第1話:手帳の空白と、ずぶ濡れの微笑み
窓ガラスを打ち付ける雨の音が、部屋の中にまでけたたましく響いていた。
春の嵐。天気予報がそう呼んでいた通り、夕方から降り始めた雨は夜になって暴風を伴い、まるで世界を水底に沈めてしまうかのような勢いで降り続いている。
笠原智也は、間接照明だけを点けた静かな自室で、ローテーブルの上に広げたシステム手帳を見つめていた。
大学のゼミの予定、サークルの飲み会、アルバイトのシフト、そして友人たちとの遊びの約束。智也の手帳は、黒や青のボールペンでびっしりと埋め尽くされている。彼は昔から、誰とでもすぐに打ち解けられる社交的な性格だった。頭の回転が早く、場の空気を読むのが上手い。周囲からは「優しくて頼りになるナイスガイ」として慕われ、彼を中心にいつも人の輪ができているような、そんな人生を送ってきた。
だが、そんな黒と青の文字で埋め尽くされた手帳の中に、ぽつりぽつりと、赤いペンで引かれた印がある。
今週末の日曜日の欄。そこには赤いペンで小さく『沙織・記念日』と書かれていた。
「手帳開くと、もう2年たつなぁって……なんか、早いな」
智也はコーヒーカップを片手に、小さく独りごちた。
深海沙織。それが、智也が交際して丸二年になる恋人の名前だった。
こうして文字にして見つめ直すと、やっぱ実感するな、と智也は少しだけ気恥ずかしくなって頬を掻いた。
二人が付き合い始めたのは、大学二年の春だった。
当時の沙織は、常に人の輪の中心にいる智也とは対極の存在だった。長い黒髪で顔を隠すようにして、いつも講義室の隅や図書館の窓際の席で、一人静かに本を読んでいるような、ひどく大人しい女の子。友人も少なく、同じ学部の女子である日吉玲香とたまに言葉を交わす程度で、自ら誰かに話しかけるようなことは決してなかった。
そんな彼女に興味を持ったのは、智也の方からだった。
誰も踏み込ませないような静かな空気を纏っている彼女が、ふとした瞬間に見せる寂しそうな横顔が、やけに智也の目を惹いたのだ。持ち前のコミュニケーション能力を活かして、智也は少しずつ彼女の心の壁をノックした。ノートを貸し借りし、他愛のない話題を振り、雨の日に傘を貸した。
最初は怯えた小動物のように智也を避けていた沙織だったが、智也の根気強い優しさに触れるうち、少しずつその心を彼にだけ開いていった。
そして交際が始まり、2年が経った今。
沙織は、出会った頃の「大人しくて暗い女の子」ではなくなっていた。
『智也くん、おはよう! 今日も一緒に講義受けようね』
『智也くん、お弁当作ってきたの。一緒に食べよ?』
『智也くん、今度の週末はどこに行く? 智也くんと一緒なら、どこでもいいよ』
彼女の世界のすべては、完全に「笠原智也」を中心に回るようになった。
智也の前でだけ見せる、花がほころぶような可愛らしい笑顔。智也が望むなら何でもするという従順さ。彼女の愛情は、時に智也自身が驚くほど深く、そして重かった。
ひどい喧嘩をしたこともあったし、智也が無神経な言葉で彼女を泣かせてしまった日もあった。それでも沙織は、決して智也の手を離そうとはしなかった。泣き泣きの一日を過ごしても、次の日にはまた「智也くんが好き」と、真っ直ぐな瞳で彼を見つめてくるのだ。
そんな中身がいっぱいつまった2年間は、智也にとっても間違いなく甘く、幸せなものだった。
――ピーン、ポーン。
不意に、部屋のインターホンが鳴った。
時刻は夜の九時を回っている。こんな嵐の夜に、一体誰だろうか。宅配便を頼んだ覚えもない。
智也がいぶかしく思いながら玄関へ向かい、ドアスコープを覗き込むと、そこには信じられない人物が立っていた。
「……沙織!?」
智也は慌ててチェーンを外し、ドアを勢いよく開けた。
冷たい強風と共に、大量の雨粒が玄関のたたきに吹き込んでくる。
