第三話 『水漏れ』
水下 洋祐の自宅から旅館に戻った霞と詩織の二人は、すぐに事務室へと足を運んだ。
椅子に座って休んでいた支配人を呼び出し、彼とともに洗濯室へ向かった。
廊下を進むと、時々、忙しなく働く捜査員たちとすれ違う。厨房へ続く廊下の途中で左に曲がり、少し色褪せた木製の扉の前で、彼らは足を止めた。
鍵を開けて部屋に入ると、傷や剥がれの目立つ壁に囲まれた空間の中で、ひときわ清潔な洗濯機が浮き上がるように目に映る。
鍵のかかっている窓からは、わずかに日の光が差し込んでいた。
「……客室や厨房とは、ずいぶん違うんですね。」
詩織は室内を見渡しながら、支配人に向けてささやかな疑問を口にする。
「ええ……四年前の改装工事のときに、部屋をお客様にお見せするわけでもないんだから、と妻が。」
その答えに、霞が「妻?」と尋ねると、
「この店の女将です。今は、足のケガで近くの病院に入院しているのですが……」
と、彼は少しだけ寂しそうな顔をして、その問いに答えた。
「今は……っていうと、具体的にいつごろから?」
「一週間くらい前……ですかね?
お見舞いには来るな!
……なんて言われてしまいましたが……ははは……」
乾いた笑い声を聞きながら、霞は顎に手を当て、考え込むように目を伏せた。
洗濯室になんとも言えない空気が漂い始める。
「……も、もしかして、妻を疑ってるんですか!?」
わずかな沈黙のあと、焦りを含んだ支配人の声が室内に響く。
霞は頭を掻きながら「つい。」と、穏やかでわざとらしい笑みを浮かべた。
霞の態度に、詩織の表情がくっと引き攣る。
「……なに、その顔。
仕方ないでしょ? 職業病みたいなもんなんだから。
それに――」
「すべてを疑ってこそ、真相にたどり着ける。
ですか?(笑)」
「よ〜し、表出ろ。女性だからって容赦しな――
痛たたたッ! 痛い痛いッ!」
肩を回しながら廊下に向かう霞の耳を、詩織が強めに引っ張り上げる。
「遊んでないで、仕事してください。」
「じゃあ、離して! やるから! ちゃんとするから!」
霞の必死な叫び声を受けて、詩織はぱっと手を離した。
引きちぎられたような熱だけが、霞の耳元に残る。
霞は痛む箇所を押さえつけ、恨みがましさを隠そうともせずに、詩織を睨みつけた。
「アマゾネスめ……」
「なにか、言いましたか?」
「いや、なにも?
さ〜て、仕事仕事! しおりん、サボっちゃ駄目だよ?」
貴方には言われたくないと言わんばかりに、詩織は先ほどよりもムッと顔をしかめる。
そんな彼女を意にも返さず、霞は周囲の観察を始めた。
洗濯機、洗濯籠、窓、換気扇……ぐるりと部屋の中を見渡すが、これと言ってめぼしいものは見つからない。
些細な違和感を探るために、霞は無意識に一歩踏み出す。
その瞬間、足元からピチャッ……という水の音が聞こえた。
「うわっ、なに!? なんかめっちゃ濡れてるんですけど!?」
霞は咄嗟に片足を上げ、ギョッとしたようなひょうきんなポーズで足元を見る。
「水漏れしてますね。 ほら、この場所。」
詩織が指差した場所に目をやると、左端の洗濯機に繋がる排水ホースの傷から、ポタポタと水滴が垂れ出ているのがわかった。
「え!? あぁ、本当だ、ホースが割れてる……
あとで取り替えておかないと……」
肩を落とした支配人の、力の抜けた声が漂う。
霞は、わずかに膨れ上がった排水ホースを眺めている。
少し前までの軽い調子が嘘のように、真剣な眼差しで口元に手の甲を当てていた。
「……霞さん? 急にぼーっとして、どうしたんです?」
その様子に、詩織は首をかしげて声をかける。
直後、霞が慌ただしく部屋の外へと走り出した。
「ちょっと、どこ行くんですか!?
