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第4話:硝子の均衡と、剥がれ落ちた笑顔

日吉玲香ひよし れいかと喫茶店で話したあの日から、智也ともやの心には重い鉛のような決意が居座り続けていた。

 大学のキャンパスを歩いていても、友人と話していても、頭の片隅には常に深海沙織ふかみ さおりの顔があった。それは以前のような愛おしい恋人の顔ではなく、自分をじっと監視し、少しでも動けば締め付ける「朱色の檻」の番人の顔だった。

「……今日こそ、ちゃんと言わなきゃダメだ」

 五月晴れの爽やかな風も、智也の心を晴らすことはできなかった。彼はポケットの中でスマートフォンを強く握りしめる。そこには、沙織からの『智也くん、今日の3限終わったら、いつもの場所で待ってるね♪』というメッセージが表示されていた。

 いつもの場所。それは智也の講義棟の裏にある、人通りの少ないベンチだった。そこはかつて、二人が初めてキスをした思い出の場所でもあった。

 智也は、玲香の言葉を何度も反芻した。

『それ、愛情じゃなくてただの依存と支配だからね』

『嫌なことは嫌だって、はっきり言わないと』

 波風を立てるのが嫌で、彼女の涙が怖くて、これまでずっと逃げてきた。でも、もう限界だった。俺自身の生活を取り戻すために。そして、沙織自身のためにも。

 3限の講義が終わり、重い足取りで裏庭へ向かうと、そこにはすでに沙織が座っていた。

 彼女は、智也が以前「似合うね」と言った、淡いピンク色のワンピースを着ていた。長い黒髪を風になびかせ、俯いて何かをじっと見つめている。その姿は、遠目には絵画のように美しく、そしてどこか儚げに見えた。

「……沙織」

 智也が声をかけると、沙織はビクッと肩を揺らし、パッと顔を上げた。

 智也の姿を捉えた瞬間、彼女の顔に嘘のように満面の笑顔が咲く。

「智也くん! お疲れ様。はい、これ。冷たいお茶買っておいたよ」

 沙織は小走りで駆け寄ると、当たり前のように智也の腕に絡みつき、冷えたペットボトルを差し出した。

 笑顔咲ク。

 その言葉通り、彼女の笑顔はいつだって無邪気で、智也への純粋な愛情に満ち溢れていた。その笑顔を見るたびに、智也の決意は鈍り、言葉は喉の奥に引っ込んでしまう。

「……ありがとう、沙織。あのさ、ちょっと座って話さないか?」

「うん、いいよ。どうしたの? 改まって」

 沙織は不思議そうに首を傾げながら、智也に促されてベンチに腰を下ろした。智也の腕は、まだ彼女によって強く抱きかかえられたままだ。

 智也は一度、深く息を吸い込んだ。心臓がドクドクと警鐘を鳴らしている。

「……沙織。最近の俺たちのことなんだけど」

「うん? 私たちのこと?」

「ああ。……少し、お互いに依存しすぎてるんじゃないかって思うんだ」

 智也がそう切り出すと、沙織の腕に絡みついていた力が、ピクリと強くなった。彼女の笑顔が、硝子の均衡が崩れるように、わずかに歪む。

「……依存? どういうこと?」

「例えば……俺のスマホのGPSを常に共有してたり、友人と会うのを制限されたり、返信が少し遅れただけで何十件もスタンプを送ってきたり。……正直に言うよ。沙織の愛情は嬉しいけど、最近は少し、息苦しく感じる時があるんだ」

 智也は、彼女の目を見ずに、一気に言葉を吐き出した。

「俺にも、一人になる時間が必要だし、友人と過ごす時間も大切にしたい。沙織のことも好きだけど、今のままじゃ……二人ともダメになっちゃうと思うんだ」

 長い、沈黙が訪れた。

 裏庭の木々が風に揺れる音だけが、異常に大きく聞こえる。

 智也は、沙織が泣き出すのを覚悟していた。以前のようにヒステリーを起こし、『行かないで、智也くん!』と泣き叫んで、ハサミを持ち出すのではないかと、身を硬くしていた。

