第3話:綻び始めた果実と、第三の目
サークルの夏合宿の打ち合わせから、智也が約束通り終電で日帰りしたあの日以来。深海沙織の智也への依存は、まるで堰を切ったように加速していった。
智也のスケジュールは、今や完全に沙織によって管理されていた。
講義の空き時間は必ず二人で過ごすこと。アルバイトのシフトは事前に共有し、終わる時間には必ず迎えに来ること。友人との飲み会は原則禁止で、どうしても外せないゼミの集まりなどがある場合は、30分に一度は写真付きでLINEを送ること。
社交的で、常に人の輪の中心にいたはずの笠原智也という男は、交際2年目にして、すっかり付き合いの悪い「彼女の尻に敷かれた男」へと成り下がっていた。
「……はぁ」
大学近くの喫茶店。
智也は、目の前に置かれたアイスコーヒーの氷をストローでカラカラと鳴らしながら、深いため息をついた。
時刻は平日の午後三時。今日は沙織がどうしても外せない必修科目の講義に出ているため、智也に与えられた、週に数時間しかない貴重な「自由時間」だった。
「溜め息なんかついちゃって、幸せオーラ全開の笠原くんらしくないじゃない」
智也の向かいの席に座った小柄な女性が、呆れたようにクスリと笑った。
日吉玲香。沙織と同じ文学部の同級生であり、大学で沙織が唯一「友人」と呼べる存在だった。ショートカットに勝気な瞳をした彼女は、おとなしい沙織とは正反対のサバサバとした性格で、智也とも沙織を通じて何度か言葉を交わしたことがあった。
「玲香ちゃん……ごめん、急に呼び出したりして。沙織には内緒にしてほしいんだけど」
「内緒って……。まあ、いいけど。で、沙織のことで相談って何? 喧嘩でもしたの?」
玲香はレモンティーに口をつけながら、不思議そうに首を傾げた。
「喧嘩っていうか……その逆だよ」
智也は頭を掻きむしり、意を決したように身を乗り出した。
「最近の沙織、ちょっとおかしいんだ。俺に対する執着っていうか、束縛が激しすぎて……正直、息が詰まりそうなんだよ」
「束縛?」
玲香は目を丸くした。
「沙織が? あの、いつも笠原くんの後ろを三歩下がって歩いてるような、大人しい沙織が?」
「玲香ちゃんの前ではそうかもしれないけど、俺と二人の時は全然違うんだ。LINEの返信が5分遅れただけで何十件もスタンプ連打してきたり、俺のスマホのGPSを勝手にオンにして居場所を監視したり……この前なんて、俺が後輩の女の子に講義のノート貸しただけで、泣き喚いて過呼吸みたいになっちゃってさ」
智也が堰を切ったように不満を口にすると、玲香の表情が徐々に険しくなっていった。
「GPSの監視って……それ、もう立派なストーカー一歩手前じゃない。笠原くん、それ許してるの?」
「許してるっていうか……沙織が泣きながら『私を不安にさせないで、智也くんと繋がってたいだけなの』ってすがるから、断りきれなくて。あいつ、俺のことが本当に好きだから、愛情の裏返しだって頭ではわかってるんだけど……」
「愛情の裏返しねぇ」
玲香は冷ややかな声で呟き、カップをコトリとソーサーに置いた。
「笠原くん、あんた人が良すぎるよ。それ、愛情じゃなくてただの『依存』と『支配』だからね」
玲香のストレートな言葉に、智也は言葉を詰まらせた。
支配。
その単語が、智也の胸の奥底でくすぶっていた違和感の正体を、正確に突いていたからだ。
「……そういや、ヒドイコトもされたし、ヒドイコトも言ったし」
智也は、以前沙織と大喧嘩した時のことを思い出しながら呟いた。
「俺が一度、『少し一人になる時間が欲しい』って言った時、沙織がハサミ持ち出して自分の髪の毛をめちゃくちゃに切り刻み始めたことがあってさ。あの時は本当にゾッとした。俺が謝ったらすぐ泣き止んで、元の可愛い沙織に戻ったけど……」
「はぁ!?」
玲香が思わず大きな声を出し、周囲の客がチラリとこちらを見た。玲香は慌てて声を潜める。
