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諦念

 機械から吐き出された通帳のページを見て、ホッと息を吐く。目処が付いた。そう遠くない内に目標金額まで貯まるだろう。

 ポーチの中に通帳をしまい、それを更に鞄の中へしまう。そして自動ドアを潜り抜けて、外へ出た。乾いた冷たい風が頬に当たる。マフラーで鼻の下まで覆った。雪でも降るのだろうか、空は分厚い白い雲で覆われていた。さっさと帰ろう。家へ帰るために歩き始めた。


 コートのポケットに入っているスマホが震えた。多分、同居人からの連絡だ。どうせ何かを帰りに買ってこいだとか、何時に帰ってくるのか確認の連絡だろう。溜息を吐いてポケットからスマホを取り出して、通知を眺めた。違った。家族の中で唯一連絡を取っている妹からだった。普段から連絡を取り合っているわけでもない。何か嫌な予感がして、足を止めて私は通知を開いた。


『おじさん、亡くなったよ。どうする?葬式来る?』


 その一文を読んで、私の中にあった鎖がひとつ解けた気がした。心なしか、呼吸もいつもより楽だ。冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、吐き出す。すぐに返事を打ち込んで、送信ボタンを押した。すると同時に、同居人から連絡が来る。卵買ってきて、という簡素な一文のみだった。了解、とだけ送ってスマホをポケットに戻した。

 そうか、死んだのか。いい気味、と思って、でもさすがに死者にそんな言葉を吐きかける気にもなれなくて、そんな臆病な自分を自嘲した。


 私の出身はクソど田舎だ。景色は見渡す限りほぼ田んぼ、夜寝る時は大抵虫の大合唱がBGMだった。うちは子供が多かったので、とにかく雑に子育てされた。私と妹だけは少し似ていた。ちょっとここの空気は私たちに合わないよね、なんて多分お互いに思っていた。他の兄弟たちは、周りと同じようにここでの暮らしに馴染んでいた。

 大学に行きたいな、なんて思ったのは自分の成績が思ったよりも随分良かったからだ。成績が良ければここから出て、こんな環境からはおさらばできるのでは、と思っていた。それなのに、成績がいいから大学も見据えた高校選びを、と三者面談で担任が言おうとしたのを遮って、そんなお金はありませんと母親は言った。私は心底落胆したけれど、子供も多いし仕方ないか、と自分で自分を納得させようとしていた。


 田舎の嫌なところは他人が他人じゃないところだ。噂はあっという間に広がる。私が大学に行きたくて何とか奨学金やバイトで賄えないか調べたり相談していたところ、近所でも有名な地主のおばあさんが家にやってきた。おばあさんの家の末っ子はずっと引きこもりだって、ここに住んでいる誰もが知っているタブーだった。おばあさんの大きな家の前に広場があって友達と遊んでいると、カーテンから真っ黒な二つの瞳でジッと見つめられることがあった。それが多分、その人なんだろう。

 おばあさんが話すには、末っ子の面倒を見てくれる人を探しているらしい。他の子供達は、誰も彼もがもっと早くにどうにかすればよかったんだ、と言って誰も取り合ってくれなかった、と。なのでお金は出すから、うちに嫁に来て末っ子の面倒を見てくれないか?と私の両親へ伝えた。親の隣に座っていた私とは一度も目を合わせなかった。

 親は両手をあげて喜んだ。家への支援もきっと含まれたのだろう。冗談じゃない、何で私がそんなの受けなくちゃいけないんだ。大体、何歳差だと思っているんだ?結婚ではなく、実質介護だろう。お金もあるなら、他人へ頼めばいいのに、なんて暴れたところで私の話は聞いてもらえなかった。


 馬鹿みたいだ。私の人生、馬鹿みたい!こんなところで産まれてなければ、こんな親の元へ産まれなければ。そもそも、私は昔から変な人間にまとわりつかれることが多かった。

 小学校の担任の先生はすぐ怒って怖い先生という評判だったのに、何故か私にだけやたら猫撫で声で構ってきたり、怪我をすれば大仰に保健室へ連れて行って私の体を撫でさすったりされた。あまりにも嫌だったので、暴れたら先生のメガネが吹っ飛んで壊れて、とても怒られた。親まで呼ばれて説教されて、私はその日ご飯を抜かれた。証拠もないし、抵抗すると却ってひどくなることを学んだ。

