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第二話 『異能力とは』

 厨房には、清潔な洗剤の香りと油の臭いが漂っていた。


「これが、料理長さん?」


 霞はしゃがみ込み、まるで汚いものを触るようにブルーシートを摘み上げる。


「ちょっと、不謹慎ですよ! というか、手袋してください!」


 霞の行動に、詩織の慌てた大声が響く。

彼女は小走りで霞に駆け寄り、真っ白な手袋を手渡した。


「シート以外は、触んないから〜。」

「そういう問題じゃないんです!

 言うこと聞かないなら、つまみ出しますよ!?」


 鬼のような形相で睨みつけてくる詩織の圧に負け、霞は渋々手袋をはめる。

二人のやり取りを遠目で見ていた女性警察官が「親子みたい……」と呟くが、彼らには全く聞こえていないようだった。

手袋をつけ終わった霞は、気を取り直して遺体を確認する。


「ふむふむ……なるほど〜?」

「……なにか、わかったんですか?」

「い〜や? 言ってたこと以外は、な〜んも。」


 霞はゆっくり立ち上がり、厨房の中を見渡していく。大きな冷蔵庫と冷凍庫、使い古されたガスコンロやシンク、煙が逃げやすいように高い位置に設置された窓――

どこをどう見ても、普通の厨房に見える。

少なくとも、表面上は。

 「う〜ん。」と唸る霞の横で、詩織は顎に手を当てて考え始めた。


「扉からは、監視カメラがある以上不可能でしょうし、

 窓も人が通れるような構造をしていない……」

 一拍置いて、彼女は呟く。

「犯人は一体、どんな手段を使ってここまで入り込んだのでしょうか……」


 厨房の中に、蛇口から落ちる水滴の音だけが続いている。

二人はそれぞれの場所で立ち止まり、同じ沈黙を共有していた。


「……あ、あの!」


 思考を続ける二人の後ろで、少し震えた声が上がる。

振り返ると、先ほどの女性警察官が、おそるおそる右手を挙げて立っていた。


「一つ、思いついたんですけど……」


 霞は彼女に向き直り、続きを促すように指先で示す。


「はい! じゃあ……」


 と、言いかけたところで言葉に詰まり、こてん、と首を傾げた。


「え〜、名前なんだっけ?」

「あっ……さ、早乙女です……」

「はい、早乙女さん! どうぞ?」


 名前を呼ばれた彼女は、一瞬だけ息を吸い込み、自信なさげに話し始める。


「ええと、その……壁をすり抜けて来た、というのはどうでしょうか……?」


 言葉を選ぶように、早乙女は視線を彷徨わせた。誰かの反応を待つような静けさが、厨房に落ちる。

霞も詩織も、何も言わずにその様子を見つめていた。


「ぁ……監視カメラに映らない場所から、とかなら……」

「それは、ないと思うよ〜。」


 霞は、そう軽く言い切ってから調理台に腰掛ける。

無遠慮な行動に、詩織は無言で彼の腕を掴み、下ろそうと力を込めた。

しかし、霞は体重を預け、引きつった笑顔のまま抵抗する。

早乙女は、二人のやり取りを気にする余裕もなく問い返す。


「な、なんでですか……?」


 その問いに、詩織は一度だけ霞を睨みつけ、乱暴に腕を離した。


「内在できる異能力は、一人につき一つが限界だから……ですね?」


 詩織の答えに、霞は「うむ。」と言いながら頷く。


「ど、どういう……?」


 困惑する早乙女に、詩織は説明を続ける。


「世間的にはあまり知られていないことなのですが、

 医学的に異能力者は、二つ以上の異能力を持って生まれることができないそうなんです。」

「そ。つまり、壁をすり抜けるっていう一つの異能を持っている人が、薬や道具を使わずに、他人の喉をあんなカエルみたいに腫れ上がらせることはできないってことさ。」


 霞は調理台に寝そべり、足をぶらぶらと揺らし始めた。

その隙を見逃さず、詩織は彼を引きずり下ろす。

早乙女は、床にドスンと倒れ込む霞をよそに、再び問いかける。


「なら、複数犯の可能性とかは……」

「その可能性も、低いと思われます。」

「痛ってて……まぁ、異能は身体能力とか身体機能とかの延長線みたいなものだからね〜……」


 霞は床に倒れ込んだまま、身振り手振りと共に解説し始めた。


「超能力みたいに誰かになにかを付与する〜とか、

 魔法みたいになにかを放つ! 

