第7話:自転車の旅と、書きあらわせない狂気
カフェで決定的な別れを告げ、深夜のアパートのドアノブを回された恐怖の夜から、三日が経過していた。
笠原智也の生活は、たった数日で完全に崩壊していた。
朝。カーテンの隙間から差し込む朝日を浴びても、智也の心に安堵は訪れない。
一睡もできずに充血した目で、ドアの覗き穴から外の廊下を何十分も確認し、誰もいないことを確信してから、逃げるようにアパートを飛び出す。
大学へ向かう道中も、すれ違う人すべてが沙織の差し金ではないかと疑い、少しでも背格好が似ている黒髪の女性を見るだけで、心臓が早鐘を打って冷や汗が吹き出した。
かつて「社交的で誰とでも打ち解ける」と言われていた智也の姿は、見る影もなかった。
ゼミの友人たちから「智也、最近顔色悪いぞ」「飲みに行こうぜ」と誘われても、「悪い、ちょっと体調が」と全て断っていた。誰かと一緒にいるところを沙織に見られれば、その友人にまで被害が及ぶかもしれないという恐怖があったからだ。
結果として、智也は自ら進んで孤独の世界へと足を踏み入れ、沙織が望む「智也くんと私だけの世界」の土台を自ら作り上げてしまっていることに、彼自身は気づく余裕すら失っていた。
水曜日の昼休み。
智也は、なるべく人目の多い学生食堂の隅の席で、味のしないサンドイッチを胃に流し込んでいた。
スマートフォンは、沙織の連絡先をすべてブロックしたままだ。しかし、見知らぬ番号からの着信が日に何十件も入るようになっていた。電源を切ることも考えたが、ゼミやアルバイトの連絡まで絶たれるわけにはいかず、常にマナーモードにしてポケットの奥深くに沈めてある。
「……笠原くん」
不意に背後から声をかけられ、智也は「ヒッ」と短い悲鳴を上げて肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには心配そうに眉をひそめた日吉玲香が立っていた。
「れ、玲香ちゃんか……脅かさないでくれよ」
「ごめん。でも、あんたの顔、本当にヤバいよ。幽霊みたい。……沙織、あれからどう?」
玲香は智也の向かいの席に座り、声を潜めて尋ねた。
「……最悪だ。別れを告げた日から、完全にタガが外れたみたいだ」
智也は、震える手で顔を覆った。
「深夜に俺の部屋のドアノブをガチャガチャ回しに来たり……昨日は、俺の自転車のサドルに、赤いペンで『おはよう』って書かれた紙が貼ってあった。ブロックしてるのに、俺の行動を全部把握してるんだ。どこから見られてるのかわからなくて、気が狂いそうだよ」
玲香は息を呑み、周囲を警戒するように見回した。
「それ、もう立派な犯罪よ。警察には?」
「行ったよ、昨日。でも……実質的な身体への危害や、脅迫めいた言葉がないからって、パトロールを強化するくらいしかできないって言われたんだ。ドアノブを回された証拠もないし、手紙もただの『おはよう』だから……」
智也の絶望的な声に、玲香も唇を噛んだ。
深海沙織という女は、頭が良い。法に触れるギリギリのラインを理解し、智也の精神だけを確実に削り取る方法を選んでいるのだ。
直接的な暴力や脅迫の言葉を使えば、警察が動く。だから彼女は、あくまで「愛情表現の延長」を装いながら、智也の日常を侵食し続けている。
「……ごめんね、笠原くん。私が沙織に強く言いすぎたせいかも。あの子、私にも一切連絡してこなくなったの」
「玲香ちゃんのせいじゃない。俺が甘かったんだ……彼女の『愛』を、俺がコントロールできるって勘違いしてたんだから」
智也は力なく立ち上がった。
「午後から講義があるから、行くよ。……玲香ちゃんも、気をつけてくれ。あいつ、俺に近づく人間を本気で『邪魔なもの』って認識してるかもしれないから」
「わかった。笠原くんも、本当に気をつけてね。何かあったらすぐ連絡して」
玲香と別れ、智也は重い足取りで自分の講義室がある棟へと向かった。
指定された座席に座り、バッグから教科書を取り出そうとした時だった。
「……あ」
智也の喉の奥で、声が凍りついた。
智也の座る机の引き出し(物入れ)の中に、見覚えのある小さな風呂敷包みが、そっと置かれていたのだ。
さくらんぼの柄がプリントされた、赤い風呂敷。
それは、付き合っていた頃、沙織がいつも手作りのお弁当を包んで持ってきていたものだった。
震える手でその風呂敷を引き寄せると、結び目に一枚のメッセージカードが挟まれていた。
可愛らしい丸文字で、こう書かれている。
『智也くん、最近ご飯ちゃんと食べてないでしょ? ちゃんと食べて、笑顔咲ク、智也くんでいてね。
あ、これも共同作業だから、残さず食べてね(笑顔の絵文字)』
周囲には、講義を待つ学生たちが大勢いる。
それなのに、沙織はいつの間にかこの教室に忍び込み、智也が必ず座るこの席に、お弁当を仕掛けていったのだ。
智也は嘔吐感を覚え、とっさにそのお弁当箱をバッグにねじ込むと、講義を受けることなく教室から逃げ出した。
