第6話:歴史の終焉と、微笑む断頭台
玲香から沙織の狂気じみたノートの存在を聞かされた翌日。
智也は、大学から数駅離れた繁華街にある、ざわついたファミリーレストランで玲香と向かい合っていた。
目の前にあるハンバーグには一切手をつけていない。コーヒーだけを胃に流し込み、智也は血走った目でテーブルを見つめていた。数日まともに眠れていない彼の顔には、かつての社交的で爽やかな「ナイスガイ」の面影は微塵もなく、ただ恐怖と疲労に苛まれる青年の姿があった。
「……別れる。今日、絶対に別れを告げる」
智也の低く、乾いた声に、玲香は小さく頷いた。
「そうね。それがいい。これ以上『距離を置く』なんて中途半端な言葉で逃げ道を作っちゃダメ。あの子は、その逃げ道を曲解して、笠原くんの死角に潜り込んだんだから」
玲香の言葉は鋭く、そして正確だった。
智也の「優しさ」は、沙織にとっては何の解決にもならなかった。波風を立てまいと選んだ曖昧な言葉が、彼女の執着をより深く、より陰湿なものへと変異させてしまったのだ。
「直接会って言うつもり? それとも電話?」
「……直接会う。電話やLINEじゃ、あいつは絶対に納得しない。それに、俺が直接この目で、きっぱりと関係を断ち切る意志を見せないとダメだと思うんだ」
「わかった。でも、絶対に密室は避けて。人がたくさんいる、昼間の明るいカフェにしなさい。万が一あの子が暴れても、周りの目があれば抑えられるから」
玲香の忠告に従い、智也はその日の午後、大学近くの大きな通りに面した、常に学生で賑わっているオープンカフェに沙織を呼び出した。
『わかったよ。すぐ行くね(笑顔の絵文字)』
LINEの返信は、ものの数秒で返ってきた。
その不気味なまでの即答と、文末のポップな絵文字に、智也は背筋が凍る思いがした。これから自分に別れを告げられるとは微塵も思っていないのか、それとも、すべてを分かった上で「彼女」のフリを続けているのか。
午後三時。
約束の時間ちょうどに、カフェの入り口のドアベルが鳴った。
智也の座るテーブルに向かって歩いてくる沙織の姿は、以前と何一つ変わっていなかった。綺麗に切り揃えられた長い黒髪、清楚な白いブラウス。そして、智也の顔を見つけた瞬間にパァッと花開くような、無邪気で完璧な笑顔。
「智也くん! 待たせちゃった?」
沙織は、智也の向かいの席にちょこんと座り、嬉しそうに微笑んだ。
笑顔咲ク。
その言葉がこれほどまでに悍ましく感じられたことはない。彼女のその笑顔の裏で、俺の名前を呪いのように書き連ねたノートが存在しているのだ。
「……いや、俺も今来たところだ」
智也は、テーブルの下で震える手を強く握りしめ、冷や汗をにじませながら答えた。
「今日、呼び出したのは他でもないんだ。沙織……」
「あ、そうだ智也くん。これ、この前の講義のノート。コピーしといてあげたよ」
智也の言葉を遮るように、沙織がバッグからクリアファイルを取り出し、テーブルの上に置いた。
その瞬間、智也の心臓がドクンと大きく跳ねた。
クリアファイルの中に入っていたのは、間違いなく講義のプリントだった。だが、智也の視線は、そのプリントではなく、沙織の手元を凝視していた。
彼女の白い指先。爪の隙間に、ほんのわずかに赤いインクの跡がこびりついていたのだ。
あの、異常な大学ノートを書き殴った時の名残だろうか。それとも、智也の手帳を修正テープで白塗りする前に、何かを書き込んでいた跡なのか。
「……沙織」
智也は、乾いた唇を舐め、意を決して彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「もう、やめにしよう」
「え?」
沙織は、小首を傾げた。その表情は、本当に不思議そうな、純粋な子供のようだった。
「俺たち、別れよう」
カフェの喧騒が、一瞬だけ遠のいたような気がした。
智也の口から放たれた明確な拒絶の言葉。
沙織は、瞬きを一つだけして、それから、ゆっくりと口角を上げた。
「……智也くん、冗談キツイよ。距離を置くって約束、私ちゃんと守ってるでしょ? LINEもしてないし、GPSだって切ってあげたじゃない」
「冗談じゃない。本気だ」
智也は、テーブルに身を乗り出し、声を低くして続けた。
「手帳のスケジュールを勝手に修正テープで消しただろ。俺が捨てたレシートを拾って、郵便受けに挟んだだろ。……もう、そういうのは耐えられないんだ。俺は、お前が怖い」
はっきりと、「怖い」という言葉を口にした。
それは、智也がこれまで必死に取り繕ってきた「優しい彼氏」の仮面を自ら叩き割る行為だった。
沙織の笑顔が、ピタリと止まった。
まるで、ビデオの一時停止ボタンを押されたかのように、彼女の表情筋が完全に硬直した。
真っ黒な瞳が、智也の顔のパーツを一つ一つ、解剖するようにじっと見つめている。
「……怖い? 私が?」
