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終着

 望さんがいなくなった。

 油断した。冠婚葬祭と言って、以前と同じトーンでふらりと出かけて行ったのでそのまま見送ってしまった。亡くなりそうな知り合いなんて望さんにいたっけ?友達もいないから結婚式でも無いだろうし。と思ったけれど、望さんの住んでいた地域には独特の文化があるのは知っていたので、前に葬式に出た人物の法要でもあるのかな、と納得してしまった。方々に連絡を取ったけれど、行方は分からない。


 何で今更逃げ出すようなことをしたんだろう。切っ掛けは何だったんだろうか。望さんの荷物も漁った。特別消えているものはない。緊急事態だし許してね、と思いながら金庫の鍵も開けた。そこで気付いた。娘名義の口座の、銀行印やキャッシュカードが無くなっている。

 あー、そういえばお金を貯めてたな。コツコツと。一気に渡すと贈与税掛かるんじゃないか、と思ったけれど持っていかれたとしても、それなりの額は残る残高だったな。目標額まで貯まったのか。すごいな、望さん。

 そっか、あれが彼女の心の支えだったのか。貯め切った今、彼女の心境は想像に難くない。


 彼女に本気で嫌われそうなことはしたくないな、とは思っていたけれど、もうこうなったら仕方がない。散らかった部屋をそのままにして、リビングに置いたままにしていたスマホを手に取った。


「――あ、もしもし?うん、そう。急にごめんね。この後って時間ある?会えないかな」


 そう言いながら、鏡の前で髪を整えた。



******



「久しぶり。来てくれてありがとう。何頼む?ここ、何でも美味しいよ」

「…………」


 緊張した面持ちで、彼女は肩にかけたトートバッグの持ち手をギュッと握る。その仕草に望さんの面影を感じて、何だか無性に抱きしめたくなった。私の向かい側の席に、彼女は不安気に座った。


「この後って何か予定あるの?葵ちゃん、うちの塾辞めちゃって残念だったよ。成績良いからどこでも合格するってさ、教室長引き止めてたもんね〜」

「……要件は何ですか?母のことでしょうか」


 私はメニュー表から顔を上げる。望さんの娘、葵ちゃんは私を探るように視線を投げてくる。あー、可愛いな。望さんもやっぱり学生時代はこんな感じだったのかな。髪が少し伸びて、ボブになっているけれどそれもよく似合っている。


「葵ちゃんが元気か気になったからだよ。会いたかった」

「……今日指輪してませんね。別れましたか?母と」


 私の左手の薬指を見ながら、葵ちゃんはそう言う。あれ、意外とグイグイくるな。まあいいか。それならそれで。

 微笑んで、メニュー表を彼女に差し出した。彼女はそれを受け取りもせずに、アイスティーで、と言った。私は呼び鈴を鳴らし、アイスティーを二つ頼んだ。


「……母とダメになったから、次私ですか?」

「えー、どうしようかな。それも全然アリだな」

「…………」


 呆れた顔で彼女は黙る。その反応が望さんそっくりで、私は笑ってしまった。私が声を出して笑うのを見て、彼女はパチパチ瞬きをして、驚いたように私を見つめる。


「でも望さんに嫌われたくないからさあ。本当はこうやって会うつもりもなかったんだけどね。ねえ、望さん今どこにいるか知ってる?」

「知りませんよ。あの人と全然、連絡も取ってないし会ったこともないんですよ。というかそれ、やっぱりフラれたんじゃないですか?」

「そう思う?」

「……だから父ともヤッたんですか?」


 表情も変えずに、葵ちゃんはそう言った。そこには呆れだけが含まれていて、特に怒気は感じなかった。そういうところ、やっぱり望さんに似てる。


「あ、バレてた?」

「あの後、大変だったんですよ。父は落ち込んで、メンタルも不安定になって」

「え?何で?彼女もいないんだから、何にも問題ないのにね。私ももう、成人してるし」

「……あなたの倫理観が終わってるのは分かりました」

「そうかな?好きな人を抱いた男ってやっぱ気になるじゃん?それだけだよ」


 あっけらかんと私がそう言うと、彼女はさすがに顔を顰めた。私は顔を傾け、彼女に微笑んだ。

 アイスティーが届いて、それぞれの目の前に置かれる。私はストローを刺して、氷をかき混ぜた。


「それで本題なんだけどさ。望さんから連絡って、本当に無い?手紙も?」

「…………」


 彼女は無言でカバンを漁り、テーブルの上にポンッと冊子を投げ出した。通帳だ。やっぱり。


「……こんなのだけ送られてきましたよ。印鑑とか、キャッシュカードと一緒に」

「へえ」


 これだけか。行き先までは分からなかったな。しょうがない、じゃあやり方を変えないと。

 葵ちゃんは大きな溜息を吐いて、アイスティーに口を付けた。


「何か、重いんですよね。自分が大学行けなかったからって、まるで大学行けみたいな、こんな大金送ってこられても。それが愛とだとでも思ってるんですかね?で、お姉さんのことも振ってどっか行っちゃったんでしょ?重くないですか?怖いんですけど」

