最終話:永遠の果実と、朱色の呪縛
千切れたドアチェーンが、力なく壁にぶつかり、冷たい金属音を立てた。
ビジネスホテルの薄暗い部屋に、廊下の生白い照明が差し込む。その光を背に受けて、深海沙織がゆっくりと、一歩、また一歩と室内へと足を踏み入れた。
「智也くん。やっと、二人きりになれたね」
真っ赤なワンピース。それは、あの日彼女が智也の部屋の前に撒き散らした、大量のさくらんぼと同じ、毒々しいほどに鮮やかな赤色だった。
強引にドアをこじ開けたせいで、彼女の細い右腕には幾筋もの切り傷が走り、そこから滴り落ちる血が、ホテルの清潔な絨毯に黒い染みを作っている。だが、沙織は痛みなど全く感じていないかのように、右手に握ったカッターナイフの刃をカチカチと出し入れしながら、この世の何よりも無邪気な「笑顔」を浮かべていた。
「どうして……どうして、ここが……」
智也はベッドのヘッドボードに背中を押し付け、ガタガタと全身を震わせながら呻いた。
偽名を使った。現金で支払った。日吉玲香しか知らないはずの、完璧な隠れ家だったはずなのだ。
「ふふっ。玲香ちゃんを疑ってるの? 違うよ。智也くんと私を繋ぐ糸は、そんな簡単に切れたりしないもん」
沙織は、ベッドの足元に立ち止まり、小首を傾げた。
「智也くんのお財布。カード入れの一番奥の、使ってないポケット。あそこにね、すっごく小さなGPSを縫い込んでおいたの。昨日、智也くんが寝てる間にね」
智也は絶望で息を呑んだ。
逃げられなかったのだ。最初から。財布だけを鷲掴みにして裸足でアパートを飛び出したあの瞬間から、自分は彼女の手のひらの上で踊らされていただけだった。どんなに遠くへ逃げようと、警察に駆け込もうと、この赤い果実の呪縛からは一歩も逃れられていなかった。
「……何が、目的なんだ。俺を、殺す気か……?」
智也の掠れた声に、沙織は目を丸くして、それから「あははっ!」と、鈴を転がすように高く澄んだ声で笑った。
「殺す? まさか! 私は、智也くんのこと誰よりも愛してるんだよ? もらったものは愛を感じ、あげたものは全力の愛です。……私が、智也くんを傷つけるわけないじゃない」
沙織は、血まみれの右手で持ったカッターナイフを、そっと自分の頬に当てた。
「でもね、智也くんは私から逃げようとした。一つでも欠けてたら、とんでもなく足りないのに、智也くんは自分で自分を切り離そうとした。……だから、これは『罰ゲーム』なの」
「ば、罰ゲーム……?」
「うん。これからは、絶対に逃げられないように、私と智也くん、本当の意味で一つになるの。共同作業、最後の仕上げだよ」
沙織の黒い瞳が、異常な熱を帯びてギラリと光った。
彼女は、カッターナイフの刃を智也の方へと向け、ベッドの上にゆっくりと這い上がってきた。フローラルな香水の匂いと、生臭い血の匂いが混ざり合い、智也の鼻腔を強烈に刺激する。
「や、やめろ……来るな!!」
智也はベッドの上にあった枕を沙織に向かって投げつけた。だが、沙織はそれを片手で払い除け、智也の足首をガシッと力強く掴んだ。
「痛くないよ。ほんの少しだけ、智也くんの血と、私の血を混ぜるだけ。そうすれば、私たちは体の中からずっと繋がってられる。……ね? 笑顔咲ク、愛し合う二人になれるよ」
「ふざけるな!! 離せ、離してくれえええっ!!」
智也は半狂乱になりながら、沙織の手を蹴り飛ばそうと暴れた。
しかし、沙織の異常なまでの執着が生み出す力は、成人男性である智也の抵抗を物ともしなかった。彼女は智也の足首を掴んだまま、這いずるようにして智也の体の上へと乗りかかってくる。
カッターナイフの冷たい刃が、智也の首筋に触れた。
ヒヤリとした金属の感触に、智也は全身の毛穴が開き、悲鳴すら凍りついた。
「智也くん……好き。大好き。ずっと、ずっと一緒にいようね……」
沙織の甘い吐息が、智也の顔にかかる。
彼女の刃が、智也の皮膚を薄く裂こうとした、まさにその瞬間だった。
――「そこまでだ!! 刃物を捨てなさい!!」
鼓膜を劈くような、野太い怒号がホテルの部屋に響き渡った。