……本当、もう。」
詩織は小さく息を吐き、慌ててその背中を追う。
少しの間ポカンと立ち尽くしていた支配人も、遅れて洗濯室をあとにした。
***
詩織が霞に追いつくと、彼は厨房の端でしゃがみ込んでいる。
霞にしては珍しく、自ら手袋をはめて排水口を覗いていた。
「勝手に動くのやめてくださいよ。」
詩織は眉をひそめながら、彼の背後へと歩み寄る。
霞は手袋を外しながら立ち上がり、どこか余裕のある表情で詩織へと向き直った。
「詩織ちゃん、鑑識ってお願いできる?」
「鑑識、ですか?」
「多分、これがわかれば全部終わり。」
霞は、外した手袋をヒラヒラと揺らし、ニッと頬を上げる。
軽薄とも重厚とも言い難い空気が、数秒だけ流れた。
「……わかりました、連絡してみます。」
そんな中、霞の顔を見てなにかを察したように、詩織は部屋の角へ移動し、スマートフォンを取り出す。
「それと、支配人さん。少し確認したいことがあってさ……」
霞は、にこやかな笑みを浮かべたまま、視線だけを支配人へと向けた。
その目には、先ほどまでの軽薄さはなく、何かを掴み取った者特有の静かな光が宿っている。
その後、いくつかの確認と連絡を済ませ、鑑識の到着を待つあいだ、館内は不思議なほど静まり返っていた。
そうして、しばらくの時間が経ち、日が落ちかけた頃。
その日はひとまず、到着した鑑識と残った捜査官に後を託し、必要な段取りだけを終えた二人は、静まり返った館をあとにした。
***
――翌日。
「いや、悪いね〜。わざわざ呼び出しちゃって。」
相も変わらず、軽薄そうな霞の声が洗濯室の中に響いた。
「別にいいっすけど……なんすか? 話って。」
一時閉業中の旅館に呼び出された水下 洋祐は、若干の不審感を抱きながらも、彼らの要求に応じる。
「いくつか、聞きたいことがあってさ。」
「聞きたいこと……?」
「……まず、この排水ホースに見覚えはあるかな?」
霞は両手を腰の後ろに回し、わざと足音を立てるように大股で移動してから、その場所を指差した。
「そりゃありますよ。
この部屋には、何度も出入りしてるんですから。」
水下は、「何を当たり前のことを」とでも言うかのように、顔と視線だけで霞を追う。
すると霞は、先ほどと同じようにして窓に近づき、それを指をさした。
「じゃあ、あの窓には?」
「だから、ありますって。」
「……なら、君は犯人がどうやって厨房に入ったのかも知ってるはずだよね?」
緩んでいた空気が、霞の問いによってぐんっと重くなる。
扉の近くに立つ早乙女は、身じろぎ一つせずに口をつぐんでいた。
「え……? い、いきなり、なに言ってんすか……!?」
息遣いすら聞こえないわずかな静寂の中で、水下の声色が動揺の色を見せる。
そんな彼に対し、霞は畳み掛けるようにして言葉を放つ。
「君は昨日、事件の犯人がこの洗濯室に入り込むための手助けをした。
監視カメラに映らないための手助けをね。」
「なっ……!? いやいや、訳わかんないって!
つーか、なにを根拠にそんなこと……!」
水下は両手を広げ、説明を求めるように声を張り上げる。
その声に怯む様子もなく、霞は人差し指を立てて、自らの瞳を示した。
「俺は、その人が今最も強く感じている感情を、色で認識できる目を持ってるんだよ。」
それを聞いた水下の口から、「……は?」と戸惑い混じりの息が漏れた。
「その人の体から舞い上がるように、それぞれの感情に対応した色のオーブみたいなものが浮び上がる。
〝赤〟が怒り、〝青〟は悲しみ、みたいな感じでね。」
水下を見据える霞の黒い瞳が、ほんの一瞬、赤色の光を宿す。
水下は無意識に震える足を抑え込むように、ズボンの端を握りしめた。
「だ、だから……? それがなんだって言うんすか……!?」
「俺の経験上、嘘をついている人間の色は、必ず〝紫〟から〝黒〟に変化する。
動揺……つまり、嘘をつかなければいけないという〝焦り〟から、嘘がバレるかもしれないという〝恐怖〟に切り替わるわけだよ。
……そして、君にこの反応が見えたのが、洗濯室へ向かった理由を話していたとき。」
霞の言葉に、水下の肩がビクッと跳ねる。
ばつが悪そうに俯いた彼の姿が、洗濯機のガラス窓に浮かんでいた。
再び訪れた静けさを断ち切るように、詩織が一歩、前に出る。
「我々は旅館に戻ったあと、すぐにこの部屋の確認に向かいました。
一見すると、なんの変哲もない洗濯室でしたが、一点だけ気になるところが見つかったんです。」
「それが、あの排水ホース。
ただ単に水漏れしているだけのように見えるけど、
よぉ〜く見ると、ひび割れたところが変に膨れ上がってるでしょ?」
霞は手の甲を床に向けてその場所を指し示すと、どこか満足そうに息をついた。
視線を水下の目元に戻し、得意げな表情で口を開く。
「ここからは、俺の推理になるんだけど……
聞きたい? 聞きたいよね?
