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第5話:白塗りの手帳と、見えない隣人

講義棟の裏庭で、沙織さおりが能面のような不気味な笑顔を残して立ち去ってから、きっちり一週間が経過していた。

 その間、智也ともやの日常には、劇的で、そして不気味なほどの「平和」が訪れていた。

 金曜日の夜。智也は大学近くの居酒屋で、ゼミの友人たちとテーブルを囲んでいた。

 ジョッキがぶつかる音、どこかのテーブルから聞こえるバカ笑い、焼き鳥の煙の匂い。以前の智也にとっては当たり前だった華やかな週末の光景が、今はひどく新鮮に感じられた。

「おっ、智也。今日はスマホ全然鳴らないじゃん」

 向かいに座る友人が、枝豆を口に放り込みながらニヤニヤと笑った。

「沙織ちゃんのあのポップな着信音、今日は一回も聞いてないぞ。ついに首輪の紐、少し伸ばしてもらったのか?」

「……まあ、そんなところ。お互い、少し自分の時間を大切にしようって話し合ったんだ」

 智也は、手元のウーロンハイのグラスを傾けながら、わざと明るく答えた。

 嘘ではなかった。あの日以来、智也のスマートフォンは不気味なほど沈黙を守っている。

 講義の合間を縫うように届いていた「今何してるの?」というLINEもなければ、夜中の長電話もない。智也が恐る恐る「今日はゼミの飲み会に行ってくる」とメッセージを送っても、かつてのように誰がいるのかと詰問されることもなく、ただ『わかったよ。楽しんできてね(笑顔の絵文字)』と、数分後に淡々とした返信があるだけだった。

 スマートフォンの位置情報共有アプリ(GPS)も、沙織の方から接続が切られていた。

 完璧だった。智也が望んだ通りの、「適度な距離感を持った恋人同士」の形に、沙織はあっさりと合わせてくれたのだ。

「なんだ、話し合えばわかる子だったんじゃん。笠原くんが甘やかしすぎてただけだね」と、玲香れいかも言っていた。智也自身も、最初はホッと胸をなでおろしていた。俺の考えすぎだったんだ。沙織はちゃんと理解してくれた。これでまた、健全な付き合いができる、と。

 しかし。

 この一週間、智也の胸の奥底には、どうしても拭い去ることのできない「奇妙な違和感」がヘドロのように沈殿し続けていた。

 それは、夜、一人でアパートの部屋にいる時に顕著になる。

 誰もいないはずの部屋。鍵はしっかりとかかっている。それなのに、ふとした瞬間に背筋がゾクリと粟立つような、誰かに「見られている」という強烈な視線を感じるのだ。

 智也は居酒屋のトイレに立ち、鏡の前で冷水で顔を洗った。

 鏡に映る自分の顔は、自由を手に入れたはずなのに、どこかひどく疲労しているように見えた。

「……考えすぎだ。俺が神経質になってるだけだ」

 ポタポタと水滴が落ちる顔をタオルで拭いながら、智也は自分に言い聞かせた。束縛から解放された反動で、逆に落ち着かなくなっているだけだ。そう無理やりに納得させ、席へと戻った。

 深夜零時過ぎ。

 飲み会がお開きになり、智也は一人、少し冷たい夜風に吹かれながらアパートへの帰り道を歩いていた。

 ほろ酔いの頭で、ふとバッグの中からシステム手帳を取り出す。来週のシフトと、ゼミの課題の提出日を確認するためだ。

 街灯の下で手帳を開き、智也はページをめくった。

「……え?」

 酔いが、一瞬にして醒めた。

 全身の毛穴がブワッと開き、冷たい汗が背中を伝い落ちるのがわかった。

 手帳のページが、異様なことになっていた。

 智也の手帳には、智也自身が黒や青のペンで書き込んだスケジュールの他に、沙織が勝手に赤いペンで書き込んだ『沙織とデート』『沙織・記念日』といった予定がいくつも記されていたはずだった。

 それが、すべて「消されて」いたのだ。

 いや、消しゴムで消されたり、二重線で消されたりしているわけではない。

 沙織が書き込んだ赤い文字のスケジュールの上だけが、信じられないほど精巧に、ミリ単位の狂いもなく「修正テープ」で真っ白に塗りつぶされていたのだ。

 前後の智也の黒い文字には一切触れることなく、まるで外科手術でも施したかのように、手帳のすべてのページから「沙織」という存在を示すインクだけが、完璧に白塗りされて消去されていた。

「な、なんだこれ……いつの間に……」

 智也は震える指で、白いテープの上をなぞった。

 手帳はずっと自分のバッグの中に入れていたはずだ。いつ彼女がこんなことをする時間があった? 講義で隣に座った時か? それとも、俺がトイレに行っている数分の隙に?