 しかし。

 智也の予想に反して、沙織は泣き出さなかった。泣き叫ぶことも、ヒステリーを起こすこともなかった。

 彼女は、ただ、黙って智也を見つめていた。

 絡みついていた腕の力が、ゆっくりと抜けていく。

「……智也くん」

 沙織の声は、風邪を引いた時のようにひどく掠れていた。

「……GPS、嫌だった?」

「え? ああ……やっぱり、常に見張られてるみたいで、あんまり気分は良くないかな」

「友人と会うのも……私がダメって言うの、嫌だった?」

「……うん。俺にも付き合いがあるからさ」

 沙織は、ゆっくりと首を傾げた。その動作は、まるでネジが切れた人形のように、不自然で、ぎこちなかった。

 そして。

 彼女の顔から、はらはらと笑顔が剥がれ落ちていった。

 あとに残ったのは。

 何の感情も宿していない、真っ黒な瞳。

 表情筋が完全に死滅したような、無機質な鉄の仮面。

 智也は、そのあまりの急変に、全身の血が凍りつくような恐怖を覚えた。

「……あ」

 沙織の口が、わずかに開いた。

「……そっか。智也くん、嫌だったんだ」

「……沙織?」

「私が、智也くんと『繋がってたい』って思うの……智也くんにとっては『檻』だったんだね。……愛し合う二人は『隣どおし』じゃなきゃダメなのに……智也くんは、私の隣が『息苦しい』って思うんだね」

 沙織の声には、怒りも、悲しみも、何の感情も宿っていなかった。

 ただ、事実を確認するように、淡々と、無感情な言葉が紡がれる。

 その静けさが、狂気じみた执着を、より鮮明に浮き彫りにしていた。

「……違うんだ、沙織。嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、もう少し、お互いのプライベートを尊重しようって……」

 智也は慌てて弁解しようとしたが、沙織はそれを無視して、ベンチからゆっくりと立ち上がった。

「……わかったよ、智也くん」

 沙織は、俯いたまま、掠れた声で呟いた。

「智也くんが、一人になりたいなら……私、そうするね」

「……え?」

「智也くんのためなら、私……何でもするよ。智也くんを不安にさせるもの、全部なくしてあげる。……だって、私はずっと、智也くん一筋だもん」

 沙織は、ゆっくりと顔を上げた。

 その顔には、再び、笑顔が浮かんでいた。

 けれど、それは。

 出会った頃の無邪気な笑顔でも、智也を愛おしむ笑顔でもなかった。

 表情筋を無理やり動かして作ったような、不自然に口角が吊り上がった、プラスチックのような仮面の笑顔。

 真っ黒な瞳は、何の感情も映していないのに、智也を上から下まで、品定めするようにじっと捉えている。

 その笑顔を見た瞬間、智也は、玲香が言っていた『距離を置く』という行為が、取り返しのつかない決定的な間違いだったのではないかと、激しい後悔に襲われた。

「……じゃあね、智也くん。また明日」

 沙織は、ぎこちない動作で手を振ると、一度も振り返ることなく、講義棟の陰へと消えていった。

 あとに残されたのは。

 呆然と立ち尽くす、笠原智也という男と。

 彼女が置いていった、まだ少し温かいお茶のペットボトル。

 智也は、ガタガタと震える手で、そのペットボトルを握りつぶした。

 もらったものは、愛。

あげたものも、全力の愛。

 その甘い双子の果実の繋がりは。

 いつの間にか、朱色の檻から、決して逃げ出すことのできない「共同作業の罰ゲーム」へと、完全に変貌を遂げていた。

 二人の結んだ果実が、静かに、けれど確実に、腐敗し始めた、ある五月の午後のことだった。

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