 それからは誰かと常に一緒にいるようにしたり、近寄られたらすぐに逃げるようにしたり、神経が常に張り詰めるようになった。自分で身を守るしかないんだ。

 その後も私は様々な人間に執着される。クラスの女の子は私の服や髪型、持ち物、喋り方や振る舞いを真似してきた。電車に毎朝同じ人物に隣の席に座られ、ずっと見てましたと言って手作りのお菓子を渡されたり。とにかくこういったエピソードは枚挙に暇がなかった。

 結局、私は手っ取り早くどうにかするために、正義感にあふれる彼氏をつくった。こういう被害が多くて怖くて、なんて相談したらコロッと朝も一緒に電車に乗ってくれるようになった。誰も寄ってこなくなったので本当に助かった。結果付き合うことになったけれど、いい奴なので一緒にいて嫌な気持ちにはならなかった。


 そんな気持ちが油断を生んだのだろう。私は将来子供は何人欲しくて、どんな家に住みたくて、なんて話す彼を微笑ましく、そして恵まれた人間には私の気持ちは分からないだろう、と少し冷えた眼差しで彼の話を聞いていた。だからポロリと話してしまった。素敵な人と結婚できるといいね、なんて。目の前の彼女と将来の話をしているつもりだった彼は動揺して、自分と一緒になるつもりはないのか、何か不満があるのか、と私へ聞いてきた。しまった、と思ったけれど上手い誤魔化し方もできず、その場は一旦解散した。

 次の日彼はどこからか私の事情を聞き出したのか、クラスへ入ってきて私へひざまづいて小さな花束を突き出した。呆気に取られている私に向かって、真剣な顔でプロポーズをしてきた。馬鹿丁寧に、私の事情について説明しながら、そんな君を俺が助ける!なんてクラスの面前で宣言した。何せ彼はとてもいい人だ。困っている人がいれば見捨てられないし、きっとこの学校のみんな、冗談ではなく一度は彼に助けられたことはあるだろう。盛大な拍手や黄色い声援をもって、私たちを祝福した。私1人だけがこの異様な光景に戸惑って、明らかに浮いていた。

 こいつもか。こいつも結局おかしな奴だった。断るわけにもいかず、私は引き攣った笑顔で嬉しい、とだけ呟いてその花束を受け取った。

 どうやって別れよう、浮気でもすればいいかな、なんて思っていたけれど、浮気相手も変な人間だったらどうしよう、なんて頭に過ってどうにもならなかった。私が疎遠にしたいと申し出ても、彼は受け入れなかった。悪い敵から姫である私を助けるエピソードが、頭の中で出来上がっていたらしい。もう止められなかった。


「大学へ行く必要はないんじゃないか。高校を出たら自分とすぐに結婚してほしい」


 そう言われた時に私の人生まで勝手に決めないで、と大喧嘩をした。結局別れられなかった。それ以外はとてもいい人だったから。あんな風に言ってしまってごめん、と謝られたので許した自分も悪かった。よく考えたら言い方を謝ってただけだったな。


 そして私は19で妊娠した。大学に入学してすぐのことだった。悪阻で入院もしたし、その辺りの記憶があまりない。避妊してないわけじゃなかった。信用してなかったので、自分できちんと用意してたし。でも、おかしいタイミングがあった。あの時に絶対穴を開けたんだろう。あの野郎、許せない。

 大学の初期費用も既にあのおばあさんに出してもらっていたけれど、彼の両親から借金をしておばあさんに返済した。無駄金だ、本当に。

 彼も学生のくせに何でこんなことを、と思ったけれど、バイトもきちんとこなすし学業にも手を抜かないし、体を壊すんじゃないかとこちらが心配した。投資も勉強した、といってバイトの資金を元手にあっさり資産を作って、すぐに借金を返済してくれた。でも自分の学費も生活費も親から出してもらってるんでしょうなんて、恵まれた人間はやっぱり違うよね、と思った。


 子供はとても可愛かった。本当に辛い状況だったけれど、自分の子供はこんなに可愛いく見えるのか、と心底思った。賢い子で、何を教えてもすぐに吸収した。一緒にいるのが楽しかった。私の唯一の宝物だ。

