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第四話 『フィアとテラー』

「……ねぇ、まだつかないの〜?」


 赤信号で停車しているパトカーの中に、霞の退屈そうな声が聞こえた。

霞は座席のシートベルトを引き伸ばし、後部のヘッドレストに両腕を回す。

カチカチという方向指示器の音とともに、独特の緊張感が車内に充満していた。


「あの……一つ質問、いいでしょうか?」


 助手席で事件に関する資料を確認していた早乙女が、隣でハンドルを握っている詩織に問いかける。


「はい、なんですか?」


 詩織は顔を動かすことはせず、点滅し始めた歩行者用灯器を確認しながら、短く応じた。


「なぜお二人は、旅館の女将さんが犯人だってわかったんですか?

 入院中ってことで、候補にすら挙がっていなかったはずなのに、どうして……」


 早乙女は手元の資料から目を離して、静かに顔を上げた。

点滅を続ける信号の光を横目に、詩織は淡々と事実を口にし始める。


「……霞さんの推理通り、排水管を通って厨房へ侵入したのなら、出てくるのは厨房の排水口である可能性が高い。

 ……ということで、その蓋を鑑識の方々に調べていただいたところ、科捜研から送られてきたDNA鑑定の結果が彼女――桐ヶ谷 美麗(きりがや みれい)さんのものと一致していたんです。」


 そこまで言うと、詩織は信号が青に変わったのを見て、ゆっくりとアクセルペダルを踏み込む。


「そして、入院に関してですが……

 付近の病院のどこに問い合わせても、彼女が入院していたという記録は一切見つからなかったんです。」


 と、少し進んだ十字路の中央近くで一度ブレーキを踏みつつ、そう告げた。 

 

「え? それって……」

「家を出るための口実かなんかなんじゃないかな? 知らないけど。」


 詩織の回答に対して、僅かな困惑の色を見せた早乙女の言葉に割って入るようにして、霞の言葉が落ちる。


「一週間以上家にいなくても不自然じゃなくて、尚且つ仕事を休む理由にも、擬似的なアリバイにもなるでしょ?」

「……実際、霞さんが気づかなければ、あれ以外の証拠は見つかりませんでしたからね。」


 詩織がそう返すと、早乙女は「なるほど……」と納得したような様子で頷き、再び資料に目を通す。 

いくつかの対向車が通り過ぎたあと、詩織の運転するパトカーは、滑らかに右折を始める。


「それで、今……水下の自宅に向かっている理由は――」


 早乙女がそう言いかけると、突然、ザザッとパトカー内の無線が鳴った。


『楪警部補……申し訳ありません……!

 犯人を取り逃がしてしまいました……!』


 焦りを露わにした男性の声が車内に響き渡る。


「どういうことですか?」


 少しだけ眉を落とした詩織がそう聞くと、雑音混じりの音声が一瞬途切れ、やがて覚悟を決めたように再開した。


『水下が家の鍵を空けた途端、中にいた女性が浴室に逃げ込み……

 浴槽の中に、彼女のものと思われる衣類だけが残っておりましたので、おそらく……!』

「中は確認できたんですね?」

『はい……水下は共犯の容疑を認めたので、捜査に協力的だったのですが……』


 重くなった車内の空気に、沈黙が落ちる。

フロントガラスの向こうでは、人通りの少ない街並みが、流れるように遠ざかっていった。

詩織は一度だけ息を整え、感情を表に出すことなく次の判断へと思考を切り替える。


「……わかりました。報告、ありがとうございます。

 捜索能力に長けた同僚に声をかけておきますので、ここからは彼の指示に従ってください。」

『了解しました……!』


 ブツリと切れた無線の音が、静けさをより一層深くしていく。

 

「ど、どうしましょう……?」


 早乙女は背筋を伸ばしながら詩織を見つめる。

詩織は、ふぅ、と短いため息を吐くと、ハンドルを握る指の力をそっと緩めた。


「そうですね……

 では一旦、霞さんを家までお送りします。」

「え……?」

「こうなると俺は、役立たずのお荷物だからね〜。」


 いつの間にか、霞は取り出したアイマスクを耳にかけ、そのまま背もたれに深く体を沈める。


「その前に、一度捜索班と合流しますので、早乙女巡査はそちらと行動していただけると助かります。」

「わ、わかりました。」 

「ふぁぁぁ……じゃあ寝てるから、着いたら起こして……」


 霞の欠伸を合図にしたかのように、車内は再び静けさに包まれた。

エンジン音とタイヤが路面を噛む低い振動だけが一定のリズムを刻み、パトカーは真っ昼間の道を滑るように進んでいく。

早乙女は背筋を伸ばしたまま窓の外へ視線を逃がし、詩織は無表情で前方を見据えている。

後部座席では、霞の呼吸が次第にゆっくりと整っていった。


***


 一時間ほど経った頃、パトカーはハザードランプを点滅させながら、ガードレールに沿うようにして人通りの少ない道端に停車する。


「……霞さん、着きましたよ。」

 