 

 彼女はテーブルの上の通帳を、人差し指でピンッと弾いた。望さんが、長い年月を掛けて貯めて、お守りのようにいつも持ち歩いていた通帳を。


 私は彼女に向かってニコリと微笑んだ。通帳の上に手を重ねる。


「ねえ、これ、ちょうだい?」

「……はあ?」


 彼女の、素っ頓狂な声が店内に響いた。周りの視線が私たちに向けられる。慌てて口を押さえて、周りへペコリと頭を下げてから、私を睨んだ。


「え、お姉さんお金ないんですか?」

「お金に困ったことはないかな。でもこれ、望さんが葵ちゃんのためを思って貯めたお金なんでしょ?欲しいな」


 私がそう言うと、葵ちゃんは丸くて大きな目を更に見開いて、私を見る。それから吹き出してお腹を押さえて、ケタケタと笑い始めた。望さんも大笑いしたらこんな感じなのかな。愛くるしいな、なんて思いながら頬杖を付いて彼女を見ていた。

 笑いが収まったらしい彼女は目元の涙を指で拭いて、そしてバッグの中にあった、印鑑やキャッシュカードも取り出して、通帳の上にまとめて置いて、私へ差し出した。


「いいよ!お姉さん、これ、あげる!だから、全部めちゃくちゃにしてよ!」

「もちろん」


 私はそれを受け取って、ニコリと微笑んだ。



******



 タクシーを降りると、冬の海風が荒ぶ。冷たい、刺すような風だ。髪が乱れて、前が見えなくなった。鬱陶しいな、と思いながら髪をかき上げた。

 太陽はもう落ち掛けていて、水平線上にオレンジ色の空の層が出来ている。まばゆいその光の反対、私の背後には既に濃紺の夜の空が広がっていた。


 階段を降りて、砂浜へ降りる。よくあるリゾート地のような白砂の砂浜ではない。黒くて砂粒も荒い、あまり観光客にも好まれないような光景だった。砂浜には流木や、流れ着いたゴミが散乱している。だからなのか、冬だからなのか、たぶんどちらのせいもあって、人はいなかった。

 海も透き通ってはおらず、濁った色をしていた。栄養が豊富そうで、魚が好みそうだ。まあ、リゾート地の魚は美味しくないとも聞くし、ここは海産物が美味しい地域だから、そういうことなのだろう。


 燃えるようなオレンジの下の、灰色で暗い海の中に、望さんは佇んでいた。膝まで海水に浸かって、空を眺めている。コートとスカートが風にたなびいて、私はその後ろ姿をただ眺めた。ロングのダウンを着込んでも寒さがキツイのに、よく冬の冷たい海の中に入れるな。コートのポケットに手を突っ込み凍える手の先を温めながら、そう思った。