 彼もとても子供を可愛がってくれていたけれど、何せ忙しかった。難関資格を得るために人一倍頑張っていたし、実際結果も出していた。何不自由ない生活を送らせてくれたし、立派な家を買ってくれた。でもそこにいる時間は少なかった。


 娘との生活は幸せな反面、私はずっと不満でイライラしていた。この人、何をしたかったんだろう。私をここに閉じ込めて、自分は好きな仕事をして。それは私が大学を卒業した後ではダメだったのだろうか。でも、娘の顔を見ると何も言えなくなる。違うタイミングで産まれた子供は、きっとこの子では無いかもしれないから。


 だから私はささやかな反抗として、彼が私に語った幸せな夢を実現させないためにピルを飲み続けた。彼が嫌いだと言ってたタバコも、ピルに影響のない範囲で吸った。

 子供は授かり物だからね、なんて言っていたけれど、明らかに落ち込んでいたのでスッとした。そんなことを思ってしまう時点で、私はもうどこかおかしくなっていたのかもしれない。別にいいでしょう?隣で微笑む控えめな妻に、妻に似た顔の利発な娘。あなたは自分の思い描く幸せを全て手に入れているんだから。


 彼の仕事のパートナーです、と職場の食事会に参加した時によく知らない女に牽制されたけれど、面倒臭いだけでそれ以上は何も思わなかった。彼はきっと彼女とは何もないのだろう。本当のところはどうなのか知らないけれど。でも、この生活が壊れるなら、さっさと全て壊れてしまえばいいとも思った。めちゃくちゃに、ぐちゃぐちゃにして、跡形もないほど。



 卵1パックが入って重くなった鞄を握り直す。私が今住んでいる場所は、とにかくコンビニからも遠いし駅からも遠いし、不便だった。その分、誰からも放って置かれているようで安心した。家賃も安いのに中は綺麗だし、広い。まあ結局、誰も私を放っておいてはくれないのだけれど。


「ただいま」

「おかえりー」


 部屋の奥から同居人が顔を出す。私の方へ歩いてきて、私から鞄を受け取って中の卵パックを取り出した。


「卵ありがとう。オムライス食べたくてさ」


 そう言って、微笑んだ。私はそう、と呟いて洗面所へ向かう。トップスを脱いで洗濯カゴへ放り込むと、彼女が扉を開けて入ってきて、私を後ろから抱きしめた。まだ手も洗ってないのに。呆れて溜息を吐いて、私は問いかける。


「……何?」

「今日、何かあったの?嬉しそうなの、初めて見たかも」


 これだ。この子、とても鋭い。私の今の一連の流れの中で、感情が表出していた部分なんてあっただろうか。どんなに感情を削って生きているつもりでも、雀の涙のような残りを掬い取ってくる。

 だからと言って、しつこくは追求してこない。私はいつも何も話さないし、彼女も特に本気で気にしているわけではない。ただ、気付いたから聞いているだけなのだろう。


「何も。……私、明日から少しの期間、家にいないから」

「へえ。泊まり?デート?」


 そう言いながら、私の下着のホックを外す。私は顔を顰めた。私にこんなことをしているくせにデートかどうか聞くなんて、一体どんな倫理観をしているんだろう。そう思ったけれど、この子は元からどこかおかしいんだった。でも抵抗はしない。

 

「冠婚葬祭で地元へ。数日で戻ると思う」

「なるほど。よかったですね、ちょうど連休で。祝日だから、休みでしょ?」

「そうね」

「じゃあその前に望さんのこと触っておかないと」


 肩紐が下ろされてパサリ、と足元へ下着が落ちた。首筋に顔を埋められて、唇がうなじに触れた。鋭い痛みが走る。


「跡付けないで。冠婚葬祭だって言ってるでしょう」

「見えないところにするから」


 そう言って、やめることはなかった。私は溜息を吐いて、そういえばまだ手を洗っていなかったな、とぼんやり思った。



 この同居人と出会ったのも、もう随分前だ。引越しの挨拶で隣家を訪ねたのが初対面だ。背が高くてスラッとしていて、綺麗な顔立ちをしていた。都会で生まれ育った子は、中学生でもこんなに大人っぽいんだな、と思った。下手したら、童顔で舐められがちな私の方が年下に見られそう。