息を切らして大学のキャンパスを抜け出し、アパートへと続く道を早足で歩く。
もう、大学すら安全な場所ではない。俺のプライベートな空間は、すべて彼女の「朱色の檻」に飲み込まれてしまったのだ。
夕暮れが近づき、空が鈍い茜色に染まり始めていた。
大通りを避け、なるべく人通りの少ない裏道を通って帰ろうとした智也の耳に、微かな音が届いた。
――キィ、キィ。
車輪が擦れるような、微かな金属音。
智也は足を止め、背後を振り返った。
十メートルほど後ろ。夕闇が迫る住宅街の細い道に、自転車を押して歩く人影があった。
深海沙織だった。
彼女は、あの嵐の夜と同じように、智也の後ろを、一定の距離を保ちながら自転車を押して歩いていた。
ストーキングしていることを隠そうともしていない。智也が足を止めると、彼女もピタリと足を止め、無表情のまま、真っ黒な瞳で智也をじっと見つめ返してくる。
「……っ!」
智也は踵を返し、走り出した。
後ろから、キィ、キィ、という自転車のブレーキ音が、智也の走るスピードに合わせて早くなる。
「やめろ……ついてくるな!!」
智也は叫びながら、住宅街の角を曲がった。
曲がり角の先で立ち止まり、壁に背中を押し当てて荒い息を吐く。
キィ、キィ、キィ。
音が、近づいてくる。
智也は恐怖で膝が震え、その場にへたり込みそうになった。
角から、ゆっくりと自転車の前輪が姿を現した。
そして、沙織が顔を覗かせる。
彼女は、壁に張り付いて震える智也を見つけると、能面のような顔に、ペタリと「仮面の笑顔」を貼り付けた。
「智也くん、走ったら危ないよ」
沙織は、何事もなかったかのように、優しく、甘い声で言った。
「私ね、智也くんと一緒に、こうして歩くの好きなんだ。……泣き泣きの1日や、自転車の旅や。私たち、いろんな思い出を作ってきたよね」
「来るな! 近づくな!!」
智也が狂乱して叫ぶと、沙織は少しだけ悲しそうな顔を作った。
「どうして? 私、智也くんの隣にいたいだけなのに。……あ、もしかして、私が伝えたいことが多すぎて、智也くんを困らせちゃった?」
沙織は、自転車の籠から、分厚いファイルの束を取り出した。
それは、何百枚もの便箋が綴じられた、異様な厚みのファイルだった。
「これね、智也くんに伝えたくて、ずっと書いてたの。智也くんの好きなところ、智也くんと一緒に見たい未来、智也くんが誰と話して誰と笑ってたか……全部、全部記録してるの」
沙織は、そのファイルを智也の足元にポイッと投げ捨てた。
バサッという音とともに、ファイルから溢れ出した便箋が、夕暮れの風に吹かれて数枚散らばった。
そこには、赤いボールペンで、隙間なく、呪詛のように言葉が書き殴られていた。
『書きあらわせない』
『だって多いんだもん!』
『智也くん智也くん智也くん智也くん』
『なんで逃げるの』
『罰ゲームだよ』
『一生繋がってたい』
沙織は、足元で散らばる自分の狂気の産物を見下ろしながら、クスリと笑った。
「口で言うだけじゃ足りないから。書きあらわせないくらい、だって、智也くんへの愛は多いんだもん!」
そのポップで明るい言葉の響きが、智也の理性を完全に打ち砕いた。
「……ああああっ!!」
智也は両手で耳を塞ぎ、散らばった便箋を踏み躙りながら、狂ったように走り出した。
後ろから沙織が追いかけてくる気配はなかった。ただ、彼女の「ふふっ」という楽しげな笑い声だけが、智也の背中にねっとりと絡みついて離れなかった。
アパートに逃げ帰り、ドアに何重もの鍵をかけた智也は、暗闇の中で膝を抱えてうずくまっていた。
もう、限界だった。
警察は当てにならない。大学にも行けない。外を歩けば彼女の視線があり、家の中にいてもドアの向こうから彼女の気配がする。
深海沙織という女は、自分という存在を完全に破壊するまで、この「罰ゲーム」を終わらせる気はないのだ。
智也のスマートフォンが、ブブッ、と震えた。
ブロックしているはずの沙織からではない。着信画面には、『非通知』の文字が浮かんでいる。
智也は、震える指で通話ボタンを押した。
耳に当てたスピーカーから聞こえてきたのは。
『……もし、あの向こうに、見えるものがあるなら』
録音された、沙織の歌声だった。
伴奏もない、アカペラの『さくらんぼ』。
その歌声は、ひどく単調で、低く、お経のように不気味なリズムで繰り返されていた。
『愛し合う二人、幸せの空……』
『隣どおし、あなたと、あたし、さくらんぼ……』
『もういっかい!!』
智也は「うわぁぁぁぁっ!」と叫び声を上げ、スマートフォンを壁に向かって力いっぱい投げつけた。
ガチャン、という鈍い音とともに、画面が割れ、部屋に静寂が戻る。
だが、智也の脳内では、その歌声が延々とループし続けていた。
逃げ場のない朱色の檻の中で、智也の精神は、確実に音を立てて崩壊し始めていた。