な〜ら仕方ない、聞かせてあげよう。
このスーパー名探偵霞様の、ジーニアスな名推理を!」
場違いなほど明るい霞の態度に、水下はたじろぐ。
額を伝う冷や汗が、霞以外の者たちにも、彼が平静を失っていることを悟らせていた。
霞の声音は相変わらず軽いが、その奥に感情の揺れはない。
彼は水下の反応を一つも取りこぼさぬよう、淡々と視線を向けていた。
「……まず、君に疑いをかけたのは、監視カメラに映っていたのを見つけたときだ。
一時的に封鎖した旅館内にいなかった人物が映像で見つかったんだから、仕方ないよね。
そして、その疑いが強くなったのが、君が彼女の警察手帳を認識した瞬間。」
霞が、隣にいる詩織の頬に人差し指を押し付ける。
詩織は目を細めながら、鬱陶しそうにその指をはたき落とした。
霞は、叩かれた手の甲を擦りながら話を続ける。
「あの時の君には、黒が見えていた。
普通、罪の意識がない人間が警察に声をかけられても黒は見えない。
なぜなら今度は、犯した罪がバレたという〝恐怖〟がない分、なぜ声をかけられたのかという〝動揺〟が強くなるから。
んで、さっきも言ったように、君は洗濯室に訪れた理由を嘘で誤魔化した。
ここで、俺の君への疑いは確信に近づいたんだ。
……でも、犯人なのかどうかを聞いたときには、嘘を言っているように見えなかった。
だから、共犯の可能性が高いんじゃないかって思考を切り替えたんだよ。」
霞は再び排水ホースに近づきながらそう言うと、それを覗くようにしてしゃがみ込んだ。
「そしたら、ここだ。排水ホースの腫れ。
この腫れ方は液体じゃなく、もっと固体に近いなにかに、内側から押し広げられたような腫れ方をしてる。
……料理長さんの死体の喉と同じようにね。」
一段と低い声でそう呟いた霞は立ち上がり、水下に振り向いてから、洗濯機に寄りかかる。
「そこで俺が辿り着いた答えは、
犯人は、液体と固体の中間……スライムのように体を変形させて、この排水ホースから排水管を通って厨房に入り、変形させた体の一部で喉を閉鎖して被害者を窒息死させたんじゃないか、だ。」
霞は自信ありげに腕を組み、片目だけを瞑ってみせた。
「洗濯室と厨房の排水管が繋がってることも、支配人さんに旅館建築時の資料を見せてもらって確認済み。
……で、最初に言った通り、君は犯人が監視カメラに映らないようにするために、あの窓を空けて外からの侵入を手助けした。」
霞は言葉を切り、何も言わずに水下を見据えた。
軽い態度はそのままに、視線だけでなく、場の空気そのものが彼に逃げ場を与えない。
「君と彼女がどんな関係なのか……はまだわからないけど、ここまでが俺の推理。
どう? 合ってるかな?」
「……あ、合ってるわけない……だろ……」
「あれ? おっかしいなぁ、正解だと思ったんだけど。」
霞は、なにもかもを理解しているような顔をして、洗濯機を離れる。
「……まぁ、いっか。
どちらにせよ、実行犯本人に聞けばわかることだしね。」
詩織の隣に立った霞は、扉の前で立っている早乙女に目配せした。
早乙女が小さく頷き、扉に手をかける。
その音を合図に、洗濯室の張り詰めた空気が、ゆっくりとほどけていった。