 隙が無さそうなツンとした表情をしていたが、人好きのする笑顔を浮かべるので夫と娘からの印象は良かったようだ。私はまるで、あなたたちはこういう私が好きなんでしょう、という自己プロデュースが透けて見えて、好ましくは思えなかった。小賢しい子供だな、と。それに粗品を夫が渡す時に、わざと手に触れて微笑んだ。夫を試していたんだろう。幸いにも夫はそれを特に気にせず会話を続けていたが、その様子を見てつまらなそうに表情を失くしたのを私は見逃さなかった。


 極力関わらずに生きていこう。そう思っていたのにあちらから声をかけられた。誰もいないと思っていたのに、タバコを吸っている姿を見られてしまった。突き放すためにキツイ言葉を投げかけたのに、何故か懐かれてしまった。そこまでは良かった。そこまでは。

 彼女は猫のようにスルスルと人の懐に入ってくる。どんなに拒絶しようと思っても、決定的なものがなければ他人をなかなか拒否できないものだ。しかも子供。彼女はそこのラインを計るのがとてもうまい。もうクソガキなんて言い捨てた後で取り繕っても無駄だったので、私は彼女の前では特に神経を張り詰めもせず接していた。それが良くなかった。私が素を見せたり本音を言うと、いつもおかしなことになる。


「望さん、中途半端じゃない?旦那にも内緒なんでしょ?タバコ吸ってたり、私を家に入れてるの。全部嫌で人生諦めてるくせに。もっと、壊すなら徹底的にめちゃくちゃにしないと」


 急に自分が曖昧にしていて、自覚しないようにしていた気持ちを、言語化して突き出してきた。そんなことないとは言えなかった。何も取り繕っていなかったし、今すぐ暴れてめちゃくちゃにしたかったのは本当だったから。それをしないのは、娘がいたからだ。でも、それも言い訳だ。自分には何もかも壊す勇気なんてなかった。

 そう逡巡しているうちに、私は押し倒された。あ、殺されるかもしれない。そう思って彼女の腕を咄嗟に掴んだ。顔を見つめる。こんなことをしているのに、何の表情も浮かべていなかった。ただ、目の前の対象を具に観察しているような、興味深そうに覗き込んでいる無機質な瞳がそこにあった。


「手伝ってあげる」


 そう言って、本当にめちゃくちゃにしていった。

 あんな何でもない顔をして、彼女は全てを引っ掻き回していった。娘とまで仲良くし始めた時はヒヤリと内臓が冷えたような感覚がして、何とか引き離そうとしたけれど、それを人質に取るように私に触れる回数が増えていった。娘がリビングで珍しく昼寝をし始めた時に横で迫られた時、お願いだからやめてと振り絞って言ったのに、じゃあ寝室に行きたいな、と言われ、ああ私はまた取り返しのつかないことをしたのだ、と愕然とした。


 結局夫にはバレた。全てを完璧に整えても、彼女は巧妙に痕跡を残していった。結婚指輪を失くしたと思ったら、わざわざ夫が帰ってくる時間に訪ねて返しに来たときは、震えが止まらなかった。

 でも、私はどうしたかったんだろう。めちゃくちゃに壊したかったのに、それも怖かった。彼女は私の希望を叶えようとしているだけだ。はっきりと拒否を示すだけで良かったのだ。多分。


 離婚はあっさり決まった。正義感の強い彼は、未成年と寝ている自分を理解できないと吐き捨てた。私もそう思う。娘の親権は絶対に取りたかった。でも、未成年のしかも女性と、という点を看過できない、今までのことも疑いたくなる、君はそういう趣向なのか、と問われた。そんな趣味はない。けれど外から見たらそう見えるだろうな、と思って私は娘を手放した。すぐに決断できたわけでは無かったが、長引いて裁判になったところで私が不利になるだけなのは目に見えていた。