沙織の口から漏れた声は、まるで地の底から響くような、無機質で冷たいものだった。
「だって、智也くんが『縛られるのが嫌だ』って言うから。だから、目に見えるスケジュールは消してあげたんだよ? その代わり、私が智也くんの行動を全部、頭の中に記憶しておけばいいだけの話じゃない」
沙織は、狂った論理を、まるで素晴らしい解決策でも見つけたかのように淡々と語った。
「レシートだって、智也くんが落としちゃったのかなって思って、届けてあげただけだよ? 何がいけないの? 私、智也くんのために、全部やってあげてるのに」
「それが異常だって言ってるんだ!!」
智也は思わず声を荒げ、テーブルをドンッと叩いた。
周囲の客が何人かこちらを振り返ったが、もう世間体など気にする余裕はなかった。
「俺のプライバシーを侵害して、勝手に監視して……そんなの、愛情でもなんでもない。ただのストーカーだ! 俺はもう、お前とは一秒たりとも一緒にいたくない!」
智也の明確な怒絶と、恐怖から来る怒りの言葉。
それを聞いた沙織は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、再び口角を吊り上げた。
「……そっか」
沙織は、テーブルの上に置かれた自分の手を、そっと自分の胸に当てた。
「智也くんは、私の愛情を『ストーカー』って呼ぶんだね」
「そうだ。だから、もう俺には関わらないでくれ。連絡も一切してくるな」
智也は言い捨てると、自分の分のコーヒー代をテーブルに叩きつけ、席を立ち上がった。
「待って、智也くん」
沙織の声が、背中から追いかけてきた。
立ち止まりたくなかったが、智也は反射的に足を止めてしまった。
「……思いがけなく歴史は、さらに深いけれど」
沙織が、またあの『さくらんぼ』の歌詞を、呪詛のように呟いた。
「私たちが過ごしてきた2年間は、そんなに簡単に消せるものじゃないよ? 泣き泣きの一日も、自転車の旅も……全部、智也くんの体の中に染み込んでるはずでしょ?」
振り返ると、沙織は座ったまま、真っ黒な瞳で智也を見上げていた。
その顔には、別れを告げられた悲しみなど微塵もない。ただ、絶対に逃がさないという、冷酷なまでの確信だけが張り付いていた。
「……一つでも欠けてたら、とんでもなく足りないの。智也くんは私の一部なんだから、勝手に切り離そうとしたら、血が出ちゃうよ」
「……狂ってる」
智也はそれだけを言い残し、逃げるようにカフェから飛び出した。
初夏の強い日差しの中を、智也は息を切らして走った。
とにかく彼女から離れたかった。あの異常な空間から、一刻も早く逃げ出したかった。
アパートまでの道を走りながら、智也は歩きスマホで沙織のLINEをブロックし、着信拒否に設定した。SNSのアカウントもすべてブロックし、彼女と繋がるあらゆるデジタルの糸を強引に引きちぎった。
アパートの自室に転がり込むと、智也は急いでドアの鍵を閉め、チェーンをかけ、さらにU字ロックまで二重にかけた。
カーテンを隙間なく閉め切り、暗い部屋の中で、床にへたり込む。
激しい動悸が収まらない。全身が汗でびっしょりと濡れていた。
「……終わった。終わったんだ」
智也は、自分に言い聞かせるように何度も呟いた。
はっきりと別れを告げた。連絡手段も絶った。もう彼女が俺に干渉してくる正当な理由は、何一つ存在しない。
俺は、自由になったんだ。
そう思いたかった。
だが、恐怖は去るどころか、暗い部屋の隅からじわじわと這い出してくるような感覚があった。
あのカフェで別れ際に見せた、沙織の「微笑み」。
あれは、別れを受け入れた者の顔ではなかった。まるで、これから始まる「本当の罰ゲーム」の幕開けを喜ぶ、断頭台の執行人のような笑顔だった。
その夜。
智也は疲れ果て、ベッドの上で泥のように眠りに落ちようとしていた。
――ガチャン。
深夜二時。
玄関のドアノブが、外からゆっくりと、そして確実に回される音がした。
智也は弾かれたように目を覚まし、ベッドの上で息を殺した。
鍵はかかっている。絶対に開くはずがない。
――ガチャガチャ、ガチャン。
ドアノブは、執拗に何度も回された。
そして。
『……智也くん』
ドアの向こうから、くぐもった、しかし確かな沙織の声が聞こえた。
『開けて? 私たち、隣どおしでしょ? なんで鍵なんてかけるの?』
声は、甘く、優しく、そして狂気に満ちていた。
智也は、声を出さないように自分の口を両手で塞ぎ、ガタガタと震える体をベッドの隅に押し付けた。
別れを告げたことで、彼女を縛っていた「彼女としてのルール」は完全に消滅した。
深海沙織は、常軌を逸した本物の「ストーカー」として、ついにその牙を剥き出しにして智也の日常に侵入してきたのだ。
ドアの向こうで、沙織がクスリと笑う声が聞こえた。
『逃げられないよ、智也くん。笑顔咲クまで……ずっと、繋がってたいんだから』