廊下に立っていたのは、頭から足の先までずぶ濡れになった沙織だった。傘すらさしていなかったのか、長い黒髪は顔にへばりつき、着ているカーディガンもスカートも、水を吸って重たげに彼女の細い体に張り付いている。
「沙織、お前……どうしたんだよその格好! 傘は!?」
智也が血相を変えて彼女の腕を引くと、沙織はびしょ濡れのまま、ふわりと、心底嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「えへへ……傘、風で骨が折れちゃって。飛んでいっちゃった」
「飛んでいったって……まさか、家から自転車で来たのか? この暴風雨の中を!?」
「うん。途中で自転車もパンクしちゃって、押してきたの。ちょっと時間かかっちゃった」
沙織の住むアパートから智也のマンションまでは、自転車でも二十分はかかる距離だ。それを、この嵐の中で、しかも傘もささずに自転車を押して歩いてきたというのか。
常軌を逸している。
「バカ、風邪引くぞ! とにかく早く中に入れ!」
智也は急いで彼女をバスルームへと押し込み、バスタオルを何枚も引っ張り出してきた。
震える沙織の頭からタオルを被せ、ゴシゴシと乱暴に、しかし優しく水気を拭き取ってやる。
「なんでこんな日に来たんだよ。危ないだろ。会いたいなら俺から車で迎えに行ったのに」
智也が少しだけ声を荒げて叱ると、タオルに包まれた沙織は、智也の胸元にコテンと頭を預けてきた。
「だって……急に、智也くんにどうしても会いたくなったんだもん」
「LINEでも電話でもできただろ」
「ううん、ダメなの。声を聞くだけじゃ足りないの。智也くんの匂いを感じて、智也くんに触れてないと……私、死んじゃうかもしれないから」
沙織は、濡れた両手で智也の腰にギュッとすがりついた。
その抱擁の強さに、智也は一瞬、息が詰まりそうになった。
与えられた愛の分だけ、いや、それ以上の全力の愛で返してくる。それが深海沙織という不器用な少女の愛情表現だった。
「智也くん」
沙織が顔を上げ、濡れた前髪の隙間から、真っ黒で大きな瞳で智也を真っ直ぐに見つめた。
その瞳の中には、智也以外のものは何一つ映っていない。
「私たちって、さくらんぼみたいだね」
「……さくらんぼ?」
「うん。二つで一つの、赤いさくらんぼ。茎のところでしっかり繋がってて、絶対に離れないの」
沙織は、笑顔咲ク、という言葉がぴったりなほど無邪気で美しい笑みを浮かべた。
「もし、あの窓の向こうに見える遠い未来があるなら……私はずっと、智也くんの隣がいい。どんな嵐の日でも、絶対に隣にいるからね」
愛し合う二人の、幸せの空。
隣どおし、あなたとあたし。
その言葉は、恋人からの最高に甘い愛の囁きのはずだった。
事実、智也は「しょうがないな、お前は」と優しく微笑み返し、彼女の濡れた体を強く抱きしめ返した。彼女の健気な愛情を、疑う余地もなく愛おしいと感じていた。
しかし、智也の胸の奥底で。
ほんのわずかに、本当に針の先ほどのわずかな違和感が、チクリと彼を刺した。
この暴風雨の中を、自転車を押してまで這いつくばるようにして自分に会いに来た彼女の異常なまでの執着心。
『一つでも欠けてたら、とんでもなく足りない』と語る、彼女の重すぎる依存。
それはまるで、決して逃げ出すことのできない「共同作業の罰ゲーム」の始まりを告げているかのようだった。
二人の絆は、思いがけなく歴史を重ね、さらに深いものになっていく。
この時の智也はまだ気づいていなかった。彼女の言う「さくらんぼ」の繋がりが、自分を絞め殺すほどに頑丈で、決して断ち切ることのできない呪いの鎖であるということに。
雨は一晩中、降り続いていた。
智也の腕の中で幸せそうに眠る沙織の顔を見つめながら、智也はなぜだか、言い知れぬ息苦しさを感じて、小さく、誰にも聞こえないため息をこぼしたのだった。