 ……みたいなことは、できないわけよ。

 壁をすり抜けられるのは、その人一人だけってこと。オーケー?」

「お、オーケー……です。」


 早乙女は小さく頷いたものの、まだ腑に落ちきらないような顔をしている。

 霞は、ころん、と体勢を変え、腕を組んで天井を見上げた。


「う〜ん……ここだけ見ても、ちょっと難しいかな〜……」


 そう言って床から起き上がり、背中についた汚れを叩き落とす。


「とりあえず、監視カメラの映像って見れる?」


 霞は、ぼーっとしている早乙女に問いかける。


「監視カメラ……は、はい! すぐに!」


 彼の視線に気づき、早乙女は慌てて厨房を出ていった。

彼女の気配が消えると、霞は改めて厨房全体を見渡す。

目に映るのは、整いすぎた現場と、説明のつかない違和感だけ。

……だが、いくら眺めても、決定的な手がかりは見つからない。

霞は小さく息を吐くと、詩織とともに早乙女の後を追った。


***


 二人が早乙女に追いつくと、フロントの裏にある管理事務室に通される。机の上のパソコンには、廊下に設置された四つの監視カメラの映像が並んで映し出されていた。

霞は、ワークチェアに腰掛け、机に肘をつく。顎を腕に預け、だらけきった様子でモニターを眺め始めた。


「ん~……」

「……」

「ん〜〜〜……」

「うるさいですよ。なんですか?」

「いや? 唸ってただけ。」


 霞の左後ろに立っていた詩織は、肩を落として瞼を閉じる。


「はぁ……あの、やる気ないなら――」

「あっ、そこ! そこ、戻して!」


 霞は詩織の言葉を途中で遮り、隣に座る早乙女に声を飛ばした。


「ど、どこですか?」

「さっきの。三番の左下。」


 早乙女が映像を巻き戻すと、灰色のTシャツを着た、背の低い男性が歩いているだけ。手荷物は持っておらず、サンダルを履いているように見える。顔は見えない。

だが、短く剃り込んだ頭だけは、はっきりと映っていた。

 霞は、画面に映るその男を指差す。


「この人、いなかったよね?」


 詩織は体を乗り出して、まじまじと映像を見る。


「……いませんでしたね、この方は。」


 そう言って詩織は、扉の近くで所在なさげに立っていた支配人へと振り返った。


「……え?」

「この方は?」

「あ、あぁ、はい。ええとぉ……」


 彼は躊躇うように机に近づき、パソコンの画面を前に身をかがめる。かちゃりと丸眼鏡を押し上げると、四分割されたその一角に目を凝らした。


「……あぁ! 水下君ですね! 水下 洋祐(みずした ようすけ)

 去年から、うちで働いてる新卒の子です。

 そういえば今朝、忘れ物をしたとかで、洗濯室の鍵を借りに来ましたが……」

「彼は今、どちらに?」

「休憩室にいなかったなら、休みだと思いますけど……」


 それを聞くと、霞は立ち上がるやいなや、気だるそうに両腕を揺らしながら事務室を後にする。そんな彼の背中を一瞬だけ見送り、詩織は支配人に向き直った。


「彼の住所を、教えていただけますか? もちろん、捜査協力の一環として。」

「は、はい。少々、お待ちください……」


 支配人は、従業員関連の書類を確認しに自分の席へ戻る。住所を聞いた詩織は、一旦早乙女に現場を任せ、荷物をまとめて旅館を出た。

駐車場のど真ん中で大きなあくびをしている霞を見て、彼女は深いため息をつく。

鍵を空けて運転席に乗り込み、後部座席に乗り込んだ霞の姿を確認すると、東京都北区にある水下 洋祐の家へと車を走らせた。


***


「……ピンポ〜ン。」

「口で言っても意味ないですから、インターホン押してください。」


 少し嫌そうな顔をして、霞がインターホンを押す。

やがて玄関の扉がゆっくりと開くと、甘ったるいグルマンの香りが鼻を突く。その後に続くようにして、お風呂上がりの清潔な香りが漂い始める。

その先に、灰色のTシャツを身に着けた筋肉質な男が姿を現した。


「はーい。どちらさ――」

「警視庁捜査一課の楪です。」


 男は、驚いた顔で詩織が見せた警察手帳を見る。


「け、警察……?」


 彼の様子を見て、霞は一瞬だけ目を細めた。

しかし、すぐに表情を緩め、軽い調子で声をかける。


「ども〜、一色で〜す。

 水下 洋祐さん、ですよね?

 少し、お話しいいですか?」


 まるで世間話でも始めるかのような口ぶりに、水下は困惑した様子を見せた。

しかし、再び詩織の警察手帳に目をやると、躊躇を振り切るように家の外へと身を移し、背後でガチャリと扉を閉める。


「いいっすけど……なんすか?」

「あ、もしかして、どこかにお出かけする予定とかあります?」

「いや、ないっすけど……?」


 霞は、彼を見定めるかのように、「ふ~ん。」と鼻を鳴らした。

一拍だけ間を置くと、霞はふと思い出したように話し始める。


「……そ~いえば、おたくの料理長さん、殺されちゃったみたいなんですよ〜。」

「……え?」

「なにか、心当たりとかありません?」

「知らないっすよ……? てか、料理長殺されちゃったんすか……?」


 水下はそう言い終えると、気まずそうに視線を落とした。

沈黙に重ねるように、霞が言葉を差し込む。


「今朝は旅館にいましたよね? 監視カメラに映ってたみたいなんですけど〜。」

「あぁ……あれは、忘れ物したんで行っただけっす。」

「忘れ物?」

「うちの職場、休日の前の日まで着てたコックコートとか前掛けは、旅館の洗濯室にある籠に入れておかないといけないんすよ。」

「それは、なぜ?」

「洗濯してくれるからっすよ。昨日入れ忘れてたんで、入れに行ったんっす。」


 なんの変哲もないその答えに、霞の眉がピクリと動く。

ただ、次の瞬間には、何事もなかったかのように聞き込みを続ける。


「そ~だったんですか。

 じゃあその時に、なにか気になることとか、ありませんでした?」

「気になることっすか? ……特に無かったと思いますけど。」

「そうですか〜、残念。」

 

