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第2話:ピンク色の着信音と、塗りつぶされた時間

嵐の夜の出来事から、季節は初夏へと移り変わっていた。

 大学のキャンパスは青々とした木々に囲まれ、開け放たれた窓からは心地よい風が吹き込んでいる。

 笠原智也かさはら ともやは、講義の合間の空き時間に、中庭のベンチでゼミの友人たちと談笑していた。

「いやー、昨日の合コン、マジで最悪だったわ。幹事のあいつ、全然空気読めないし」

「お前が飲みすぎただけだろ。智也なんて、女の子たちの連絡先めっちゃ聞かれてたじゃん。相変わらずモテるねぇ」

「よせよ、俺は彼女持ちだって言ったろ。連絡先交換したのも、ただの社交辞令だって」

 智也が苦笑いしながら缶コーヒーを口に運んだ、その時だった。

『――♪笑顔咲ク 君とつながってたい』

 智也のスマートフォンから、大塚愛の『さくらんぼ』の着信メロディが、ポップで明るいリズムを奏でながら鳴り響いた。

 友人たちが一斉にニヤニヤと笑い出す。

「おっ、噂をすれば。愛しの沙織ちゃんだろ?」

「その着信音、何度聞いても智也のキャラじゃなくてウケるわ。彼女の趣味?」

「……ああ。沙織が『私の電話だけ、この曲にしてね』って設定したんだよ。ほら、二人はさくらんぼみたいだから、って」

 智也は少しだけ恥ずかしそうに頬を掻き、友人たちから少し離れて電話に出た。

「もしもし、沙織? どうした、今大学の中庭だけど」

『あ、智也くん……よかった、出てくれて』

 電話の向こうから聞こえてきた深海沙織ふかみ さおりの声は、なぜか少し震えていた。

「どうした? 何かあったのか?」

『ううん、何もないよ。ただ……智也くんの講義、もう終わった時間だなって思って。今、誰と一緒にいるの?』

「ゼミの連中だよ。これから午後も講義があるから、少しダベってたところ」

『そっか……。ゼミの連中って、男の子だけ? 女の子もいるの?』

 沙織の探るような問いかけに、智也は無意識のうちに小さくため息をつきそうになり、慌ててそれを飲み込んだ。

「男三人だよ。昨日の飲み会の話をしてただけ」

『……昨日の、飲み会? 合コン?』

「違う違う、ただのゼミの打ち上げだって。前に言ったろ?」

『……うん。ごめんね、私、智也くんが誰か他の女の人と楽しく話してるんじゃないかって思うと、なんだか息が苦しくなっちゃって……』

 沙織の束縛は、付き合い始めた頃に比べて明らかに強くなっていた。

 最初は「今何してるの?」と一日に数回LINEが来る程度だった。智也もそれを「俺のことを気にかけてくれているんだな」と好意的に受け止めていたし、彼女の不安を取り除くためにこまめに返信をしていた。

 しかし、ここ最近の沙織の行動は、その『こまめな連絡』の範疇を大きく超え始めていた。

 LINEの返信が十分遅れただけで、「怒ってる?」「私が何か悪いことした?」「嫌いになったの?」というメッセージが連投される。智也がサークルの飲み会に行くとわかれば、「誰が来るの?」「女の子の隣には座らないでね」「帰る時は必ず電話して」と、事細かな要求を突きつけてくるようになった。

 彼女は、自分が智也にあげた『全力の愛』と全く同じ質量の愛情を、智也にも要求してくるのだ。

「心配しすぎだって。俺には沙織だけだよ。午後も講義終わったら、一緒に帰ろうな」

『……ほんと? 嬉しい。じゃあ、講義棟の入り口で待ってるね』

 電話越しの声が、パッと明るくなるのがわかった。

「ああ、じゃあまた後で」

 智也が通話を切り、友人たちの元へ戻ると、一人の友人が呆れたような顔で言った。

「お前も大変だな。沙織ちゃん、見た目はおとなしくて可愛いのに、結構束縛キツいんだろ?」

「キツいっていうか……まあ、ちょっと心配性なだけだよ。俺のこと、すごく好きでいてくれてるからさ」

 智也は、彼女を庇うように笑って見せた。

 事実、智也は沙織のことを愛していた。誰にも心を開かなかった彼女が、自分にだけ見せる無防備な笑顔や、ひたむきな愛情は、間違いなく智也の男としての自尊心を満たしてくれていた。