 娘のあのスヤスヤ眠る横顔を、あの赤ちゃんの頃の膨らんだ頬のラインがまだ残る、あどけない愛らしい横顔を、もう二度と見ることができないのかと思うと心底辛かった。

 それでも娘の方が何倍も辛い思いをしているのだろう。そして彼も。


 そして私は街を離れて、このアパートで暮らし始めた。お金はあった。受け取るのを断ったのに、断っても君が将来また大学に通いたいと思った時用に貯めていた、とか何とか言っていた無理矢理渡された。また私の未来を勝手に決めていたんだ、と思うと乾いた笑いも湧いた。それで学校に通って、手に職をつけた。別に、学びたかった分野ではない。こんなお金に頼らず自立したかったから、現実的なものを選んだだけだ。その間はとにかく静かに、暗く、神経を張り詰めて、目立たないように生きた。誰とも交流せず、人を避けるような行動を選んだ。こいつになら何をしても何も言わないだろう、と思われてターゲットにされることもあったけれど、それも振り払ってひたすら逃げて、逃げて生きた。

 見た目のせいかな、なんて思って思い切り髪でも染めようかとしたけれど、結局客商売なので許されないな、と思って諦めた。



「お姉ちゃん、お疲れ様」


 妹が私へ乾杯の盃を突き出す。葬式後にそれはどうなのだろう、と思ったけれど、妹の心情を思うと乾杯もしたくなるか、と思って私は応えた。

 大衆向けの安っぽい居酒屋は、ガヤガヤとしていて弔いには相応しく思えないようにも思えたけれど、でもこれくらいが丁度いいとも思った。私たちが喪服であることも、誰も気にしていなかった。


 私が妊娠したと聞いた時、両親もおばあさんも激怒した。約束と違う、阿婆擦れが、と散々電話口で罵られた。悪阻が酷く入院してしまったこともあり、対応の矢面に立ったのは彼と彼の両親だった。あんな非常識な人間たちとは、親だとしても付き合わなくていい、と言って彼と同じように正義感の強いご両親は私を匿って、家に置いてくれた。

 その後、妹が私の役割に据え置かれたと聞いて、私はまた絶望した。妹に背負わせてしまったと。そこから連絡も取らず疎遠だったが、風の噂で私が離婚したことを聞いた時に向こうから連絡が来て、私たちはやり取りを再開した。


「あなたも、お疲れ様。大変だったでしょう」

「全然。本当にお金たくさんくれたもん。安いもんだよ」


 あっさりとそう言い、妹はジョッキのビールを豪快に飲み干した。私は何て返答をしていいか分からなくて、黙って自分の烏龍茶を少し飲んだ。


「まだ気にしてるの?私、本当に何とも思ってないよ。結婚は絶対嫌だけど、地元からも出ないし世話はするっていう約束でめちゃくちゃお金もらえたんだから。本当に、この後の人生、何でもできちゃうよ」

「……慰めてくれなくても大丈夫。本当に、全部背負わせてごめん」


 私がそう言うと、ハアと深い溜息を吐いて妹はごとりと音を立ててジョッキをテーブルに置いた。


「お姉ちゃんこそ、昔から全部背負すぎだよ。私、全然気にしてないよ?だってあの人、あの部屋で1人で過ごしてて、あんな不摂生で長生きなんてするわけないでしょ?本当、大してお世話なんてしてないのに、大金もらえてラッキー」


 ケラケラ笑いながらあっけらかんと彼女はそう言った。びっくりした。私にはそんな発想無かった。そうか、そういう風に考えられれば、私も乗り越えられたのかな。

 何だか、無性に自分が幼くて無知で考え足らずで、矮小な人間に思えてきた。私は妹のように強かに生きられなかった。胸の奥がズン、と沈む。

 妹はそんな私の様子に気付かず、次の話題へ進んだ。


「それよりさ、離婚のこと聞きたかったよ!もう結構時間空いたから聞くけど、何あれ?どうしたの?あの彼氏いい人だったじゃん?暗すぎて聞くに聞けなかったからさあ」


 そう畳み掛けられ、私はどう説明すべきか悩んだ。悩んで、元夫とのことを話した。離婚理由には触れなかった。妹は苦笑しながら焼き鳥をつまんだ。


「教室で跪いてプロポーズはやばいね。周り引いてたでしょ」

「それが祝福ムードで……」

「嘘でしょ?私なら指差して笑ってたよ!見たかったな」


 それもそれで反応に困っただろうけれど。でもそう言ってもらえると、あの時困惑していた私は救われる。そうだよね、おかしいよねって。こういう感覚を共有できるのは妹だけなのかもしれない。