「ちょっと待って、それ完全にアウトでしょ。自傷行為を盾にして相手をコントロールしようとしてるじゃない。沙織、昔から大人しくてちょっと陰気なところはあったけど、そんなメンヘラ気質だったなんて……」
玲香は頭を抱え、深いため息をついた。
「笠原くんが優しすぎるから、沙織のそういう異常な部分を増長させちゃったんじゃないの? 『私が泣けば、智也くんは言うことを聞いてくれる』って学習させちゃったんだよ」
玲香の指摘は、ぐうの音も出ないほど正論だった。
智也は元来、誰に対しても優しく、波風を立てることを嫌う性格だった。沙織の異常な愛情表現も、最初は「自分をそれほどまでに愛してくれている証拠だ」と好意的に解釈し、彼女の望むままに自分を合わせてきた。
しかし、彼女の要求は底なし沼のように際限がなく、智也が譲歩すればするほど、彼女の「朱色の檻」はより強固になり、智也の自由を奪っていったのだ。
「……俺も、少し限界かもしれない。沙織のことは好きだけど、このままじゃ俺自身の生活が壊れちゃうよ」
智也が力なくテーブルに突っ伏すと、玲香は同情するような、呆れるような視線を向けた。
「笠原くん、これ以上沙織の言いなりになるのはやめなよ。まずは少し距離を置いて、冷静にならせた方がいい。このままじゃ、二人とも共依存で潰れちゃうよ」
「距離を置くって……どうやって? 毎日俺の予定を完全に把握してるんだぞ。俺が少しでも連絡を絶ったら、絶対にアパートまで押しかけてくる」
「だから、そこを毅然とした態度ではねのけるの! 笠原くん、あんた男でしょ。嫌なことは嫌だって、はっきり言わないと。沙織は『智也くんは私から絶対に離れていかない』って思い込んでるんだから」
玲香の叱咤に、智也は顔を上げ、小さく頷いた。
「……わかった。俺も、少し沙織に甘すぎたかもしれない。ちゃんと話し合って、お互いのプライベートな時間は尊重しようって言ってみるよ」
「うん、それがいい。もし沙織がまたヒステリー起こしたり、手に負えなくなったら、私にも連絡して。一応、友達としてガツンと言ってやるから」
玲香の心強い言葉に、智也は少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
一人で抱え込んでいた息苦しさを、誰かに共有できたこと。そして、自分の感じていた「異常さ」が間違っていなかったと第三者に肯定されたことで、智也の中に「現状を打破しよう」という決意が芽生え始めていた。
「ありがとう、玲香ちゃん。話聞いてくれて、ちょっとスッキリしたよ」
「いいえ。……でも、笠原くん」
玲香が、帰り支度をしながら真剣な顔で智也を見つめた。
「沙織のこと、あんまり甘く見ない方がいいかも。あの子、一度執着したものは絶対に手放さない執念深さがあるから。……もし話し合ってもダメなら、本気で別れることも視野に入れた方がいいよ」
別れる。
その言葉が、智也の胸に重く響いた。
交際して二年。泣き泣きの一日や自転車の旅、楽しいことも辛いことも共有してきた。中身がいっぱいつまった、甘い甘い果実のような日々だったはずなのに。
もらったものは、愛。
あげたものも、全力の愛。
お互いに愛し合っているはずなのに、なぜこんなにも苦しいのだろう。
智也は、玲香と別れた後、一人で大学のキャンパスを歩きながら、どんよりとした曇り空を見上げた。
もし、遠い未来を予想するのなら。
愛し合う二人は、いつの時も、隣どおし。
沙織がいつも口にする『さくらんぼ』の呪文が、脳裏でリフレインする。
智也はブルッと身震いをした。
もう、彼女の隣に居続ける自信が、自分の中にどれだけ残っているのかわからなくなっていた。
二人の結んだ『双子の果実』の繋がりに、決定的な綻びが生じ始めた、ある春の終わりの日のことだった。