 止まった揺れと詩織の声に、霞は唸り声をあげながら目を覚ます。

 

「んん……着いた〜……?」

「早く降りてください。こっちは、忙しいんですから。」

「そんなに急かさないでよ〜……

 こっちは寝不足で、三時間しか寝れてないんだからさぁ……」

「平常運転じゃないですか。

 いいから、早く降りてください。」

「はいはい、わかった。わかったよ〜……」


 間の抜けた返事とともにアイマスクを取り外した霞は、のろのろとシートベルトを外す。

欠伸を噛み殺しながら重い腰を上げ、気怠そうに車外へ降りた。

扉が閉まる音を合図に助手席側の窓が下がり、詩織の視線が真っ直ぐに向けられる。


「……とりあえず、確保できたらまた連絡します。

 支払いも確保後でよろしいですか?」

「オッケ〜。」

「ありがとうございます。

 ……では、お疲れ様でした。」

「バイバ~イ。 頑張ってね〜、応援してるよ〜。」


 静かなエンジン音を残して発進していくパトカーを、霞は大きく手を振って見送った。

車影が完全に見えなくなったのを確かめると、彼は踵を返す。

もたつく足取りのまま歩き出し、レンガ敷きの道を進んでいった。


……やがて一つの建物の前に辿り着くと、霞は錆の目立つ外階段を軋ませながら上っていく。

最上段まで登りきると、そこには灰色の地味な扉。

彼は何気なくそれを押し開け、脱力したまま玄関へと足を踏み入れた。 


「ただいま〜……」


 薄暗い室内に、規則正しい時計の音だけが響く。

霞が電気をつけると、掃除の行き届いた部屋が露わになった。

部屋の中央にはガラスのテーブルが置かれ、それを挟むように茶色のソファーが二つ、向かい合わせに並んでいる。

壁際には木製の本棚があり、そこに収まりきらなかった本が、一切のズレもなく積み上げられていた。

 

「……あれ?

 なんか、部屋が綺麗になってる気が……」


不意に、手前のソファーの辺りから、ガサガサッという物音が走る。

その瞬間、霞は正体を確かめる間もなく、本の山に向かって殴り飛ばされた。

 

「ドコ行ッテタンダ、ヘボ探偵ッ!!」

「あ、あぁ……ご、ごめんなさい……か、霞お兄……様……」


 怒気を叩きつける声と、途切れ途切れの震えた声が聞こえる。

霞が床に転がったまま顔を上げると、目の下を赤く腫らした紫紺色の髪の少女と、彼女の髪よりも暗く黒い影のようななにかが彼の顔を覗き込んでいた。


「フィア……来てたんだね……」


 霞はジンジンと痛む頬を撫でつつ、片腕で上半身を起こす。

  

「ケッ! 掃除シテヤッタノニ、感謝ノ言葉モナシカッ!?」 

「たった今、片付けなきゃいけないものが増えたんですけど!?」


 黒い影のようなものの言葉に、霞は散乱した本の山を指さす。


「汚レヲ増ヤシヤガッタノカッ!? ナンテ恩知ラズナ奴ッ!!」

「誰のせいだ! この、黒巾着!」

「黙レッ! コノ、怠惰人間ガッ!!」

 

 両者は至近距離で、額と額と思われる部分を突き合わせ、火花でも散りそうな視線を真正面からぶつけ合う。

にらみ合ってはいるものの、室内に漂う空気はどこか軽い。

その様子を見守っていた少女は、フリルだらけの黒いドレスを揺らし、胸の前で両手を合わせて声を絞り出した。


「あ、あの……あの、ね……?