『智也くんのためなら、私……何でもするよ。智也くんを不安にさせるもの、全部なくしてあげる』

 裏庭で彼女が発した、感情の抜け落ちた声が脳内で再生される。

 彼女は、俺が「依存しないでくれ」と言ったから、俺の手帳から自分の存在を「なくして」みせたのだ。この常軌を逸した執念深さで。

 智也は呼吸が浅くなるのを感じながら、足早にアパートへと急いだ。

 階段を駆け上がり、自分の部屋のドアの前に立つ。ポケットから鍵を取り出そうとした時、智也はピタリと動きを止めた。

 ドアノブのすぐ横。

 金属製の郵便受けの差し込み口に、ほんのわずかな違和感があった。

 智也は常に、郵便受けのフタが完全に閉まるように気をつけている。しかし今、そのフタに、本当に数ミリだけ、何か薄いものが挟まっているように見えた。

 智也は息を殺し、震える手でその挟まっているものを引き抜いた。

 それは、一枚の細長いレシートだった。

 今日の夕方、智也が大学近くのコンビニで、ノートとボールペンを買った時のレシートだ。確か、買った後に不要なレシート入れの箱に丸めて捨てたはずのものだった。

 それが、丁寧に広げられ、シワを伸ばされた状態で、智也の部屋の郵便受けに挟まれていた。

「……ヒッ」

 声にならない悲鳴が漏れた。

 レシートの裏。そこに、赤いボールペンで、一言だけ書かれていた。

『ノート、何に使うの? 智也くん』

 背後に、誰かがいるような気がした。

 智也は弾かれたように振り返り、暗い廊下の奥を見つめたが、そこには非常灯の緑色の光がぼんやりと点灯しているだけで、誰の姿もなかった。

 だが、見られている。確実に。

 彼女はGPSの接続を切った。LINEの監視もやめた。それは「智也を解放した」からではない。

 デジタルな監視をやめ、物理的に智也の「隣」に潜み、息を殺してストーキングする完全な監視体制へと移行しただけなのだ。

 智也は慌てて鍵を開け、部屋に逃げ込むと、チェーンをしっかりと掛け、ドアに背中を預けて座り込んだ。

 心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鳴っている。手の中にある白塗りの手帳と、赤い文字のレシートが、この世のどんな呪いよりも恐ろしいものに見えた。

 翌週の月曜日。

 智也は寝不足で隈の酷い顔のまま、大学のキャンパスへと向かった。あの夜以来、部屋の窓のすぐ外から、深夜に「キィッ」という自転車のブレーキ音が何度も聞こえる気がして、まともに眠れていなかったのだ。

「笠原くん!」

 講義棟のロビーで、智也を呼び止める声があった。日吉玲香だった。

 彼女の顔もまた、智也と同じように、いやそれ以上に蒼白だった。

「玲香ちゃん……どうしたの、そんな顔して」

「笠原くん、あんた……沙織に何を言ったの? どうやって話し合ったの?」

 玲香は智也の腕を強く掴み、周囲を警戒するように声を潜めた。

「俺はただ、お互いの時間を尊重しようって……少し距離を置きたいって言っただけだよ。あいつ、わかったって言ってくれたのに」

「わかってなんかない! 笠原くん、あの子、確実におかしくなってる」

 玲香の声は震えていた。

「昨日ね、休日に大学の図書館に行ったら、沙織がいたのよ。一番奥の、誰からも見えない席で。声かけようと思ったんだけど……あの子の様子が異常で、怖くて声かけられなかった」

「異常って……何をしてたんだ?」

「ノート……大学ノートを何冊も机に積んで、ひたすら何かを書き殴ってたの。ブツブツと、何か呪文みたいなことを呟きながら」

 玲香は、自分の腕をさすりながら、思い出すのも恐ろしいというように顔を歪めた。

「私、あの子がトイレに立った隙に、そのノートを少しだけ盗み見ちゃったの。……中身、なんだと思う?」

「……わからない」

「笠原くんの名前。笠原智也、笠原智也って、ページの端から端まで、隙間なくびっしりと書き込まれてた。赤いペンで。……それだけじゃない」

 玲香は、智也の目を真っ直ぐに見据えた。

「その名前の上に、黒いマジックで、ぐちゃぐちゃに大きな文字で書かれてたの。

『邪魔なもの全部消す』

『私が智也くんの隣を守る』

『罰ゲームの時間』って……」

 共同作業、罰ゲーム。

 智也の脳裏に、沙織が嵐の夜に語った『さくらんぼ』の歌詞が蘇った。

 愛し合う二人は、いつの時も、隣どおし。

 もし、その間に「邪魔なもの」が入り込むのなら。智也がそれを「息苦しい」と言うのなら。

 彼女は、自分が身を引くのではなく。

 智也を縛り付けている「見えない檻」の存在を、完全に隠蔽したまま、智也の周囲にあるすべてのものを「排除」しようとしているのだ。

「笠原くん……沙織は、距離を置いたんじゃない。潜伏したのよ。あなたの気配を感じられないと死んじゃうあの子が、あなたから離れるわけないじゃない」

 玲香の言葉が、死刑宣告のように智也の耳に響く。

 笑顔咲ク、愛しい恋人はもういない。

 そこにいるのは、智也の日常のすぐ隣、目に見えない死角にぴったりと寄り添い、狂気の刃を研ぎ澄ませている「見えない隣人」だった。

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