 しかし、その愛情が、時折、真綿で首を絞められるような息苦しさに変わる瞬間があることを、智也は自分自身でも認めざるを得なくなっていた。

 午後の講義が終わり、智也が講義棟の出口へ向かうと、そこにはすでに沙織の姿があった。

 彼女は、まるで忠犬のように入り口の柱の陰に立ち、智也の姿を探してキョロキョロと辺りを見回していた。智也の姿を見つけると、顔をぱぁっと輝かせ、小走りで駆け寄ってくる。

「智也くん!」

「待たせたな。よし、帰ろうか。どっか寄ってく?」

「ううん、智也くんの部屋に行きたい。智也くんの手料理、食べたいな」

 沙織は、当たり前のように智也の腕に自分の腕を絡め、ピッタリと寄り添ってきた。

 智也のマンションに向かう帰り道。

 スーパーで買い物を済ませた後、智也はふと思い出したように口を開いた。

「そういえばさ、来週末、サークルの夏合宿の打ち合わせで、一泊二日で海の方に行くことになったんだ」

「……え?」

 智也の腕に絡みついていた沙織の力が、ピクリと強くなった。

「一泊二日? ……誰と?」

「サークルの幹部連中だよ。俺と、幹事の山本たちと、あと後輩数人。来月の合宿の下見も兼ねてさ」

「……女の子も、泊まるの?」

「そりゃ、サークルだからな。後輩の女子も何人か来ると思うけど、別々の部屋だし、打ち合わせがメインだから」

 沙織は足を止め、俯いてしまった。

「……行かないで」

「えっ?」

「行かないで、智也くん。私、智也くんが他の女の子と同じ屋根の下に泊まるなんて……耐えられない」

 沙織の震える声に、智也は困惑して頭を掻いた。

「あのなぁ、沙織。これはサークルの重要な仕事なんだよ。俺も幹部の一人だし、行かないわけにはいかないだろ? 何もやましいことなんてないんだから」

「……嫌だ。絶対に行かないで」

 沙織は、智也の腕をギリギリと痛いほどに強く握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、泣き出しそうなほど揺れ動いているのに、同時に、絶対に譲らないという強烈な執念のようなものを宿していた。

「私、もしあの向こうに見えるものがあるなら……それがどんなに遠い未来だとしても、智也くんの隣は絶対に私じゃなきゃ嫌だ。愛し合う二人は、いつの時も隣どおしじゃなきゃダメなの」

 まただ。

 あの『さくらんぼ』の歌詞。

 彼女は、不安になると決まってこの言葉を口にする。二人は一心同体で、決して離れることは許されないのだと、自分に言い聞かせるように。いや、智也を縛り付ける呪文のように。

「……沙織、落ち着けって。たった一泊だろ? すぐ帰ってくるし、ずっとLINEもするから」

「ダメ! 一つでも欠けてたら、とんでもなく足りないの! 私、智也くんがいない夜なんて、不安で頭がおかしくなっちゃう……っ」

 ついに、沙織の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。

 道行く人たちが、何事かとチラチラとこちらを見ている。

 社交的で、周囲の目を気にする智也にとって、こんな場所で彼女に泣いてすがられることは、非常に居心地の悪いものだった。

「……わかった、わかったから。泣くなよ」

 智也は大きなため息をつき、降参するように両手を上げた。

「俺だけ、日帰りで帰ってくるよ。夜の飲み会には出ないで、打ち合わせが終わったら終電で帰る。それでいいだろ?」

「……ほんと?」

「ああ、約束する。だから、もう泣かないでくれ」

 智也がそう言うと、沙織は嘘のようにピタリと泣き止み、「ありがとう、智也くん。大好き」と、再び花が咲いたような笑顔を見せた。

 彼女の笑顔を見るのは好きだ。だが、この笑顔を引き出すために、智也は自分の予定を、自分の人間関係を、少しずつ削り取られているような気がした。

 智也の手帳から、友人たちと過ごすはずだった青や黒の予定が、沙織との時間という赤いペンで、一つ、また一つと塗りつぶされていく。

 愛し合う二人、幸せの空。

 隣どおし、あなたとあたし。

 その甘い呪文は、智也の自由を少しずつ奪い、彼を逃げ場のない『朱色の檻』の中へと閉じ込めようとしていた。

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