれ違って悩んでたけど、やっぱり俺には沙織しかいないって気づきました。話し合って、完全に仲直り! これからは二人でずっと一緒にいます。心配してくれたみんな、ありがとう!』
投稿には、楽しそうに微笑み合う智也と沙織のツーショット写真が添えられていた。一年前のデートの時に撮った、智也自身も忘れていたような古い写真だ。
「な、なんだこれ……ふざけんな!」
智也はマウスを握る手を震わせながら、友人たちからのリプライを確認した。
『おー! よかったじゃん!』
『笠原、お騒がせ野郎だな(笑)お幸せに!』
そして、玲香からのダイレクトメッセージも届いていた。
『笠原くん、仲直りしたんだね。あんなに怯えてたのに、結局よりを戻すなんて呆れちゃった。まあ、二人がそれでいいなら私はもう何も言わないけど。沙織を大事にしてあげてね。』
「違う……違う!! 違うんだよ、玲香ちゃん!!」
智也は画面に向かって絶叫した。
アカウントを乗っ取られたのだ。付き合っていた頃、沙織のスマホの充電が切れた時に、智也のスマホを貸してログインさせたことがあった。あるいは、智也のパスワードの規則性を彼女は完全に把握していたのかもしれない。
『これも共同作業だから』と、嬉しそうに智也のスケジュール帳を覗き込んでいた彼女の顔がフラッシュバックする。
深海沙織は、智也のデジタル上の存在を完全にジャックしたのだ。
周囲の人間には「二人は仲直りして幸せに過ごしている」という完璧な偽装を施し、智也が誰かに助けを求める退路を、見事なまでに断ち切った。
これで、智也がいくら「ストーカー被害に遭っている」と訴えても、周囲は「痴話喧嘩の延長」「構ってちゃんのアピール」としか受け取らなくなるだろう。彼女は、智也という人間を社会的に完全に孤立させたのだ。
「……あいつ、悪魔だ」
智也は絶望のあまり、ノートパソコンを勢いよく閉じた。
誰も助けてくれない。誰も信じてくれない。
智也の世界は、今やこの薄暗い1Kのアパートの一室と、外で待ち構えているであろう沙織の「朱色の檻」だけになってしまった。
フラフラと立ち上がり、智也は乾ききった喉を潤すためにキッチンの水道の蛇口をひねった。
コップに水を汲み、一気に飲み干す。
その時。
――ふわり。
智也の鼻腔を、微かな、しかし甘ったるい香りがくすぐった。
フローラル系の、安っぽいシャンプーと、沙織がいつもつけていた香水の入り混じった匂い。
智也の部屋は、ここ数日換気もしておらず、男の一人暮らし特有の埃っぽい匂いしかしないはずだった。それなのに、なぜ今、こんなにもはっきりと「彼女の匂い」がするのか。
智也は、ギギギ、と錆びた機械のように首を動かし、部屋の中を見渡した。
玄関の鍵は、チェーンもU字ロックもかかったままだ。窓の鍵も閉まっている。
しかし、智也の研ぎ澄まされた恐怖のセンサーが、部屋の「異変」を次々と検知し始めた。
洗面所の扉が開いている。
恐る恐る近づくと、洗面台の鏡の前に置いてある智也の青い歯ブラシの隣に、見覚えのない「ピンク色の歯ブラシ」が、まるで寄り添うように並べられていた。
智也が買ったものではない。絶対に。
さらに視線を上げ、洗面台の鏡を見た瞬間。
智也の喉から、ヒュッと息を呑む音が漏れた。
鏡の表面に、真っ赤な口紅で、大きく文字が書き殴られていた。
『笑顔咲ク 君と抱き合ってたい』
真っ赤なインクが、血の涙のように鏡の下へと垂れ下がっている。
「……あ、あ、ああ……」
智也は後ずさりし、洗面所の壁に背中を打ち付けた。
いつだ。いつ入った。
鍵はかけていた。合鍵なんて渡したことはない。
いや、合鍵だ。俺がポストの裏に隠していた予備の鍵。あいつがレシートを挟みに来た時、それを持ち去ったんだ。
そして、俺が恐怖で疲れ果て、泥のように眠っていた昨日の深夜。
ドアノブをガチャガチャと回す音は、鍵を開けるための偽装。俺が布団を被って耳を塞いでいる間に、彼女は俺の部屋に忍び込み、俺の寝顔を見下ろしながら、これを書き残していったのだ。
笑顔咲ク、君と抱き合ってたい。
彼女は、狂気に満ちた仮面の笑顔で、眠る智也の首筋に顔を埋め、抱きしめていたのかもしれない。あの甘ったるい香水の匂いは、幻覚ではなく、彼女が確かにこの部屋で「智也の隣」にいたという、圧倒的な証拠だった。
「……逃げなきゃ」
智也の頭の中で、生存本能が警報を鳴らした。
こんな部屋にいたら殺される。精神を食い殺される。
警察だ。今度こそ、直接警察署に駆け込んで、この鏡の文字を見せれば、不法侵入で逮捕してもらえるはずだ。
智也はパニック状態で部屋着のまま財布だけを鷲掴みにし、玄関へと向かった。
震える手でU字ロックを外し、チェーンを解き、ドアノブを回す。
ガチャリ、とドアが開いた。
初夏の明るい日差しが、暗い玄関に差し込んでくる。
智也が外へ飛び出そうとした、その足元。
「……ひっ」
ドアの真ん前の廊下に、何か赤いものが点々と落ちていた。
一つ、二つではない。何十、何百という、おびただしい数の赤い球体。
スーパーで大量に買い占められたであろう、本物の「さくらんぼ」だった。
それは、智也の部屋のドアの前から、階段の下に向かって、まるで血の道標のように点々と並べられている。
そして、ドアノブには、赤いリボンで結ばれた一枚のカードがぶら下がっていた。
智也は、恐怖でガタガタと震えながら、そのカードをめくった。
そこには、これまでになく丁寧な、美しい文字で、こう記されていた。
『もし遠い未来を予想するのなら
愛し合う2人 いつの時も
隣どおし あなたとあたし さくらんぼ』
ただの歌詞の引用ではない。
それは、深海沙織から笠原智也への、永遠の呪縛の宣告だった。
遠い未来まで、お前は絶対に逃げられない。愛し合う二人は、私が死ぬか、お前が死ぬまで、いつの時も隣どおしなのだと。
智也は、そのカードを握りつぶし、靴も履かずに裸足のまま、赤いさくらんぼを踏み潰しながらアパートの階段を転がり落ちるように駆け下りた。
「誰か! 助けてくれ! 誰か!!」
白昼の住宅街に、智也の悲痛な叫び声が響き渡る。
だが、彼のSOSに応える者は誰もいなかった。彼を助けてくれるはずだった友人たちは皆、SNS上の『幸せな恋人同士』という虚像を信じ込んでいるのだから。
智也は、アスファルトで足の裏から血を流しながら、最寄りの交番へと向かって無我夢中で走り続けた。
背後から、キィ、キィ、という幻聴のような自転車のブレーキ音が聞こえた気がしたが、智也はもう振り返ることすらできなかった。
彼の精神は、朱色の果実の甘い毒によって、完全に蝕まれ、瓦解する寸前だった。