 か、霞お兄様……きょ、今日もお仕事……お、お疲れ……さま……!」 

「フィア〜♪ 君は、なんて優しい子なんだろう!」


 そう言ってフィアを褒めた直後、霞はすっと視線を横に滑らせる。

 

「いいか、テラー。

 俺は、さっきまでちゃ〜んとお仕事しに行っていたの。

 フィアの中で威張り散らかしてるだけのお前と違ってな!」

「ナンダトッ!?」

「やんのかっ!?」


 こうして二人は、先ほどとまったく同じように、くだらない言い合いに火をつけた。

互いに一歩も引かず、言葉だけが無駄に応酬を重ねていく。

その様子を前に、フィアはしばらく口を開けずにいた。


「……あ、あの……あのね? 霞お兄様、あのね……!」


 ほんの少しだけ経ってから、意を決したように、フィアが二人の間へ声を差し込む。

その声に引かれるように、言い争っていた二人が同時に動きを止め、フィアの方へと顔を向けた。


「さ、さっきね……? 霞お兄様が、帰ってくる前に……

 お、お掃除……してたら、ね……?」


 フィアは、少し前の出来事を思い出すように視線を伏せる。




――――――


 ……二時間ほど遡って、その日のお昼前。

部屋の中では、フィアが小さな体で掃除機を押しながら、黙々と床を掃除していた。

すると突然、玄関先からインターホンの音が響く。


「ごめんくださーい!」


 扉の向こうから聞き慣れない女性の声。

いきなりの来訪者に、フィアは咄嗟に掃除機の電源を切り、一切の音を立てないように息を潜める。


「ごめんくださーい!! どなたかいらっしゃらないのー?」 


 さらに大きくなった声に、フィアの肩がビクッと跳ねた。

彼女は唇をきゅっと噛みしめ、玄関の方へと視線を向ける。

返事をするべきか、それともやり過ごすべきか……

一分程度経ったあと、決心がついたのか、フィアは恐る恐る玄関のドアを引いた。


「……は、はぃ……な、なんで、しょうか……?」

「あら、いたの!? なら、もっと早く出てきてちょうだいよ!!」

「ひっ……! ご、ごめんなさっ……!」

「とにかく、お願いしたいことがあるの!

 ちょっと、入れてもらうわね!?」


 女性はフィアの返事も待たずに靴を脱ぎ捨て、そのまま部屋の中へと踏み込んでいく。

廊下の奥から、何かぶつぶつと文句めいた声が聞こえてきた。

フィアは滲んだ涙を袖で拭い、意を決したように女性の後を追いかける。


                     ―――――――




「ぐすんっ……フィア、立派になって……

 知らない人と話せるようになったんだね……

 お兄ちゃん、嬉しいっ……!」


 ソファーに座った霞は、感極まった様子で目元を擦る。

大袈裟に褒められ、向かい側に座るフィアは少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。

 

「そ、それでね……?

 その人……こ、この男の人のこと……調べて、欲しいって……」


 俯いたまま、彼女はテーブルの上に置かれている透明なクリアファイルから、クリップで留められた二枚の紙を取り出す。

震える両腕を伸ばし、それを霞の前へ差し出した。

霞はその書類と写真に目を落とし、上から順に追っていく。


「え〜、里中(さとなか) 広史(ひろし)、26歳、男性。

 勤務先は都外の部品工場、趣味は釣りとキャンプ。

 実家は静岡で……って、なにこれ?

 なに調べればいいの?」


 事細かに記載されている内容に、霞は首をかしげる。


「え、えっと……この人……

 さ、最近……帰ってくるのが……お、遅いって……言ってて……」


 その言葉を最後に、フィアは再び視線を伏せた。




――――――


「……ソレジャア、コノ男ガ浮気シテル証拠ヲ、見ツケテクレバイインダナッ!?」


 テラーは姿を晒すことなく、甲高い声を上げる。


「え、えぇ……

 貴方、そんな声だったかしら?」

「ナンダ、文句デモアルノカッ!?」

「文句はないけど……

 まぁ、いいわ? それよりも、引き受けてくれるってことでいいのね?」


 依頼人の女性は、空になったティーカップをテーブルに置く。

 

「任セテオケッ! コノ程度、パパット解決シテヤルッ!!」


 俯き続けているフィアをよそに、テラーは自信満々に返事する。

満足げな表情の女性は、それで話は終わりだと言わんばかりに、黙って頷いた。


                      ――――――




「なに、勝手に引き受けてくれちゃってんの!?」


 霞は驚きを隠せずに、思わず声を張り上げる。


「金モ貰ッテオイタゾッ!!」

「いや、一万って! 安すぎるだろ!

 こういう依頼は、危険度、期間で金額が変わるものなの! わかる!?」

「か、霞お兄様……ご、ごめん、ね……?」


 不安そうな顔で見つめてくるフィアを見て、霞は冷静さを取り戻すようにため息をついた。

 

「……まぁ、受けちゃったものは仕方ない。

 やるだけ、やってみるか〜。」

 

 霞はスマートフォンを取り出し、書類に書いてある依頼人の電話番号を入力し始める。

プルプルという着信音が、静まり返った部屋の中で鳴り響いていた。

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