 しばらく空を眺めた後、とうとうオレンジが細くなって今にも消えてなくなりそうな状態になると、望さんは更に海の中へ歩み始めた。


「――見ーつけた」


 私はそう波の音に負けないように叫んだ。望さんは弾かれたように私を振り返る。亡霊でも見たかのように、丸い瞳が大きく見開かれた。

 私は望さんの元へ近付いた。やっぱり海の中は冷たい。デニムに海水が染み込んで、足の感覚が段々無くなってくる。


「……何で……」

「自殺するつもりなら、移動するのにクレカとかICとか使わないほうがいいよ。普段使いのじゃないからバレないと思った?」

「…………」

「旅館の人もいい人だね。美味しいご飯屋さんとかたくさん教えてくれた」


 逆光で、望さんの表情がよく見えない。巻きつけられたマフラーが鼻まで覆われていて、彼女は手袋をつけた手でそれを口元まで下げた。


「……私、昔からおかしな人間に絡まれるの」

「それ、私も含まれてる?」

「当たり前でしょ」


 苦笑した。望さんが過去いろいろあったことは知っているけれど、それに対してどう思っていたかは知らなかった。初めて彼女の本音に触れた気がする。


「逃げればよかったのに。全部捨てて」

「ここまで追ってきたじゃない」

「中途半端なんだよ、全部。望さん」

「…………」

「やるなら、徹底的にめちゃくちゃにしないと」


 そう言って私はポケットから、葵ちゃんからもらった通帳を取り出した。顔の横に掲げて、それにキスをする。


「もらっちゃった」


 望さんは愕然とした表情でそれを見つめ、みるみる目に涙が溜まっていった。それがすぐにあふれて、頬から落ちた。ああ、泣く顔も可愛い。落ちる涙が勿体無い。眼球って舐めたらダメなんだっけか。

 望さんは頭をぐちゃぐちゃにかきむしった。そして私を睨みつける。


「――あなたたちって、いつもそう!!私に執着して、私に自由を与えず、奪っていく!!何で?!放っておいてよ!!私を、もう、自由にさせてよ……」


 そのまま、顔を覆ってしまった。

 顔も見えないのに、夕陽の残光をバックに泣きじゃくる姿がどうしようもないほど静謐で美しく見えて、ずっと眺めていたくなった。


「……別に、ずっと自由だったじゃん。離婚してお金もらって、一人暮らしして、何も不自由ないでしょ?何が不満だったの?」

「…………恵まれたあなたには分からないでしょうね、羨ましい。バイトで暮らしていけるくらい、実家も太いんでしょう」

「あー、それはそうかもね。でも望さん、相手のことを何も知らないのに、そういうことは言わない方がいいよ。他人の地獄なんて分からないでしょ?」


 私は通帳をポケットにしまった。望さんはハッと顔を上げて、涙で濡れた瞳で私を見つめた。そして気まずそうに視線を下げる。


「……ごめんなさい」

「別にいいよ。望さんの本音って初めて聞けた。意外と幼いんだね。好きだな」

「何とでも言えば……」


 私は笑って、望さんへ更に近付いた。冷たくて感覚のない足で歩くのは少し怖かった。彼女の頬に触れ、拭いきれていない涙を掬った。


「それにさあ、望さん。望さんだって執着してるじゃん」

「私?まさか」


 鼻で笑って、私の手を払った。


「葵ちゃんの人生。大学に行くこと望んでた?自分が送れなかった人生を送れるように?通帳だけ送っても、愛なんて伝わらないよ」


 私がそう言うと、望さんは首を振った。震えた唇で何かを喋ろうとして、そして黙った。

 瞬間、光が消えた。太陽が完璧に沈んで、夜がきた。黒い海に私たちは取り残された。周りもよく見えない。ほんの数十センチ先で、微かに夜に浮かび上がる望さんの姿を私は見つめた。相変わらず風は冷たい。頬が凍りそうだ。


「望さん、自由になって、何をしたかったの?」

「…………」

「じゃあさ、葵ちゃんへの贖罪も済んだと思ったんでしょ?だからここまで来てさ。それで、何がしたかったの?」

「自由に、なりたくて」

「え、それで自殺?てか、お金渡した後に死なれたら、それこそ葵ちゃん気に病まない?ああ、でもそれが元旦那への復讐?それなら分かるかも」


 私はおかしくて笑ってしまった。私が笑ったのを怒るかと思ったのに、望さんは何も言わなかった。ただ視線を伏せて、自分の片腕を掴んだ。


「それでさあ、私が後追いしたらどうなるの?死後も私に付き纏われるかもよ」

「それは……」

「ねえ、完全に自由に生きるって、無理だよ。ここまで生きてきたなら、みんな何かしらしがらみはあるよ。……まあでも、自由に生きたかったなら、まだ選択肢があるじゃん」

「どんな?」


 望さんは私へ問いかける。水面に反射する、月明かりを拾って望さんの瞳がキラリと光った。それが宝石みたいですごく綺麗だ。


「私を殺すとかさ」

「…………」

「私の初恋、終わらせてよ、望さん」


 望さんは何も言わない。私を見つめて、ただ荒ぶ風に吹かれていた。そろそろ寒さも限界だ。海から上がるか、どうするか決めないと。

 ここで死ぬなら、せめて一度くらいは、望さんに名前を呼んでもらいたかった。


「ねえ、どうするの?望さん、どうしたい?」


 私はそう問いかけた。感覚の無い足に、大きな波が襲いかかってきて少しよろけた。


「私、は」


 望さんは震える唇を開いた。



(了)

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