同時に、廊下から雪崩れ込んできた数名の警察官たちが、ベッドの上にいた沙織に向かって一斉に飛びかかった。
「……えっ?」
沙織が間抜けな声を上げた直後、彼女の細い体は、屈強な警察官たちによってベッドから床へと激しく引きずり下ろされた。
「暴れるな! カッターを離せ!!」
「確保! 対象者を確保しました!!」
ガチャン、とカッターナイフが床に落ちる音がした。
智也は首筋を押さえながら、ベッドの上で荒い息を繰り返し、目の前で繰り広げられる光景を呆然と見つめていた。
ドアのチェーンが破壊される異常な音と、智也の叫び声を聞きつけた隣室の宿泊客が、フロントを通じてすぐに110番通報をしていたのだ。間一髪、本当にあと数秒遅れていれば、智也の頸動脈は彼女の刃によって切り裂かれていたかもしれない。
「笠原さん! 大丈夫ですか! 救急車を呼びます!」
一人の警察官が智也に駆け寄り、首の傷を確認する。幸い、刃が触れただけの浅い切り傷で済んでいた。
床に押さえつけられた沙織は。
取り乱すことも、泣き叫ぶことも、暴れることもしなかった。
両手を後ろ手に回され、冷たい手錠をかけられても、彼女は抵抗の素振りすら見せなかった。
「……深海沙織、住居侵入および殺人未遂の容疑で現行犯逮捕する」
刑事の冷酷な声が響く中、沙織はゆっくりと床から立ち上がらされた。
窓の外では、駆けつけたパトカーの赤色灯が、ホテルの薄暗い部屋をサイレンの音とともに赤く、不気味に照らし出している。
壁に映るその赤い光の明滅は、智也には、狂ったように弾ける大量の「さくらんぼ」のように見えた。
「笠原さん、もう大丈夫です。彼女は我々が連行します。あなたは後で、署で詳しい調書を取らせてください」
警察官の言葉に、智也はただ、ガクガクと震えながら頷くことしかできなかった。
終わった。
ついに、この悪夢のような罰ゲームが終わったのだ。彼女は逮捕され、法の裁きを受ける。もう二度と、智也の日常に現れることはない。
これで、俺は解放される。
警察官に両脇を固められ、部屋の出口へと向かって歩き出した沙織の背中を見つめながら、智也は大きく息を吐き出した。
その時だった。
ドアをくぐる直前。
深海沙織が、ピタリと足を止めた。
「おい、歩きなさい」という警察官の制止を無視して、彼女はゆっくりと、首だけを後ろへと向けた。
乱れた黒髪の隙間から覗く、真っ黒な瞳。
その瞳が、ベッドの上で震える智也を、真っ直ぐに捉えた。
そして。彼女の顔に、この世のどんな美しい花よりも無邪気で、どんな悪魔よりも悍ましい、完璧な「笑顔」が咲いた。
手錠をかけられ、血にまみれ、警察に連行されていくという圧倒的な絶望の状況下にあって。
彼女の表情には、一滴の悲しみも、後悔もなかった。
ただ、自分の「愛」が完全に智也に刻み込まれたことへの、至上の喜びだけが満ち溢れていた。
沙織の口びるが、ゆっくりと動く。
静まり返った部屋の中で、その声は、智也の鼓膜の奥底に、決して消えない呪いとして直接突き刺さった。
「智也。私、一生智也のこと愛しているから」
その一言を残し、彼女は警察官に引かれて、暗い廊下の奥へと消えていった。
パトカーのサイレンが、遠ざかっていく。
静寂が戻ったホテルの部屋で、智也は一人、ベッドの上で頭を抱え、獣のようなうなり声を上げて泣き崩れた。
物理的な脅威は去った。彼女は檻の中へ入れられるだろう。
だが、智也は悟ってしまった。
一生、愛している。その言葉が意味する、本当の恐怖を。
彼女の肉体がどこにあろうと関係ない。
これから先、智也が誰と出会い、誰と笑い、どんな未来を歩もうとも。
智也の心の最も暗い死角には、常にあの「仮面の笑顔」が張り付き、彼を監視し続けるのだ。
愛し合う二人は、いつの時も、隣どおし。
智也の人生は、この先永遠に、深海沙織という「朱色の檻」から逃れることはできない。
窓の外で明滅する不気味な赤い光を見つめながら、智也の絶望に満ちた絶叫だけが、夜の闇にむなしく響き続けていた。