「えー、で、それで不倫でもしてた?その旦那」

「してない、と思う」

「うわ、グレーのまま確かめずに離婚したの?」

「違う。私の不倫がバレた」


 妹の動きが止まった。信じられないような目で私を見て、そして笑い出した。


「マジか!お姉ちゃん、やるぅ!そんなタイプじゃ無かったじゃん!えー、そんなに運命的な相手だった?それとも復讐したかったの?」

「そういうのじゃないけど、そうだね、そうかも」

「どっち?」

「……私って、よく変な目に遭うでしょ?」

「あー、そうそう。よく変人に目を付けられて大変だったよね。家まで追いかけてきたやつとかいたじゃん?私の彼氏が怒鳴って追い返したの、懐かしいね」


 そういえばそんなこともあったな。もう忘れかけていた。それで、男の人がいるってだけで相手の反応がこんなに変わるのか、と思ったんだった。

 妹は思い出したのか、笑いながら話を続ける。


「そっか、じゃあその変な人に復讐してもらったんだ」

「どうかな。よく分からない」

「あーそっか、自分で殴らなきゃ、スッキリしないもんね」

「もう、分からないんだ。自分の気持ちも、何も。……でもおじさんが死んだって聞いて、ちょっと楽になった」


 そう言うと、妹はさっきまで楽しそうだったのに、顔を曇らせた。真剣な眼差しで私を見据える。


「……ねえ、お姉ちゃん。いつまでも暗いままでいる必要ないんだよ。私のこと気に止む必要だって、ないよ?離婚したんだし、もう楽しく生きたっていいんじゃない?何でそんなにずっと暗いの?大丈夫?私、ちゃんと幸せに生きてほしいよ」

「…………」


 そういうわけにはいかない。私は娘を捨てたんだ。何て答えていいか分からなくて、私は曖昧に微笑んだ。その表情を見て、妹は更に暗い顔になった。


「……前にさ、友達と飲んでたら知らない人と仲良くなったの。綺麗な女の人で、背が高くてセミロングの。ちょっと近寄り難い雰囲気だったのに、笑顔が人懐こくてさ。聞き上手だったし、お酒入ってたし、つい話さなくてもいいようなことまで喋っちゃった。お姉ちゃんの、こととか。……探偵だったのかな、って思って……」

「…………」


 あの子だ。


 何故、私の地元を知っているの。どうして妹を尋ねたの。私は何も喋っていない。書類だって、きちんと隠していたはずなのに。

 そこで思い出す。何事も完璧はないんだ。あの子は、巧妙に隙を突いてくる。

 心臓の鼓動が早くなる。私は彼女からの執着から逃れられない。逃げ出したと思っても、またきっと次の誰かがすぐに現れる。


「気をつけて、お姉ちゃん。幸せになってね、本当に」

「…………」


 数年前、私の前にまた彼女が現れた時は驚いた。驚いたけれど、偶然だと思ってた。彼女の現住所と職場が近かったから。こんなこともあるんだな、なんて思っていた。違ったんだ。調べ上げたんだ。自罰的だったから自分の家に彼女が入ってきても、特に止めなかった。良くなかったんだ。また私、間違えた。

 ジワジワと自分の人生を再び侵食されているような感じがした。

 どこまで、壊すつもりなんだろう。


 フラフラした足取りで、私は電車に乗り込んだ。電車の中は空いていて、ボックス席が丸々一つ空いていたので窓際に座った。


「…………」


 バッグの中からお守りのように持ち歩いていた、通帳を開いた。娘名義のものだ。元夫からはいらないと言われたけれど、22歳までの養育費が貯まったら娘に渡そうと決めていた。何かあっても、間違っても、利発な娘が大学に行けないなんてことがないように。目標額まで後少しだ。そう遠くないうちに貯まるだろう。


『幸せに生きてね、お姉ちゃん』


 妹の声が頭の中でこだまする。

 私はこの通帳を娘に渡した後、どう生きていくつもりなんだろう。私は、結局どうしたかったんだろう。自分の人生をうまく思い描けない。でも、とにかく自由になりたかった。


 車窓から街灯もない真っ暗な田んぼを見つめる。私はそのまま、少しだけ目を閉じた。

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