 霞はそれ以上踏み込まず、あっさりと話をきり上げた。

肩の力を抜くように背筋を伸ばし、先ほどまで相手の反応を計っていた視線を外す。 

 

「……そういえば君、彼女とかいるの?」


 場の空気が少しだけ緩んだかと思えば、霞は突拍子もない問いを水下に投げかけた。

 

「……はい? いきなりなにを――」

「いるの? いないの?」 

「……今はいないっすけど、それがなにか?」


 苛立ちを隠しきれない表情の水下をよそに、霞はにへらと笑って顎を上げると、


「いや、聞いてみただけ〜。」


 と、とぼけた調子で一言返す。

その声色には、先ほどまでの探るような鋭さが、意図的に混じっていないようだった。


「ちっ……」


 水下は眉間に深い皺を寄せて、思わず舌打ちをする。

しかし霞は、そんな彼の態度を意にも介さず、茶化すかのように間の抜けた笑みを浮かべた。


「え? もしかして今、舌打ちした?

 やだ、こ〜わ〜い〜。そんなに怒んないでよ〜。

 人殺したばっかで、気が立ってるのはわかるけどさ〜……」

「…………は?」 

「君がやったんでしょ? 料理長さんのこと。」


 低くなった声とともに、霞の瞳が鋭く光る。

射殺すような眼光は、戸惑いを浮かべた水下の些細な挙動でさえも、漏らさずに捉え続けていた。


「な、何言ってんすか!? 俺は、やってないっす!!」

「でも、目ぇ泳いでますよ?」


 短く息を呑む音だけが、二人の間に重く落ちる。逃げ場のない視線だけが、震える水下を縫い留めていた。

そんな空気を断ち切るように、霞の表情に笑みが戻る。


「……な〜んて、冗談冗談。

 言ってみただけだから、安心してよ。

 今のところ、証拠もないし――」


 その軽口で、場を覆っていた緊張がわずかに緩む。


「……霞さん。」


 すると、それまで一切口を挟まなかった詩織が、霞の声を制するように口を開く。


「ご協力、ありがとうございました。

 また、何かあればお話を伺いに来るかもしれませんので、その際はよろしくお願いいたします。」


 そう言うと、詩織は水下に向かって一礼し、霞を促してその場を離れていった。


「……てことらしいから、またね〜。

 ……あ、いろいろ言ったけど、あんなこと思ってないから気にしないで〜!」


立ち尽くす水下に手を振り、霞は彼女の背を追って歩き出す。

バタンと扉が閉まると、二人を乗せたパトカーのエンジン音が、お昼時の街中に鈍く響いた。


***


 車通りの増えた路上に、赤いパトランプが反射している。パトカーの中――少しだけ空いた窓の外から、冷たい風が流れ込む。


「まったく……市民に、捜査状況教えてどうするんですか。」


 ハンドルを握る詩織の声が、走行中の車内に落ちた。


「え〜、いいじゃん別に。ホントのことだし。」

「異能事件なんですよ? 証拠消されたら何の手がかりも……」

「へ〜きだよ。ダイジョブ、ダイジョブ。」


 彼女の心配をよそに、霞は頭の後ろで腕を組み、気楽そうにシートへ身を預けている。


「……はぁ。」

「しおりんは、心配性だなぁ。」

「その呼び方やめてください。鳥肌立つので。」

「え〜ん、悲し〜。

 もう半年経つんだから、あだ名くらいいいじゃ〜ん。」

「私は協力者なだけで、貴方の友人ではありませんから。

 そこだけは、間違えないでください。」


風よりも冷たい詩織の態度に、霞は「ぶ〜ぶ〜!」と不満そうな声を上げた。

そんな彼の小さな抗議を、詩織は顔色一つ変えずに受け流す。


「……それで、彼は?」

「彼って?」

「水下 洋祐は、どうだったんですか?」


 詩織は霞に向かって、肩越しに問い直す。

目の前の信号が赤に変わるのと同時に、わずかな沈黙が、この車内に落ちた。

 

「……あぁ、可能性は高いと思うよ。」


 先ほどまでの軽い様子から一転し、霞は真面目なトーンでその質問に答える。

フロントガラスの向こうで、山の影が次第に深くなっていく。

山間に近づいたパトカーの中に、言葉にできない緊張感が充満する。

 

「あ。毎回言ってるけど、〝黒〟が見えたからって、本当に黒だとは限らないからね?」

「……わかってますよ。」


 詩織は、ハンドル越しに伝わる振動を、強ばり始めた指先で受け止めていた。

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